チェチリア工房

ここは、工房という名の音楽室です。音楽は目に見えませんが、必ず何かを創造しています。天井が高く素晴らしい音響が自慢のスペースです。レッスンやコンサート その他、創作活動の発表にご利用ください。
 
2019/11/21 1:08:48|解説
飴売りから楽隊広告まで・・・日本の中の様々な音楽シーン(8)
楽器を用いて、口上を述べたり物を売り歩く職業としては江戸中期より「飴売り」があった。

芝居小屋では鳴り物の囃子が客寄せに使われていた。

「飴勝」は法善寺を拠点として活動していた飴売りで拍子木を用いた見事な口上がかわれ、寄席の宣伝を請け負うようになった。

飴勝の仕事をひきついた「勇亀(いさみかめ)」は「東西、東西(とざい、とうざい)」と宣伝をおこなっていたことから、東西屋とよばれるようになり、東西屋は街頭宣伝業の一般名称になった。

「紅かん」は安政期から明治初期に活動していた大道芸人で下町で人気を博していた。大正期にも「紅屋の勘ちゃん」という男がいて、腰に付けた小太鼓と三味線をバチで一緒に鳴らして街をあるいた。

明治20年代には大阪で丹波屋九里丸やさつまやいも助が雄心的な存在となり、東京では秋田柳吉の広目屋が楽隊広告を始めた。広目屋は秋田柳吉が八重洲で開業した会社の屋号で、命名は仮名垣魯文だった。その後、楽隊を用いた路上広告を一般に広目屋と呼ぶようになった。広目屋は広告代理店、装飾宣伝業の先駆けだけでなく、新聞を発行したり、活動写真や芝居などの興行全般にも手を広げていった。
*絵は広目屋野広告 鈴木春風の写本

1874年に木村屋がうりだしたあんぱんは文明開化の象徴の食べ物として明治天皇のお墨付きをもらい、そのせんでんに初めてチンドン屋を用いたとされている。

丹波屋九里丸は柏屋開店の仕事の際に、忠臣蔵になぞらえた音楽入りの口上をやり、評判となった。

西洋楽器による街頭演奏は軍楽隊による行事や式典から、mン巻にも起こった。明治20年に結成された東京市中音楽隊はさいしょの民間吹奏楽団とされる。

その後1885年、チェリネ曲馬団の来日など、外国の楽団の宣伝演奏やラッパを用いた広告などがおこなわれた。

楽隊は軍歌の流行や出征軍人の壮行会の機会が増え、日清戦争を境に流行し、以後活動写真やサーカスの巡業、煙草や歯磨きの大規模な楽隊広告が行われ、地方にも楽隊は広まっていった。

楽器広告は1889年に広目屋がキリンビールの宣伝を請け負い大阪にも音楽隊の宣伝がおこなわれるようになった。









 







2019/11/20 0:34:17|解説
鉄砲商人高橋信治 音楽のシーンに登場する日本人(7)
映画の起源は1891年 トーマス・エジソンが発明したキネトスコープで、それを用いて日本で最初に上映されたのは1896年神戸の神港倶楽部で鉄砲商人 高橋信治が上映したのが始まりである。
当時の映画は大きな箱の中の動く映像を覗き穴から見るもので、映像だけで音はなかった。
続いて、フランスから、おおきなスクリーンに映像を写すシネマトグラフが輸入され、1897年に大阪で最初の興行が行われた。

日本人による映画撮影としては、1898年浅野四郎による短編
「化け地蔵」「死人の蘇生」。翌年には「小西商店」(後の
小西六写真工業)の浅野四郎が東京歌舞伎座で公開された舞台を実写撮影した無声サイレント映画「芸者の手踊り」が上映され、活動弁士が登場した。初期の映画はにほんでは別名「活動写真」と呼ばれ、映画館は「活動小屋」(写真)ともよばれた。

1899年には劇映画が恒常的につくられるようになり、三越の写真部の柴田常吉は九世市川團十郎・五世尾上菊五郎の「紅葉狩」を歌舞伎座裏の野天で撮影した。







2019/11/18 23:54:05|うたのわ
うたのわの報告(11月18日)
はやいもので 令和元年のうたのわも
今日を含めてあと3回!

消化不良にならないように・・・曲目を減らしていたのが
また、いつのまにか、曲数が増えてしまいました。

もっと、じっくり歌いたい方も多いのでしょうね・・・
スミマセン!欲張りなもので・・・・
それに、皆さんついてきてくださるので・・・

今日の練習は「柔らかい声」がテーマ
喉やあごの筋肉を柔らかく・・・
心も柔らかく!

今日の練習
・ゆりかごの歌
・旅愁
・ふれあい
・真夜中のギター
・初恋
・童神
・ありがとうのはな

次回の練習は12月2日です



 







2019/11/17 23:47:55|うたのわ
11月18日うたのわです
11月の後半のうたのわ 18日2時から実施します

練習曲
・いつも何度でも
・ありがとうの花
・初恋
・ふれあい
・その他・・・お楽しみに

今年も残り少なくなってきました。
健康で一年を締めくくり出来ますように、おおきな声で歌って
風邪や疲れに負けない体を作りましょう!!!







2019/11/17 23:30:02|解説
「音楽と文学」・・音楽のシーンに登場する日本人(6)
1916年3月、「音楽と文学」が太田黒元雄の声かけにより、発行された。同人には、小林愛雄・二見孝平・堀内敬三・菅原明朗らがいた。
 
一方、竹久夢二の表紙で大正期の歌の世界をリードしていた「セノオ楽譜」では二見幸平が訳詞を発表し、堀内敬三も舞台とセノオ楽譜に静養の歌の日本語訳を次々と発表して、「君よ知るや南の国」は大ヒットした。これは音楽好きの堀内敬三が少年時代、自分の楽しみの為にメモにのこしていた歌詞だったとのことだ。
明治期の終わり頃、近藤朔風の現在でも歌われている訳詞「野ばら」「菩提樹」が発表されていた。
堀内敬三の訳詞が次々にセノオ楽譜に発表されている頃、小松耕輔・大和田愛羅の音楽普及会が音楽の通俗化を目的として生まれ、庶民の中に西洋音楽が浸透していった。
そして、山田耕筰の新しいスタイルの音楽、舞踏家、石井漠の未知の世界への挑戦、高木徳子・伊庭孝の浅草オペラの勃興などから、東京音楽学校とは別の流れの音楽活動も活発になっていった。



 







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