チェチリア工房

ここは、工房という名の音楽室です。音楽は目に見えませんが、必ず何かを創造しています。天井が高く素晴らしい音響が自慢のスペースです。レッスンやコンサート その他、創作活動の発表にご利用ください。
 
2019/11/24 19:08:04|解説
タンゴブーム・・・・日本の中の様々な音楽シーン
今、密かにタンゴブームが過熱中とか・・・・

1950年代、日本ではタンゴブームがありました。その立役者の一人藤沢嵐子さんについて書きます。
藤沢嵐子さんは、2年前、カチョ・カルドーソさんに、「思いの届く日」を教えて頂いている時に、参考に聴いてみなさい・・・と教えて頂いたタンゴ歌手です。(1925・7・21〜2013・8・22)

東京生まれ、1943年に東京音楽学校、声楽予科に入学翌年本科に入学したが、満州紡績工場に赴任していた父の招きで満州に移り、女工たちに歌を教えて日々を送った。

日本の敗戦後、大運に移り、家計を支えるためにダンスホールで歌い始め、1947年日本に引き揚げて来た。

日本デモダンスホールで歌う等の歌手活動を行い、原幸太郎と知り合い彼のバンドで歌い始め、早川真平(後に夫となる)の元で本格的にタンゴを学んだ。

1953年には、更なる勉強の為にアルゼンチンに向かい、演奏旅行の途中でフアン・ベロン大統領夫人、エバ・ベロン(エビータ)の追悼コンサートに出演したり、ラジオ番組に登場する等、アルゼンチンで絶大な人気を得た。

日本でもタンゴブームが起こり、「タンゴの女王」と呼ばれ、紅白歌合戦にも5回出場した。

1980年のタンゴ100年祭には一時的にタンゴに復帰し、「タンゴ五月祭」などの活動を行ったが1991年6月のコンサートを最後に引退した。







2019/11/23 23:18:00|コンサート
小嶋陽太・坂本里沙子 ジョイント
小嶋陽太・坂本里沙子 ジョイント・リサイタル

大磯出身の同級生二人が奏でるコンサート
小嶋陽太さんとピアノの坂本さんは3才の時から
のお友達どおし

もともと息が合った二人の演奏は本当に楽に
音楽が流れていく心地よさ

ピアノの坂本里沙子も素晴らしい
ソロはソロとしての主張ある演奏を
伴奏は伴奏として、
すばらしく、精度の高いアンサンブルを聴かせて頂きました
しかも、様々な曲の世界を
それぞれの世界として聴かせて頂きました

テノール歌手 小嶋陽太さんの
人柄が溢れるトークと歌唱
心温まる音楽の世界を楽しませていただきました。




 







2019/11/23 0:11:25|コンサート
小嶋陽太・坂本里沙子ジョイントリサイタル
大磯出身の二人
小嶋陽太・坂本里沙子 ジョイントリサイタル
11月23日(土)2時開演予定です。
チケットは完売の為、当日売りはありません。

悪しからず、ご了承ください







2019/11/21 23:49:00|コンサート
令和元年をロマンチックに締めくくるクリスマスジャズ
令和元年のステキなフィナーレ
楽しい ジャズ・クリスマス・コンサート
The  Twin Pianos の2台のピアノとヴォーカル

クリスマスにふさわしい・・・
ロマンチックで楽しくステキ、
そして心にのこるコンサートです。

きっと 幸せな気分が舞い込んで来る・・・・
実力派ピアニストと最高にハッピーなエンターティナー
リコと阿部紀彦の二人による、
2台のピアノの
アンサンブル・ジャズをどうぞ、お楽しみください

12月22日(日)開場13:30 開演14:00
チケット 2500円
会場 チェチリア工房
当日券もあります

チケットの申し込みはこのブログのお問合せコーナーからも出来ます。または、チェチリア工房にTEL またはFAXでお申込みください。(お電話をいただいた時、留守の際はご連絡先とメッセージをお願いします。折り返し、ご連絡させていただきます。)







2019/11/21 1:08:48|解説
飴売りから楽隊広告まで・・・日本の中の様々な音楽シーン(8)
楽器を用いて、口上を述べたり物を売り歩く職業としては江戸中期より「飴売り」があった。

芝居小屋では鳴り物の囃子が客寄せに使われていた。

「飴勝」は法善寺を拠点として活動していた飴売りで拍子木を用いた見事な口上がかわれ、寄席の宣伝を請け負うようになった。

飴勝の仕事をひきついた「勇亀(いさみかめ)」は「東西、東西(とざい、とうざい)」と宣伝をおこなっていたことから、東西屋とよばれるようになり、東西屋は街頭宣伝業の一般名称になった。

「紅かん」は安政期から明治初期に活動していた大道芸人で下町で人気を博していた。大正期にも「紅屋の勘ちゃん」という男がいて、腰に付けた小太鼓と三味線をバチで一緒に鳴らして街をあるいた。

明治20年代には大阪で丹波屋九里丸やさつまやいも助が雄心的な存在となり、東京では秋田柳吉の広目屋が楽隊広告を始めた。広目屋は秋田柳吉が八重洲で開業した会社の屋号で、命名は仮名垣魯文だった。その後、楽隊を用いた路上広告を一般に広目屋と呼ぶようになった。広目屋は広告代理店、装飾宣伝業の先駆けだけでなく、新聞を発行したり、活動写真や芝居などの興行全般にも手を広げていった。
*絵は広目屋野広告 鈴木春風の写本

1874年に木村屋がうりだしたあんぱんは文明開化の象徴の食べ物として明治天皇のお墨付きをもらい、そのせんでんに初めてチンドン屋を用いたとされている。

丹波屋九里丸は柏屋開店の仕事の際に、忠臣蔵になぞらえた音楽入りの口上をやり、評判となった。

西洋楽器による街頭演奏は軍楽隊による行事や式典から、mン巻にも起こった。明治20年に結成された東京市中音楽隊はさいしょの民間吹奏楽団とされる。

その後1885年、チェリネ曲馬団の来日など、外国の楽団の宣伝演奏やラッパを用いた広告などがおこなわれた。

楽隊は軍歌の流行や出征軍人の壮行会の機会が増え、日清戦争を境に流行し、以後活動写真やサーカスの巡業、煙草や歯磨きの大規模な楽隊広告が行われ、地方にも楽隊は広まっていった。

楽器広告は1889年に広目屋がキリンビールの宣伝を請け負い大阪にも音楽隊の宣伝がおこなわれるようになった。









 







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