チェチリア工房

ここは、工房という名の音楽室です。音楽は目に見えませんが、必ず何かを創造しています。天井が高く素晴らしい音響が自慢のスペースです。レッスンやコンサート その他、創作活動の発表にご利用ください。
 
2019/11/15 19:30:00|解説
江戸時代の音楽家 音楽シーンに登場する日本人(4)
江戸時代の音楽家・・・知名度の高い方

・八橋検校(やつはしけんぎょう)江戸時代前期の音楽家。検
 校( 社寺やその行事を総裁する名誉職的な僧職。検校は頭巾・衣類・杖な  どの所有が許された(写真左)

・竹本義太夫(たけもとぎだゆう)江戸時代の浄瑠璃語り。
 義太夫節浄瑠璃の創始者。本名五郎兵衛。
 初期には清水五郎兵衛と名乗る。 (写真右)     

・杵屋巳太郎(きねやみたろう)長唄三味線方 7代目は人
               間国宝。当代は8代目

・杵屋六三郎(きねやろくさぶろう)長唄三味線方

・杵屋佐吉(きねやさきち)江戸時代から続く長唄三味線方

・杵屋六左衛門(きねやろくざえもん)近世前期以来の長唄宗
 家。杵屋の始祖とされるのは杵屋勘五郎で15代目。六座衛
 門名が宗家の名として定着したのは9代目以降。3代目から
 は三味線方。14代目から唄方。

・富士田千蔵(ふじたやせんぞう)長唄唄方
 
・杵屋勝四郎(きねやかつしろう)長唄三味線方・唄方

・田中伝左衛門(たなかでんざえもん)歌舞伎の長唄囃子方
 田中流宗家家元

・杵屋正次郎(きねやしょうじろう)長唄三味線

 







2019/11/15 0:44:14|解説
黒船 音楽シーンに登場する日本人(3)
日本人が最初に聴いた西洋音楽は黒船がもたらした。

日本で初めて洋楽の楽器演奏が行われたのは、1844年長崎。オランダのコープス使節団がオランダ国王の親書を携え、上陸、「ネーデルランドの血(国家)」を演奏した。
1842年にメキシコに漂着した日本人漂流民がメキシコの楽団の演奏を見聞した記録が残っている。

1846年にはアメリカのピッドル遠征隊が浦賀に来航。

1853年ペリー艦隊。久里浜に上陸する数日前に讃美歌をえんそうして、日曜礼拝を行った記録がある。
軍楽隊は大太鼓1名、小太鼓3名、大ラッパ2名、小ラッパ2名、横笛2名、縦笛2名 シンバル1名でヤンキー・ドゥードゥルを演奏した。

1954年第2回目の来航で日米和親条約が横浜で締結された。
この時の光景や楽器について、日本側やアメリカ側の絵師が詳しく記録している。

条約締結後ペリーは下田にやってくる。軍楽隊は行進をして、了仙寺に到着したが、その時の演奏曲について、定かではない

ペリーが上陸して初めて日本で演奏した曲はヤンキー・ドゥードゥル。黒船がはこんで来たこの音楽は、ミンストレルズショーと呼ばれる大衆演劇で披露された。そのほか、フォスターの曲などが演奏された。

ペリーが日本に上陸して、音楽会を主催して開催したのは、6月16日で、日米交流160周年記念ペリー黒船音楽紀行「アメリカポピュラー音楽伝来フェスティバル」が2014年に160年前と同月同日の当時とほぼ同じ開演時刻に、ペリーの寄港地、横浜、下田、函館、那覇を巡回して行われたそうだ。


 







2019/11/14 0:23:51|解説
パリ万博 音楽シーンに登場する日本人(2)
パリ万国博覧会(パリ万博)
今回は音楽に拘らず、日本が西洋の文化や芸術を取り込むきっかけとなった、パリ万博についてです。
パリ万国博覧会はパリで複数回開催され、その会場づくりの為に様々な施設が建設されました。詳しく見てゆくと、開催国の政治的・社会的な背景や参加国の動きが見え、とても興味深いものです。特に日本が初参加をした1867年、1878年については、日本の出展に対し、各国の反応等とても、面白いものです。

1855年 1852年に皇帝となったナポレオン三世の統治下で開
     催された。この博覧会からボルドーワインの格付け
     が公式に決まった
1867年 エッフェル塔の建設が始まった。日本が初参加し
     た。日本からの出展は江戸幕府、薩摩藩、佐賀藩。
     葛飾北斎らの浮世絵・錦絵(上記写真)、磁器、工芸品。和装で茶をい
     れる日本女性が人気だった。
1878年 パリの美術界でジャポニズムが沸き起こって来た時
     代と重なる開催で、日本からの出品は印象派の絵画
     に影響を与えた。
1889年 ドビュッシーは会場でジャワ島のガムラン音楽を聴
     き、初めて東洋音楽に触れることになった。
1900年 第2回近代オリンピック パリ大会と同時に開催され
     た
1925年 現代産業装飾芸術国際博覧会

1937年 近代生活における芸術と技術の国際博覧会

1947年 都市計画と移住の国際博覧会

 







2019/11/12 20:41:00|解説
音楽シーンに登場する日本人(1)
日本に於ける西洋音楽史

近代日本が西洋音楽を受け入れる経緯には1879年
文部省が設置した「音楽取調掛」を抜きには語れない。

1879年、明治12年は西南戦争の翌々年。琉球藩が廃止され、沖縄県が設置された。東京府が開かれ、自由民権運動の展開と諸事件が激化してきた頃だ。世界では、英領インド帝国が成立。前年にはベルリン会議が行われ、パリ万国博覧会には日本も参加し、
海外に日本の文化を広くしらしめていた。
コレラが大流行し、朝日新聞が創刊となった。

「音楽取調掛」の調査研究の目的の一つには「東西二洋の音楽を折衷して新曲を作る」ことが掲げられ、日本では、西洋音楽が積極的に輸入されることになった。

「音楽取調掛」は東京音楽学校と改称し、ここで学んだのが滝廉太郎(写真左)、山田耕筰(写真中央)らであり、そこから40年後、團伊玖磨、芥川也寸志、黛敏郎らの注目すべき作曲家が現れた。

こうのような気運の中、1967年にニューヨーク フィルハーモニックの記念行事の為の作品が武満徹(写真右)に委嘱され、「ノヴェンバー・ステップス」を発表した。この曲は日本の伝統楽器である、尺八と琵琶を独奏楽器として、オーケストラと協奏させる楽曲で和洋折衷にも通じる、新しい響きを持った作品である。

武満とともに、委嘱を受けた作曲家にはシュトックハウゼンやベリオがおり、日本の作曲家が西洋音楽の作曲家として、世界の音楽家と肩を並べることとなった。日本の西洋音楽への意識が始まって、88年目のことである。







2019/11/11 23:25:00|あれこれ
音楽シーンに登場する日本人
令和元年の今年も、余すところあと50日あまり
大きな歴史の中にある節目の1年です

西洋音楽を学び今は教える立場でもありますが
その西洋音楽が日本に入ってきた当時の事を
知識として持っていません。

令和元年ということで、この機会に改めて、
音楽のシーンで名を遺した日本人について
調べてみようと思いました

これから年末に向け
様々なジャンルを広く見渡しながら
研究しながら、皆さんに紹介していきたいと思います

では
明日から・・・どうぞお楽しみに







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