オッキリのように あるいは縁側での対話
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酷烈なまでの熱さがつづいた二十世紀最後の夏、私は角田氏経営の「雪国茶屋」の縁側に座し、奥会津書房会員諸氏と対面座談する機会に恵まれた。三十年も前に角田氏が裏の畑で発見したという縄文の石棒をシャーマンの心持ちでうち振りつつセッションに身を委ねていると、いつもの私に棲みつく苦虫が快虫”に変身してゆくのを実感できた。散会後、西隆寺におもむいて縁なるワラジを脱ぎ、すばらしい縁側(磨き上げられた大廊下)でツバメの姿をみながらしばしくつろいだ。その席で、会津高田町在住の詩人蛯原由起夫氏の強いうながしを受け、遠藤太禅老師の幾冊かの著書をはじめて手にした。ここではその一冊『私に光ある手紙をください』(地湧社)のみにふれる。これはモノカキが見据えるべきモノもしくはモノノケの実相をモノカタリ的に伝える本である。本書の内容を詳述するイトマはないので、いささか唐突になるかもしれないが、モノやムシが光り輝く次の一節は、やや長めの引用に値する。
柿の木には日頃山羊を繋いで置いた。どうしたわけか、山深く入らなければ山羊が食べるような柔らかい草はなかった。朝早く妻と山に入り朝露にぬれながら一日分の草を刈ってきたが、疲れて朝食時も食欲が無くなる程であった。朝と夕方しか赤ん坊は母の乳がのまれなかったので専ら山羊の乳に頼るしかなかった。学校に勤めている妻は、時にこっそり家に帰って来て娘に乳を与えることもあった。
山羊はいい乳をたくさん出してくれた。しかし私の乳しぼりを嫌がってなかなかうまくいかない。足を縛りつけたりしてしぼることもあった。
ある日、いつものように昼頃山羊の側によると、素直にしぼらせてくれた。こんなことは滅多になかったので、どうしたことだろうと思ったら、保母さんがブランコに乗って、ハーモニカを吹いていた。そのハーモニカにききほれるようにして山羊は乳をしぼらせたのである。それから搾乳の時必ずハーモニカを側で吹くことにした。レコードでは余り効果がなかった。
初夏の気持ちよい日は、柿の木の下に莚を敷いて、赤ん坊を下ろして乳搾りをした。山羊は赤ん坊の近くまで寄って赤ん坊の貌をぺろぺろと嘗めまわしたりした。自分の子と思っているのかもしれなかった。赤ん坊はキャッキャッと声を出して手を宙に振って喜ぶのである。
ある日搾乳の最中に電話が来て、家の中へ入った。長ったらしい電話だったが、やっと終り山羊のところに行って見ると、これはどうしたことであろう? 山羊が赤ん坊の側にごろんと座って、赤ん坊は山羊の乳を両手で掴んで、チュウチュウ音立てて吸っているのである。口のあたりを乳だらけにして。
考えてもみなかった姿である。いつまでもじーっと見ていると、笑いがこみ上げて来た。山羊は山羊ではなく、赤ん坊に乳を与える母なのだ。確かに母の心をもって山羊は乳を与えている。のどかでほほ笑ましい風景をいつまでも見ていた。十分満腹した赤ん坊は、片手で山羊の乳首を持ったまま眠くなったらしい、うとうととしている。
ほんに偶然のことでこうなったのか? 次の日またお昼近く柿の木の下の山羊のところに赤ん坊をつれて行った。暖かいタオルで山羊の乳首をきれいに拭いて赤ん坊の頭を乳に近づけると、小さな柔らかい手で山羊の乳にふれる。山羊は腰を下ろして赤ん坊の手を迎え入れた。
山羊は目を細くして乳を与えている。さわやかな風が流れている。
至極当り前のように乳を与え乳をのむ。こんなうつくしい風景は滅多にあるものではないであろう。赤ん坊は泣きもしなければ窮屈でもないらしい。
私はこのことを誰にも言わなかった。赤ん坊をそまつに取り扱っているような後ろめたさもあったし、不潔だと心配されてもと思ったのである。
秋の寒くなる頃になって、戸外に赤ん坊を連れて行くことは無くなった。そんな時山羊は淋しそうにして「メー、メー」と鳴いた。赤ん坊も山羊を見ると呼ぶのであった。
何とモノ深い〈原記憶〉に恵まれた赤ん坊であろうか。
奥会津版アルプスの少女ハイジともいうべき風景の中にも、対話をうながす類まれなVSの畑がある。角田氏と同様、老師は「はっきりとは目にも手にも触れ得ない底深い存在感としての力」=モノを眼の当りにしてたちつくす。「私はこのことを誰にも言わなかった」という一行に光る孤独な原詩=ウルシが読む者をムシ(夢中になる人)にさせる。
ハーモニカをきいて乳をしぼらせた山羊の心を転位させたモノと赤ん坊に乳をやる山羊の心に宿ったムシは同類であろう。家畜である山羊が愛娘の母になってしまうとは!
「考えてもみなかった姿」を前にした老師にこみあげてきた笑いは「同時に」後ろめたさもひきおこす。この笑いは感動のアカシだが、「畏るべき」モノを見た者をつつみ込む慎み深さの感情にもつながっている。両者は同じ縁側でVSの位置にあるのだ。
自然との対話なるスローガンが各方面で叫ばれて久しいが、これはそう生易しいことではない。角田氏や太禅老師が体得した心優しくも苛烈な生活詩人の眼ざし=縁の下の力”に支えられたヴィジョンがなければ単にムシがよすぎる”自然讃歌に終始する他ないのである。