幻塾庵 てんでんこ

大磯の山陰にひっそり佇むてんでんこじむしょ。 てんでんこじむしょのささやかな文学活動を、幻塾庵てんでんこが担っています。
 
2020/07/23 6:28:21|事務長雑記
『多和田葉子ノート』書評
 



「三田文学」2020年夏号に掲載された
 
「多和田葉子のための愛苦しさ”あふれるノート」(川口好美)



 本書は姉妹篇『詩記列伝序説』とともに刊行された室井光広氏の遺著である。氏の文業については、本誌の追悼特集(2020年冬号)に詳しいので繰り返さない。ここでは、3・11の震災を直接の契機として氏が比叡山を下りる”みたいに文芸ジャーナリズム、アカデミズムから距離を取った後、本格的に論じた唯一の現代作家が多和田葉子であったこと、そしてこの本が個人的な手仕事として書かれた「ノート」を中心に編まれており、同時に多和田に宛てた手紙でもあるということを確認しておきたい。奥付の発行日は「2020年3月23日」=多和田の還暦の誕生日で、裏表紙にはtoward Tawada”(多和田葉子の方へ/の近くで/のために)という言葉が刻まれている。また本書には「対話篇」として二人が公的な場で交わした二つの対話(一度目は1997年にハンブルグで、二度目は2017年に東京国立市で)が収められているのだが、本書の記述によると二度目の対話がきっかけになって『雪の練習生』(2011年)の書評を執筆して以来停滞気味だった愛読熱がよみがえり、氏は多和田の作品を「ノート」を取りながら順番に読み返したそうだ。その意味でこの本は対話相手への返礼文であり、二十年以上の長きにわたって結ばれた友情を文字どおり在り難い”ものとしてことほぎ感謝する、けして声高ではないが感動的なトーンにあふれている。

 ところで氏はわたしにとって師にあたるのだが、わたしが多和田作品にふれたのは、刊行されたばかりの『雪の練習生』を「チャーミングな本だからよかったら読んでみて」というようなメッセージと一緒に氏から贈られたのがたしか最初だったと思う。「チャーミング」という言い方で伝えたかったのが多和田文学の随所にこもる愛苦しさ”であったことを、本書所収の書評「愛苦しさ”あふれる物語」――『雪の練習生』」を読んで遅ればせながら理解した。著書のどこかで読んだのか、講義で聴いたのか、これまた記憶が曖昧なのだが、〈愛しい〉と書いてカナシイとも読めること、つまりイトシイとカナシイは根源において分かちがたく結び合っているということをはじめて教えてくれたのも氏だったはずだ。なにかがイトシクてたまらないという心が、そのなにかのことがカナシクてたまらないという心と不可分に重なり合っているという本源的に両義的な関係性――それを一言で言い止めたのが愛苦しい”という言葉だ。

 二度目の対話が「ノート」作りのきっかけになったと書いたが、具体的には、対話のなかで相手のニホンに寄せる「心境の変化」が仄見えたことが氏には重要だったようだ。多和田はこんなふうに語っている。「最近はダメな日本がオドラデクに見えてしまって、いとしくて心配で、日本という幻想を信じてはいないのに(……)」。箒にまたがる魔女のように世界中を移動しつづけるディヒター(=詩人)多和田葉子にこのニホンが愛苦しく見えてきたとは! 氏はこの一事に素直におどろいたのだ。ディヒターの近作『地球にちりばめられて』への言及が中心の第一「ノート」――タイトルはずばり「ディヒターの心配」――には、「かかとを失くした”状態で列島を出たディヒターがHirukoやSusanooのような――カタカナ表記ではなくアルファベットで記される――独自のニホン人キャラクターを造型するために、かほどの歳月を必要とした事実にわれわれは胸うたれる」とある。最後の長篇評論『柳田国男の話』からも明らかだが、氏自身がゆっくり丁寧に同質の視線を育んできたからこその、それは共振現象であったに違いない。国家としての日本のダメさの底が完全に抜けてしまっていると思える現在、文学はどのようなかたちで小さきニホンへの愛苦しい”心情を回復、持続すればよいのか――この問い一つだけにしぼっても、本書は再読三読に値するだろう。

 その上でさらに、多和田文学に注ぐ視線の奥に潜む、〈性〉をめぐる氏の奥ゆかしいマナザシに寄り添う事ができれば、本書の多義的な魅力はぐっと増すはずだ。ある箇所では氏は自らを「女流」にたいする「男末流」と定義した上で、多和田(と、その話者)を自分が愛読してきたベンヤミンらと同じ性質の「メランコリカー」とみなそうとしても、多和田の「作品群に寄り添う経験自体がそれを否むだろう」と厳しく言い切り、また文芸従事者の一種の理想のようにみなされてきた「隠棲志向」とは、主流としての「男流」が踏みつづけてきた「女性性のポエジーへの一種の罪ホロボシ」なのではないかとまで述べている。

 氏が真の意味での「隠棲」を宿願としてきた事実を考えれば、この自己批判はきわめて重いのだが、ただし大事なのは、それが男性性の否定および女性性の称揚という図式に収まるものではないことだ。そこで氏は、異〈性〉への距離の感覚をあくまでも保持しながら、しかし同時に「女性性のポエジー」と雑じり合うことで「雑種」として自分を産み直し、自己の〈性〉を受け取り直し、愛し直そうともしている。こうした試みは愛苦しい”アウラを帯びた貴重なものとしてわたしたちの眼に映るはずだ。思えば氏はこれまで、カフカ、プルースト、キルケゴール、アンデルセンといった世界文学史に名を刻む作家たちのなかに〈性〉の根源的トランス志向とでも呼ぶべきものを見出し追尋してきたが、多和田葉子という異〈性〉の現代作家を主題としたからこそ、本書では自分の身にかぎりなく引き寄せた上でそれについて語ろうと思えたのではないか。

 遺著になったことは残念だが、それ以上に爽やかな感動に包まれた。小さく異なる愛苦しい”なにかを見失わないかぎり希望は残りつづけるということを、本書は教えてくれる。





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