幻塾庵 てんでんこ

大磯の山陰にひっそり佇むてんでんこじむしょ。 てんでんこじむしょのささやかな文学活動を、幻塾庵てんでんこが担っています。
 
2024/02/23 6:17:34|雑記
『エセ物語』書評

週刊読書人(2024年2月16日)に中村三春さんの書評が掲載されました


掛詞・縁語は古典和歌を生み、地口やかばん語やもじり(パスティーシュ)はナンセンス文学を生んだ。ルイス・キャロルの『不思議の国のアリス』や、ジョイスの『フィネガンズ・ウェイク』、谷川俊太郎の『ことばあそびうた』、さらに国境と言語を跨いだ多和田葉子の『エピソフォニー』なども思い浮かぶ。
一方、書物に関する書物、あるいは、そのものの物語よりも、テクストの情報やそこに介在する人物の情報の列挙・類聚と注釈・言及に重点が置かれた作品がある。フローベールの『ブヴァールとペキュシェ』、ナボコフの『青白い炎』、遡ればダンテの『神曲』……。
ノースロップ・フライはこのようなスタイルに百科全書的形式と名づけた。同じものをジョージ・P・ランドウならば〈ハイパーテクスト〉と呼んだだろう。

『エセ物語』は、それらのすべてに似てそのどれでもない、空前の新奇な作品である。

とはじまり、

『エセ物語』を〈オクライリ〉にしないための努力を描く物語がオクライリにならず、クラウドファンディングの支援もあってこのように刊行されたことは、現代の文学にとってまことに僥倖であった。

と結ばれる文章を読み、「それらのすべてに似てそのどれでもない」
というフレーズがずっと響いています。







2024/01/23 12:35:00|雑記
『エセ物語』書評
                            こゆるぎの浜 2024.1.22.6:50



失われた祖語を求めて

田中和生

 ついに刊行された、日本語による文学的散文の試みとして空前と言っていい、室井光広の長篇『エセ物語』をどう説明したらよいだろうか。分類上は小説となるだろうが、作中でたびたび言及されるとおり、作者が作品の規範としているのは随筆というジャンルの先駆けとなったモンテーニュ『エセー』(1580年)であり、また表題の響きは日本語の古典文学『伊勢物語』(900年前後?)を連想させる。ただはっきりしているのは、「エセ」物語が「似非」物語であるように、これは読者が作品で展開される物語に心地よく身を委ねられる類の書物ではないということである。

 比較の入口としてわかりやすいのは、世界文学史上でモダニズム文学の最も重要な作品のひとつ、アイルランドの作家ジェイムズ・ジョイスによる長篇小説『ユリシーズ』(1922年)だろう。作品はジョイス自身を連想させる作家志望の若者「スティーブン・ディーダラス」を蝶番とし、二十世紀ダブリンにおける「オデュッセウス」に擬された中年男性「レオポルド・ブルーム」を描き出しながら、ホメロスの長篇叙事詩『オデュッセイア』(紀元前8世紀頃)をなぞる三部構成になっている。一方の『エセ物語』もまた三部構成だが、少しややこしいので先に作品の概要を確認しておこう。

 まず第一部は「一の巻」と題され、作者名は作者と同姓同名の「室井光広」と表記されている。ここは通常の小説として読んでいいという含みが感じられるが、つづく第二部「二の巻」と第三部「三の巻」は、作者名が「エセ物語編纂人」と表記されている。そしてそれぞれが十二章構成となっているが、陰陽五行思想の十干「甲乙丙丁戊己庚辛壬癸」と十二支「子丑寅卯辰巳午未申酉戌亥」にしたがい、各章には「甲子」「乙丑」「丙寅」とつづく干支を冠した標題がならべられている。たとえば「一の巻」の第一章は「《甲子》むちゃくちゃティーパーティー」、第二章は「《乙丑》夜明けの晩に」といった具合である。本来干支は六十あり、十二章構成の三部立てなので三十六までしかないが、「後記」にも説明があるように、作者自身の構想では十二章構成となる第四部と第五部が本文に対する注釈篇として書かれるはずだった。

 その意味で『エセ物語』は、世界文学史上の傑作のいくつかがそうであるように未完の書物だが、本文だけが完成しているという事態はむしろ作品を小説的に味わうためによかったかもしれない。なぜなら本文の企図を受けとろうとするだけでもジョイスを参照する必要があるこの作品は、註釈篇を含めたかたちで完成されたときには空前絶後そのものの書物になっていた可能性が高い。では可能なかぎり、その小説的な本文の企図を明らかにしていこう。

 第一部「一の巻」は、作者自身を思わせる作家であった「私」が、特別な身内であったという外国人「重さん」が残した厖大な遺稿を整理し、エセーとも物語ともつかない『エセ物語』として編み直していくという趣向である。特別な身内だというのは、ユダヤ系アメリカ人と台湾系中国人の血を引く元医師「重さん」は、かつて「私」の双子の妹と結婚して「太」という息子をもうけたのち離婚したが、「私」の故郷である福島県会津を思わせる「哀野」にあった「アジア共生会」という組織の活動に携わり、作家となる以前の「私」を長く支援してくれた人物だからである。しかも日本語や日本文化に強い興味を示し、同音異義語のダジャレや連想を縦横無尽にくり出しながらあらゆることについて語り、五十代で突然死して膨大な遺稿を「私」に残した「重さん」は、その死をきっかけに作家を廃業したと語る「私」以上に「室井光広」的な存在であり、ジョイスの『ユリシーズ』で言えば「レオポルド・ブルーム」に相当する。

 作品全体でジョイスへの共感が示されているのは、作家となる以前の「室井光広=松井光晴」と同棲していた第二部「二の巻」の語り手「三井幸」、また「三井幸」と同棲していた時代の「松井光晴」が教えていた塾の生徒だった第三部「三の巻」の語り手「八木タキ」が語っていく内容の多くが、会津にあると思しき架空の「重利(ダブリ)市」での出来事とされていることである。おそらく「重利市」とは、作家志望の若者「スティーブン・ディーダラス=室井光広」が住んでいた、作家の内なるダブリンだろう。

 そして過去に人類が蓄積してきた膨大な言葉の引用のみで構成される、エセーとも物語ともつかない『エセ物語』の構想を「重さん=室井光広」から引き継いだ「室井光広=エセ物語編纂人」が記録していくのは、表向きには「重さん=室井光広」がどんな人物でどんな構想を持ち、その構想を作家となる以前の「室井光広=松井光晴」がどんな風に準備したのかという「ダブり」が多い「物語」だが、その裏側で「エセー」的に試みられているのは、日本語を蝶番にして中国語と韓国語との影響関係を含んで存在する「幻の祖語」(「三の巻」第五章「《壬辰》幻」)を見出す、果敢な言語的冒険である。

 ここでも参照したくなるのは、世界文学史上で空前の試みとなっているジョイスの長篇小説『フィネガンズ・ウェイク』(1939年)だ。作品は大工「ティム・フィネガン」の死と再生を入口としているが、その展開は「ウェイク(wake)」がアイルランド祖語であるゲール語で「通夜」を意味し、また公用語である英語で「覚醒」を意味することを下敷きにしている。英語を蝶番にして可能なかぎりの言葉遊び、二重含意などを駆使してあらゆる言語を飲み込もうとしたその記述は、難解すぎることで知られるが、あるいは『エセ物語』の出現でその試みが理解されていくかもしれない。

 まだ概要しか語れていないが、第一部が2008年から東日本大震災が起きた2011年まで「三田文学」に連載されていたこの作品は、ジョイスの『ユリシーズ』的な枠組みで『フィネガンズ・ウェイク』から言語実験的な記述を引き継ぎ、マルセル・プルーストの長篇小説『失われた時を求めて』(1927年完結)のように、どこまでも失われた祖語を求めていく。それは詩と批評と物語を綯いあわせた室井光広の文学的総決算であると同時に、日本語による世界文学の試みとして小説の枠組みを越え、モンテーニュや松尾芭蕉やキルケゴールの文章とならべられる文学史での評価を必要とする、まぎれもない傑作である。

 
(「三田文学」2024冬季号)







2023/12/18 5:03:00|雑記
『不幸と共存』
 

川口好美さんの「魂的文芸批評」


1 不幸と共存
   不幸と共存――シモーヌ・ヴェイユ論
   暴力と生存――小林秀雄試論 ほか

2〈てんでんこ〉な協働へ――室井光広讃
   室井光広、まぼろしのシショチョー
   室井光広の喉仏
   「世界劇場」で正しく「不安」を学ぶ
   多和田葉子のための“愛くるしさ”あふれるノート
   ジェイムズ・ジョイスと『エセ物語』 ほか

3 対抗する批評へ
   差別への問い(T)――在日の「私」/秋山駿の〈私〉
   差別への問い(U)――中野重治試論
   文芸時評&書評

補遺
 江藤淳ノート
 

文章を読むことは魂をよむこと、魂にふれること、であってほしい。
「批評の本」に魂に響くものが感じられるのは、しばらくぶりのことです。
写真もすばらしい!

水平線からの日の出の季節になりました。

(こゆるぎの浜 2023.12.11 6:44)
 







2023/12/01 7:03:46|雑記
偏執への供物


川根本町てんでんこのみなさんの思いのこもった「練習生」、9号でいったん休刊とのことですが、ここまで積み上げてこられたことはリッパです!

収録されている室井光広の中井英夫論「偏執への供物」(1991年)は、「エピュイ」23号(白地社)に掲載されたもので、編集後記によると、前号までの誌名「シコウシテ」を改めたものとのこと。23号で終った雑誌のはずです。

当時の編集者からずっと後に手紙が届いたというおぼろげな記憶があります。
発行当時フランスにおられた(?)中井英夫さんが、この文章をいたく喜ばれていたと伝えられ、執筆した本人も嬉しそうでした。原稿料の不払いを詫びてもおられました。

『わらしべ集』を編むときによりどころとなった一覧表から漏れていなかったら入れていたにちがいない、三十代の著者の息遣いの伝わる文章を改めて味わえることをありがたく思います。







2023/11/20 5:27:17|雑記
『エセ物語』書評
  こゆるぎの浜 2023.11.19 6:22



11月18日の日本経済新聞朝刊に井口時男さんの書評が掲載されました。
 


 二段組で約七五〇ページの大冊。「甲子」「乙丑」「丙寅」と十干十二支によってナンバリングされて暦が一巡する六十回、つまり「還暦」で完結する予定だったそうだが、作者の死によって三十六回で中断して未完。それにしても、どんな小説にも似ていない。まさにユニーク、異貌の奇書だ。

 前景で展開するのは言葉たちの途方もない戯れだ。言葉は音声や意味の類似と差異によって次々と連鎖し逸脱してゆく。主人公は言葉そのものなのだ。テクスト(作品)は言葉の織物だというが、人間(心)だって言葉の織物なのだと思えてくる。それでも「反小説」「反物語」などと力まずに、エセ―(エッセイ)みたいな「エセ(似非)」物語だと自称するのが作者の「軽み」の精神だ。

 中心にあるのは日本語、それも作者自身の故郷である福島県の会津方言。台湾の血とユダヤ系アメリカ人の血を引く「異人」の遺した段ボール三十箱分もの遺稿を読んで、第一の語り手(語り手は十二回ごとに交代する)が引用したり注釈を付けたりする作業から始まる。故人は「東亜統一話し言葉の創成」を目指していたので、まず東アジア三言語(日本語、中国語、コリア語=朝鮮語)がくんずほぐれつを繰り広げ、さらに英語仏語等々も参入する。引用あり翻訳ありだが、翻訳には誤訳がつきものだし、「引用」は異なる文脈に移し替えて意味をずらすことにもなるのだから、言葉の逸脱変幻は果てしない。

 言葉いじりに徹したジェイムズ・ジョイスの『フィネガンズ・ウェイク』の日本語版みたいな試みだ。しかし、本書の方法はむしろ、音声を揺らしたりずらしたりする柳田国男の地名研究の方法に近い。たとえば作中の重要地名「哀野(あいの)」には「アイヌ」が隠れているだけでなく、「アイヤ」と読めば中国語の嘆声「アイヤー」に通じ、朝鮮語の「アイゴー」も響くだろうし、「あわれの」と読めば日本美学にもつながるはずだ。こうして、諸言語が戯れ合う室井流言語曼荼羅が出現するのだ。

 この祝祭的な言語曼荼羅は最後にどんな円環を閉じる予定だったのか。いや、言語という複雑系はもとより閉じることなき開放系のはず。だから本書は未完。それでよいのだ、と思う。

 







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