幻塾庵 てんでんこ

大磯の山陰にひっそり佇むてんでんこじむしょ。 てんでんこじむしょのささやかな文学活動を、幻塾庵てんでんこが担っています。
 
2021/04/09 6:23:38|事務長雑記
祝 練習生 3
 

静岡県川根本町のてんでんこ図書館から、「練習生3」が届いた
 
めでたくも、喜ばしい


 







2021/04/10 6:41:09|事務長雑記
図書紹介『柳田国男の話』


金子昭さんの「キルケゴールで読み解く21世紀」は、12回目までがじむしょに届いている。
初回からのものを整理していたら、3回目の号(2018年12月発行)の図書紹介で、『柳田国男の話』(東海教育研究所 2014年)を取り上げておられるのを見つけた。
これも何かの促しかと思われ、ここに採録する。

 


 お座敷ワラシ列車に乗って、スイッチバックを繰り返し、柳田国男の世界を行きつ戻りつしていこう。そういう当方は、柳田民俗学の田畑を耕す小作人の柳田耕作。別名柳田吾作(やなぎ・たごさく)、またの名をスミッコワラシとも言う。おっと、これはいけない。本書を通じて柳田民俗学の世界に分け入るつもりが、本書の著者の室井ワールドのほうに入り込んでしまいそうだ。そこで再びスイッチバック、柳田民俗学の停車場に「そ」を聞きにいくべく、奥ゆかしき旅にもう一度出発しなおさなければ。いや、これではもっといけない。文体まで室井光広流になってしまった。

 でも、せっかくだから読者もこの際、単独者ならぬ耽読者になって、お座敷ワラシ列車の一乗客(スミッコワラシ)として便乗させてもらうのも悪くはない。そうすれば、長閑な列車にガタゴトと揺られながら、本書の36の章(駅)に各駅停車しては、当地の景色をあれこれと楽しみ、気に入れば途中下車して散策することができる。「今ハ山中、今ハ浜」、そして気がついたら、あっという間に最終駅の「柳多留」。柳田国男の樽酒を一杯飲んで、ほうと声が出て、もう一度気に入った頁を繰り直す。宇宙を天翔ける銀河鉄道のような爽快さはないが、近代百年の急斜面を上り下りの柳田耕作列車もまた面白い。今のご時世、こんなスペシャルな旅はなかなか出来ないものだ。

 室井ワールドにはまると(まさに耽読者)、こちらまでそのタマシイが乗り移ってしまいそうである。それだけ室井光広の語りは独特なものだが、本書の魅力は何と言っても、柳田国男を世界文学レベルの饗宴において語り、その中で彼の著作を読み解こうとするところにある。第1章「極私的民俗学入門」から第36章「柳多留」まで、柳田民俗学が単独で論じられる章は一つもなく、世界文学、日本文学、他の民俗学の有りようとも交錯させながら、その特質を浮かび上がらせようとする。

 世界文学で取り上げられるのは、モンテーニュ、セルバンテス、ゲーテ、キルケゴール、カフカ、プルースト、ボルヘスといった人々だ。日本文学で引き合いに出されるのは、石川啄木、宮沢賢治、太宰治、寺山修司といった「東北思想詩人」たちである。民俗学者では、折口信夫と宮本常一が主な比較対象となっている。こうした人々との星座的位置関係(コンステレーション)の中で、柳田国男の姿はどう現れてくるだろうか。

 問題が雲をつかむような場合、よく補助線を引いて考えよということが言われるが、柳田国男という巨人を理解しようとするとき、室井はこれらの錚々たる学問芸術の巨人を縦横無尽に引いてくる。そのため、補助線がからまりあってますます混沌としてしまう。しかし不思議なことに、そうしていくと実はますます柳田の巨大な姿が浮かび上がってくるという仕掛けになっている。室井自身、この姿を「『共同の飲食』を伴う全人間的な魂のシュンポシオンのための巨大な酒樽――柳田国男樽」(350頁)に喩えたのだった(この柳田国男樽こそ「柳多留」なのである)。

 私は、本書『柳田国男の話』を2回通読した。1回目は読書の楽しみとして、2回目はこの「図書紹介」を書くために。それでいよいよもって思ったのは、私がもう十数年以上も前に青森市のR堂古書店で格安(たしか
2万円もしなかったように思う)で購入したまま、積読状態になっている筑摩書房の『定本柳田國男集』全31巻及び別巻をきちんと読み直してみたい、ということだった。そうすれば柳田自身の作品こそ、世界文学の魂のシュンポシオン(饗宴)とは何なのかを理解する最大の補助線になるのではないか。

 室井の柳田国男論を読んで、再度柳田を読み直す幾つかのポイントに気が付いた。そこから2点だけ書いておく。1点目は、上記『定本』の総索引によれば、柳田がその膨大な著作群の中で、「ふるさと」という言葉を一度も使っていないことである(故郷という文字は使用している)。これは意外なことではないだろうか。

 我々は、日本人の魂のふるさとの原風景を知ろうと、『遠野物語』や『山の人生』『海上の道』などを繙くのであるが、そこには「ふるさと」なる語はどこにも姿を現わさない。どこにも現れない「ふるさと」の心象風景が、実は柳田民俗学における文字通りのユートピア(どこにもない場所)的世界であり、それだからこそ柳田が文学的ともいえる書き方で彼の民俗学を形作っていったのである。

 しかし、それは文学的と言い切るにしては、柳田の文体の「低い」調子が気になるところである。これが2点目。室井はそこにも着目して、本書の中で繰り返しこの点を指摘している。柳田国男に世界文学思想レベルの強度をもし認めるとしたら、実はその「低い」調子こそ肝心要の点なのだ。この強度は、「声高で硬質の主義主張から限りなく遠く離れた、柳の枝の如くしなやかにたわむ柔らかく低いトーンをもつ文体の強靭さ」(241頁)にほかならない。

 柳田国男の文体の強靭さは、モンテーニュ、ボルヘス、プルーストの散文に通じる「エセー」のそれである。ここでいうエセーとは、書物経由の「空想」を一つ一つねばり強く現実と照応させる振る舞いとしての「試み(エセー)」を指す(245頁)。そうした視座から、「『すべてがわかった』という気にさせるあらゆる通念を根源的に疑うデカルト的懐疑を日本学に徹底させた日本近代最大最良のユマニストが柳田国男だ」(243頁)という室井流柳田論の輪郭が現われてくるのである。

 なお、この柳田国男論では、読者は途中(第13章「身捨つるほどの祖国はありや」)から、未曾有の大災害「3.11」の大きな影が差してくることにも気が付くであろう。このあたりから議論もぐっと深化してくるようにも思われる。

 これに関連して最後に付記すれば、この3.11をはさんで相次いで刊行された柳田国男著『野草雑記・野鳥雑記』『孤猿随筆』(いずれも岩波文庫)の解説も、室井光広の筆になるものである。あわせてお勧めしたい。







2021/03/08 13:58:47|事務長雑記
キルケゴールで読み解く21世紀
 


金子昭さんの「キルケゴールで読み解く21世紀」

全30回(2018年10月〜2021年3月)が、
 
キェルケゴール協会のホームページに掲載されました。
 
 


わが霊的な幻友も、スマホではなく、ガラケーだったとは!
ガラパゴス島みたいな反時代的なキルケゴール思想を牙城にして……独自の「進化」を遂げた我々は、シュヴァイッツァとか、キルコゲールとかいう他の地域には生息しない奇妙な生きものに(笑)……この絶海の「孤島」にあって、我々は「ひとりぼっち」ではない。


という一節が「ゲンテルセン通信スムーレ篇」9月6日9:27のメールにある。
ガラパゴス島のゾウガメ、ロンサムジョージなどを思い浮かべてのこと、と単純に受け止めていたが、金子さんの連載の第12回「『ひとりぼっちのテーマソング』単独者とは」を読んでのコメントでもあったことを知らされた。


http://www.tenri-u.ac.jp/topics/oyaken/q3tncs00001rj7hq-att/GT237-HP-page5.pdf


どんなに小さな文章でも、注文を受けたり、書こうと思い決めたりすると、頭の中のおんぼろコンピュータがカタカタと動き出してやまず、そうなってしまうと眠りの質は常以上に悪化して頭痛もひどくなり、食べ物の味もわからなくなってしまうのだった。

強い薬や高熱や頭痛で、脳内コンピュータも息切れしていただろうし、そもそもまともに物を読むこともできなかったのに、「ひとりぼっちのテーマソング」は脳内コンピュータに取り込まれて、このメールを生み出していたものらしい。

幾層にも塗りこめられた文章の〈漆塗り方式〉は最後まで保持されていた。

ひとりきりの病室の長い夜、カタカタと動く頭の中のコンピュータは子守歌になっていただろうか。

 







2021/03/04 13:37:00|事務長雑記
大波小波 2021.3.1
 

3月1日の東京新聞夕刊に掲載されたコラム

 
「半僧半俗の文芸隠者」だなんて!
 
庵主の摩訶不思議な舞姿が思い起される







2021/02/04 0:00:08|事務長雑記
立春
佐藤亨『北アイルランドを目撃する』(水声社):左
てんでんこ図書館「練習生2」:中
井口時男『金子兜太』(藤原書店):右


 
それでも、春はやってくる

じむしょにも、春の便り

「希望はある!」という呟きもエコーする






『北アイルランドを目撃する』に寄せた庵主の文章

 



正しく不安になるということ
――佐藤亨『北アイルランドを目撃する』に寄せて


 流行「外れ」となって久しい反時代的思想家キルケゴール(の操る偽名著者)は、『不安の概念』の最終章を、不安な気分の何たるかを知りたいと思って冒険の旅に出かけたグリム童話の若者のことから説きおこしている。その冒険家が旅先でどんなおそろしい目に会ったかについてはおあずけにしたうえで、キルケゴールの偽名著者はこうつづける――不安な気持ちになることを学ぶというのはあらゆる人間がくぐりぬけなければならない冒険であり、正しく不安になることを学んだものは、最高のものを学んだものである。

 グリム童話では「恐い思い(をさせられること)を知りたくて……」だが、キルケゴールの表現でははじめから「不安を学ぶ」となっている。この微妙な差異も胸にたたんで、私は佐藤亨の長い年月にわたる仕事について、思いの一端を語ってみたい。

 佐藤がアイルランド、ひいては「紛争」を抱えて苦しみつづける北アイルランドにそもそもどんな機縁でどっぷりとつかることになったかをめぐって詳細を知るためには、二〇〇五年刊の佐藤の著書『異邦のふるさと「アイルランド」』をひもとく必要があるが、ここでは紙幅の余裕もないので、「南をもとに形成されてきたこれまでのアイルランド像を問い直したい」(「はしがき」)というモチーフのみ引くにとどめる。

 この問い直しをキルケゴール思想でいいかえるなら〈受取り直し=反復〉となろう。牧歌的風景や素朴な生活といったアイルランドの光の部分に「北」の影を二重うつしにする〈反復〉の冒険において、佐藤が「旅の道づれ」としたのが、長年の付き合いで身体感覚ふうの操り方が可能となった――佐藤の偽名著者ともいうべきカメラである。

 木島始の訳詩集タイトルからかりたという異邦に「ふるさと」をみる旅は、佐藤亨をして冒頭にふれたグリム童話の若者に変身させたと私は推測する。そう、佐藤こそは「ゾッとする味を知りたいと思って」、ヨーロッパの「外れ」に出かけていった永遠の青年なのである。

 今度で三冊目になる北アイルランドの写文集のいたる所に見出される「恐ろしいもの」について考える時、私はいつだったか「なぜ北アイルランドなのか」という自問に、佐藤が「臆病だから」だといい、写真は「怖い場所」で獲た一種のエモノなのかもしれないと語ったことを思い出す。キルケゴールの偽名著者のいう「不安が深ければ深いほど人間は偉大なのである」を、写文集を眺めながらかみしめた所以である。

 グリムが用いたドイツ語 gruseln は「ゾッとする」意味だが、キルケゴールのいい方では、「不安を学ぶ」となっている一事を再度引き寄せたうえで、私は、世界に数多い危険な地域に出かけてゆくギリギリのスタンスを垣間見る。

『異邦のふるさと「アイルランド」』の終章で佐藤が言及したフロイトのホフマン論に顔を出すドイツ語ハイムリッヒ(秘密の、わが家のような、居心地のよい)は忘れ難い。フロイトによれば、同語はときにその反対語であるウンハイムリッヒ(不気味な、ゾッとする、不吉な、縁起の悪い)と同義になりうるというのだ。フロイトはグリムの辞典を引用しつつ、「故郷のような」ものが「秘密の、人目に隠されている」ものへと、さらに「無気味なもの」につながっていくことを例証したのだった。

 佐藤亨が、異郷の地で反復して正しく学んだ「ふるさと」の二重イメージがいかなるアウラにつつまれているか、読者は、本書がみちびく〈見ることは信じること〉の体験の中でありありと目撃するだろう。







[ 1 - 5 件 / 241 件中 ] 次の5件 >>