奥会津作家協会から2001年に刊行された「河岸段丘」第六号に掲載された「オッキリのように あるいは縁側での対話」は、室井光広が「独り同人誌時代の精神にたち帰り、自らの発願によって書いた」エッセイである。
「てんでんこ」室井光広追悼号に角田伊一氏が寄せた文章「オッキリの人、室井光広」に言及があり、ここに全文を載せる。
「てんでんこ」室井光広追悼号では「驚愕の数珠」(長内芳子)でもこのエッセイが引用されている。
オッキリのように あるいは縁側での対話
1
著作家の看板を掲げて十年余りになるが、それ以前からの短からぬ歳月にわたり、私は独り同人誌をやっていた。といっても、本誌『河岸段丘』の主宰者角田伊一氏のような労苦を体験したのではなく、またいわゆる個人誌の発行者だったわけでもない。
要するに、発表を意図せぬ多ジャンルの文を非在の同人誌にせっせと書きつづけていただけのことである。
モノカキを志向するモノ心がついた時、私の中には幾人かの同人がいた。創作する男すなわち作男”が文芸ジャンルを代表する数ほどに増え、互いに対話してやまなかったのだ。
創作畑は大きく韻文(詩・短歌・俳句)と散文(批評・小説)に分かれた。棟割長屋状の作男部屋を詩人・歌人・俳人・批評家・小説家が棲み分け、作業を競い合う年月が少なくとも十年はつづいただろう。独奏者が集まって即興的にジャズを演奏するジャム・セッションのような競演を愉しんだのだけれど、一方でジャンル間の安易な越境を批判的に視る作男も私の中にはいた。
膨大な詩歌句の五分の一、いや十分の一ほどを幾年もかけて精選し、私家版の韻文集『漆の歴史――The history of japan』をまとめた時点で、作男は〈うたのわかれ〉を宣言した。しかしもちろん「原詩=ウルシ」掻き仕事でしぼり集めたモノをひっさげて散文の畑へ身を投じた後も、散文VS韻文の間の溝を凝視する対話的思考はつづいた。
散文畑での耕作においてはフィクションVSノンフィクションというもう一つの縁(エン・ヘリ・エニシ・ユカリ・ヨスガ・フチ)をめぐる対話がよりいっそう複雑多様なものとなって、現在に至っている。
2
VSなる記号は、訴訟や競技などで「向き合った」状態を指す英語 versus の略だ。原告「対」被告、海軍「対」陸軍といった用い方からもわかるように対峙し対決するイメージが強い言葉である。語源的には、畑の畝、およびそこを耕す人が向きをかえることに由来するという。
畑の畝の端と端に立って向い合う――そこから対峙するVSが生れたのかどうか確かではないけれど、そういえば韻文を指す英語は verse だ。私の勝手な語源学でも、畑と詩は強い縁の糸でむすばれている。畑の畝こそは、詩の行にそっくりではないか。
この国を例にとるなら、田んぼは種々の意味で――あえて大げさな表現をすれば存在論的に散文のありように似ている。田という字は、条坊制のアミの目のように視える。隅々まで植えつけられた言葉の苗は、整合性を誇る。余白があるにはあるが、畑の畝と畝との間の溝とはたたずまいが違う。行と行間に起伏がないため、いわゆる〈行間を読む〉のが至難となる。
……と、抽象的・文学的にすぎるイメージを並べてみたが、私自身の実感に即しても、ナツカシサの点で、畑は田んぼをはるかにしのぐ。畑が縄文時代までさかのぼる圧倒的に古い起源をもつ存在だからであろう。
英語のカルチャー(文化・教養)はもともと耕作もしくは栽培を意味する言葉だった。また種々のジャンルで用いられるフィールドワークの第一義は畑(野良)仕事である。「耕作する人、種をまく人のように、知恵を育て、忍耐強くよい実りを待て」と旧約聖書にはある。
われわれが何げなく口にする言葉の使い方に根源的存在はあらわになる。たとえば、選挙で、ある候補者や政党への投票が大量に期待できる地域を田地に見立てる「票田」、また、米の収穫量ひいては俸禄をあらわす「石高」――こうした言葉の中に、金になりそうもない畑仕事のイメージと正反対のコクダカ(経済効率)至上主義=売れれば官軍式の考え方をみてとるのはたやすい。
一方、畑という言葉の使い方はどうか。「入社以来ずっと技術畑を歩いてきた……」「営業畑が長かったので突然の異動命令に面くらった」云々。畑=フィールドが生をいとなむ固有の領域をあらわす人生論的な、つまりは原詩的言葉として今も息づいていることがわかるのである。「畑」も「畠」もじつは漢字ではなくいわゆる「国字」だという。その理由の一端がこうした使い方の中に潜んでいる気がする。