幻塾庵 てんでんこ

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2020/07/12 13:51:02|事務長雑記
「群像」BOOK REVIEW
 

「群像」8月号に『多和田葉子ノート』書評
 
響きあう言霊(松永美穂)が掲載されました


 
昨年急逝した室井光広氏による、入魂の多和田葉子論。日独で数十冊の本を出し、世界各地で研究論文のテーマになっている多和田について、すでに英・独・仏語圏では研究書が出版されているが、なぜか日本では多和田論は――少なくとも単行本では――まだ珍しい。本書のようにタイトルに多和田の名を冠し、一冊丸々多和田論にあてた単行本は、ほとんど初めてではないだろうか。

 この本は四つのパートから成り立っている。室井の「ノート」。間口の広いエッセイ風の「序説」。室井がこれまでに書いた、多和田作品の書評。そして、一九九七年と二〇一七年に行われた、室井と多和田の対談。
「ノートT」には、「本稿をしたためている二〇一九年」という記述がある。二〇一一年の震災後、「ビジネスとしての読み書き業にプンクトをうちたい思いが急速に強まった」室井は、それまで勤めていた大学を辞め、文芸雑誌を発行していた。しかし、二〇一七年に多和田に指名されて「現代詩手帖」で対談を行ったことがきっかけで、多和田の文学について論じたいという気持ちを膨らませていったらしい。

 二十年来の交流のある多和田に、室井はさまざまな渾名をつけている。「国際的歩き巫女」(「世界文学回遊魚」という言葉も出てくる)。ドイツ語のDichter(詩人・作家)に由来する「ディヒター」。さらに、「何やら魔女的なふたくちおんな”」(これが多和田の作品のタイトル「ふたくちおとこ」のもじりであることは言うまでもない)。ある時期からの多和田文学を「妖怪変化万葉集」として読んできた、と室井は打ち明ける(この「妖怪変化万葉集」という言葉自体は、多和田がゲーテの『ファウスト』第二部を評して書いたものでもある)。当意即妙な名づけからも、文学における多和田の跳躍力、次々にメタモルフォーゼを導き出す想像力の豊かさを、室井が愛してやまなかったことがわかる。

 ユーモア溢れる言葉遊びには、室井の人柄も表れている。そもそも室井の芥川賞受賞作が『おどるでく』。これは「踊る木偶」と漢字変換することが可能かもしれないが、カフカの短編にでてくる「オドラデク」という謎の生物が念頭におかれていることは明らかで(本書では多和田が翻訳したこの短編についての議論にも熱が入っている)、こうした深みのある文学的ギャグのセンスは室井の自家薬籠中のものであると同時に、実は多和田の得意分野でもあるのだった(「球形時間」「献灯使」「穴あきエフの初恋祭り」など、言葉遊びを駆使した多和田の作品タイトルが浮かんでくる)。本書では、室井と多和田、それぞれの発する言霊が生き生きと応酬しあっている。それは室井の、多和田作品を読んで刺激とパワーを与えられ、「セイア! セイア!」と歓喜の声をあげる(「セイア」という言葉は、彼が自分をたとえる「井蛙」に通ずる叫び声でもあるが)姿からも伝わってくる。

 室井は自らが渉猟してきた本の世界の、きらめく星たちの星座に多和田を並置しようとする。柳田国男、カフカ、ボルヘス、ベンヤミン。カフカに関しては多和田の翻訳があるし、『日本の作家が語る ボルヘスとわたし』のなかには多和田の講演も収録されている(そのきっかけを作ったのは室井であったと、編者の野谷文昭が記している)。多和田と室井はともに「群像」新人賞でデビューし、芥川賞を受賞した共通点を持つ。室井は当初、多和田の文学の世界での「妹」のように思っていたが、国際的に活躍の場を広げていく彼女に柳田の本のタイトルでもある「妹の力」を感じるようになったという。「『ゴットハルト鉄道』に収められた三篇を味読するために有用なキーワードとして、日本語文芸の「数先年の根柢」をなす妹の力を有する物狂いの少女”の原像に思いを馳せておくのは決して的外れではないと私は信じている」というように、長い文学的伝統のなかに多和田を置き、大きなスケールで論じているのが印象的だ。

「群像」で連載されていた多和田の『星に仄めかされて』がつい最近単行本になったばかりだが、たとえばこの本と前作に共通する主要人物の一人であるHirukoについて、「姓が無い」ことを室井が指摘し、「この省略もしくは欠損・欠落に二十一世紀の神話作家の「巧み」がはりついているのはたしかである」と断言していることも、示唆に富む(そもそも多和田がこの連作において神話世界から借用したHirukoとSusahooの名が、作品ではずっとローマ字で記される点は興味深い)。室井は多和田の作品が持つ「グローカル」な魅力を論じ、Hirukoが開発した「パンスカ」という汎スカンジナビア言語にも強い関心を示す。方言の問題、名づけ、文学的遺産の継承、ジェンダー、越境……多和田文学の豊かな土壌を、室井は独特の勘で深く掘り下げていく。それは室井からの一方的なラブコールにはとどまらず、最後におかれた対談からは、室井に対する多和田の高い評価と信頼もうかがえる。
 二度の対談では、いずれも「詩的」な言語が話題になる。時流に乗ろうとするのではなく、「遅れて」いくことの大切さ。「田舎者」として、中央に対し距離をとることの必要性。文字を手書きすること。日本語と外国語を対置させるだけでなく、日本語もひとつではないと意識すること……。多和田自身が、室井を通して教えられたこと、二人が共通して大切にしていることが、対談のなかで確認されていく。

 これは、二人の作家の魂の交流を記録した、貴重な本だ。昨年九月に亡くなった室井は、もっと書き足すことを予定していたのかもしれない。ただ、「あとがき」だけはしっかり用意されていて、「二〇二〇年三月のために」と結ばれていた。本書の発行日は二〇二〇年三月二十三日。その日付を見ると、胸に迫るものがある。多和田の還暦の誕生日。この本は文学上の「兄」、そして盟友からの、パワフルな「妹」への誕生日プレゼントでもあったのだ。





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