hitorigoto

つれづれに ただ つれづれに つれづれに
 
2010/03/30 23:08:21|気になること
こんなの 見たことありますか?!

何となく 今日は、鎌倉の光明寺の境内にいたりしました。

光明寺の桜は三分咲き位でしょうか?!

…植物にも、うとい私ですが、
それにしても、それよりも 初めて見ました。こういうの。

写真では、柿色に見えていますが、

実際は、肌色に近い色で、産毛付きの何とも不思議な実です。

……こんなこと……言ってはいけませんが〜…〜…〜…〜…
…実は…、そのぉ〜謙虚に言っても、ちょっと、気持ち悪いです。


大きさや色を合わせてみるとぉ…、
枇杷 の様な形で、ギッシリ ドッサリ 、エアプランツと絡みあってたくさんの実が塊って、木の上に鳥の巣の様に置いてあるって感じかしらね。

調べてもいませんが…
…どうも…蘇鉄の実なんでしょうか〜?!
うぅ〜ん、宿り木?かな?じゃないよね〜?

まさか〜鳥や野生動物が、蘇鉄の上に置いていったって言う訳じゃ〜ないと思うし…。

嫌だけど…きになるんですよね!
こういうの。







2010/03/27 18:23:52|感想
私だって小林多喜二が大好きですよ。お母さん!
『母』
三浦綾子著
角川書店 平成四年三月単行本で刊行

これが、ご縁と言う事なのでしょうか。
友は友を呼ぶと言うことなのでしょうか。
考えているから考えてる方向に行きつくと言う事なのでしょうか。
思っていれば願いが叶うのは、そのせいでしょうか。
やはり理想は他人になんて言われようとも、持つって事なのでしょうね。

とにかくこの本に出会え、私の手元に届いた事は奇跡的で、貸してくれた方に感謝します。

母 とは、小林多喜二の母セキさんの事です。
セキさんが、多喜二の事を語りそれを三浦綾子さんが書いたようですね。

訛りのあるがままの文章なので、読み難いかと思いきや、これがまためちゃくちゃ読みやすいので…是非多くの人が読んでくれたらいいな〜!って思います。

私が今まで勝手に思いこまされていたというか思い込んでいた暗く辛いばかりの多喜二のイメージとはまったく違っていて。
小林家は明るく温かく笑いのある優しさに満ち溢れていた、ごく普通の家庭だったんですね。

家族や親戚周りの人達も優しくて、多喜二は兄弟を思い、親を思い優しく穏やかで…、

ただ貧しかったけれど、もっと貧しい人達もいたようで、

『貧しいひと達を無くすような世の中にしたい』

と言う気持ちで、多喜二は小説をかいた。

『母さん、おれはねみんなが公平に仲良く暮らせる世の中を夢みて働いているんだ。小説を書いてるんだ。ストライキの手伝いをしてるんだ。恥ずかしい事は何ひとつしていないからね…。』>
『多喜二のこと信用しないで誰の事信用するべ』
と言うと、

多喜二は『母さんは、いい母さんだ体はちんこいけど心のでっかい母さんだ』って真面目な顔でいってくれてな…。と母は語る。

またある時には、
『母さん、労働者はね。今よりほんの少し給料を上げて欲しいと言ってるだけだよ せめて子供達にあったかいおまんまを腹一杯食べさせたいと願っただけだよ労働者も人間だ働いたら働いただけのお陰のある生活をさせて欲しいと言うことが、そんなに悪いことだべか』
母は思う、
『昨日よりましな生活がくるなら結構な事だ…心のそこから嬉しい事と思った 同じ日本国民だべ貧乏人でも金持ちでも自分が旨いものたべてる時食べものがなくて すきっ腹に水呑んで寝るしかない人間がいる事思ったらあんまりうれしくはないわね』と語る母。

またある時…
『おれな、母さん、おれはいつのまにか ずいぶんと有名な小説家になったけど 内心びくびくしてるんだ。いろいろな事がわかれば解るほど 権力って恐ろしいものだと、背中がざわざわすることがある。これ見てくれ、おれのこの小説××がたくさん付いているだろう。これは金持ち側から言わせると 書いて欲しくない言葉が並んでいるからだよ。今の時代××の多い小説ほどいい小説だっていう証拠なんだがねぇ。こないだは、おれの小説の『蟹工船』が東京の帝劇で大評判をとった。けどな評判立てば立つ程 尾行が厳しくなって もう小説書くのどうしようかと思うことがある。でもな母さん、世の中っていうのは、一時だって同じままでいることはないんだよ。世の中は必ずかわっていくもんだ。悪く変わるか 良く変わるかは わからんけど、変わるもんだよ母さん。そう思うとおれは、良く変わるようにと思って、体張ってでも 小説かかにゃあと思うんだ』
と…言う多喜二…。

その小説が売れると、当時の警察、特高に追われるようになるのですが、何度も捕まり、知っての通り、当時の警察に拷問の揚句殺されてしまいました。

裁判を受け死刑になるのではなく!

いわゆる政治犯????意見が違うと言って、何の罪もなく拷問の上多喜二は警察に殺されたのです。

(多喜二は小説家です。・・・が、…それでも訳のわからない罪ですね!)

また、多喜二のひたむきで、けなげな熱い思いを考えると、胸が熱くなる思いと共に、目から熱いものが込み上げてきて、抑えようと思うほどに胸の中で膨れあがり今度はしゃくりあげるように、やっぱり泣くしかなくなってしまいました。
(涙って、心と体が繋がってる事が一番よく解る現象だな(+_+)なんて思います。・・・が、涙って何だろうって・・・考えてしまいました。)

当時の医者は国家(国家って何だろう?!)の圧力が恐くて解剖もしてくれる医者はなく、死因は心臓麻痺にされてしまいます。
母は、泳ぎの上手な多喜二が、心臓麻痺なんて事は考えられないと言います。

太股は千枚通しで突かれた無数の傷。
足は紫色に二倍に膨れあがり、首には何かで締められた跡…。
これが、当時の警察の仕業です。


後に、この時係わった警察の一人は狂い死にしたそうですが。
その警察の気持ちもわかる気がします。

だって多喜二の信念にくらべたら自分は何をしてるんだろうと思わないわけにはいかなかったろうとも思いますもの。



…変わり果てた息子の姿。
     …。
神も仏もあるものか!と母は思ったそうです。
神がいるならこんな殺し方はしない。…と。
しかし多喜二も姉も義兄も多喜二の学費を出してくれた叔父さんもキリスト教や仏教には、拘わり合いがあったりして…のちにセキさんもキリスト教に傾倒して行くのですが…入信はしないんですね〜。

しかし母セキさんの凄いところは、… こんな状況に立たされながら、思い直すんです。
私は私だけの気持ちだけになっていた…私は、多喜二だけの母じゃなかった。辛かったのは、私だけでなく、他の兄弟達だってきっと辛かったに違いないはず、多喜二の兄弟だなんて言えなかっただろうし。
それなのに、一度だってあの子達は多喜二を悪く言う兄弟もなく、皆、多喜二が好きだった。
と、語る母。
(それはそうだ 私だって、多喜二がすきだよ。お母さん。こんな優しい人をなぜ同じ仲間の人間が殺しちゃうのよ?!なんなのよ…?!)

また 多喜二が取材に行った先の遊郭紛いのそば屋と言われるところに貧乏故に親兄弟の為にやむなく売られたタミちゃんの話しなどは、ものすごいです。

お母さんといい兄弟達といい多喜二と言う生き様自体が崇高な芸術作品としか言いようのないような、人間としての精神の美しさ。
感動するしかありませんでした。
(今時の言い方をすれば、『カミだね』です。)

タミちゃんを救いたくて、身受けする事になって・・・
母セキさんに相談する多喜二。

身受けするのに五百円もの大金が必要だが、銀行で働く多喜二の給料は72円か92円ボーナスは200円で300円はだせるが出してもいいかな?!と相談する多喜二だが、それでも200円足りない。これを貸してくれた島田先輩がいたり。(のちに…多喜二が死んでしまったので二百円もの大金を返さずじまいだったらしいが、またこの島田さんも、『いやいや』と手を振るだけで一度も返してくれとは口にしなかったと言う。)

・・・・

『早くタミちゃんを苦界からすくってやったらいい』と言う母。

『母さん』としがみつき多喜二は、おんおん泣いたと言う。

また兄弟に話すと、皆

『いいところさ 金ば遣う』
とやっぱりなみだこぼして喜んだと言う。兄弟姉妹



       優しい家族。

また親も兄弟達も皆多喜二のすることは間違いないと信じていた。
(私だって…、そりゃ〜信じるよ。多喜二のやることだもの。…とついついつぶやいてしまう。)


それから多喜二は、こうも母に言うですよね…


『だって母さん。おれはタミちゃんを苦界から救い出したいだけなんだ。ここですぐにおれの嫁さんになってくれと言えば、おれの金で救い出されたタミちゃんは、断るにも断れん』

『好きなら遠慮しないで嫁さんにしたらいいべさ』


多喜二『男と女は互いに自由でなければならないんだ。自由な身で付き合ってそれで結婚する気になったら結婚すればいい。とにかく今のタミちゃんに結婚を申し込むのは金で女を買うのとおんなじ事になる。おれはそうはしたくないんだよ。わかるだろ、母さん』なんて言う。(ノ_・。)


三浦綾子さんは初めセキさんが受洗してると思って『母』を書く気になったと書いているが、実は洗礼など受けてなくて、入ったのは、セキさん最晩年に共産党に入党しただけだったのだ。


皆になんで入党したんだと、よく聞かれたらしいが、
理由は定かにしていないのが、明るく優しい家庭を作った多喜二の母セキさんらしい気もする。




セキさんいわく…
右翼にしろ、共産党にしろ、キリスト教にしろ、心の根っこの所はやさしいんだよね。誰だって、隣の人とは仲良く付き合っていきたいんだよね。…………そりゃあ人間だから、悪い事も考えるべさ。あるときは人は怒鳴りたくもなるべさ。でも本当は、誰とでも仲良くしたいのが人間だよね。それだのに、人間は、その仲良くしたいと思う通りには生きられんのね。ちょっとの事で仲たがいしたり、ぶんなぐったり、後から後悔するような事ばかりして、生きていくのが人間なのね。…。


セキさんは、87歳で亡くなった・・・年に私は生まれました。
父は2月22日に亡くなったけれど 多喜二は、2月20日に亡くなってしまった。
2月は寒いけど…多喜二祭があるなら…行ってみようかな〜。


セキさんにも逢いたいな〜。







2010/02/23 1:05:11|思い出
想い出。

2月22日は、父の命日でした。

父は、財産と言えるものは、なにひとつ残さなかった。

私達に残してくれたものは、十分過ぎるほどの 想い出。


幼い時の私達家族は、水戸の先のローカル水郡線沿線に住んでいた。
単身赴任していた父は、毎週土曜日の夕方の電車で帰ってくる。
道を挟んだ畑の先を転々と窓明かりを点けて、ゆっくりと列車が駅に近づいていく。

家の門の前で、その車窓に父の姿を見つけると、近くの踏切まで走って迎えに行った幼い兄と私。

っていうのも、あの国鉄ローカル線の駅には、当時ひとり駅長がいたが、線路を50b程戻れば家に近いから、皆近所の人は正規の道は通らなかった。

だから朝、上り列車に乗るために、間に合わないと線路を前から人が走って来られたら、運転手は待たないわけにはいかなかったのだ。が、誰も咎める人もいなかった。駅長でさえも。


ネクタイ、スーツに黒い鞄をぶら提げてニコニコしながら暗い線路の枕木を歩く父の姿が近づいて来ると、少し私達も駆け寄って、父の腕にぶら下がるように、父の持っていた鞄を貰って、弾むように家へ帰る。

帰ると、必ずお土産は、田舎には売ってない都会のチョコレート?!?????
あんまり食べると動脈硬化になるぞ!といいながら…手渡してくれた父。


冬はタンゼン、夏は浴衣に着替える父を手伝う母の姿。
晩御飯の並ぶ座卓にあぐらをかいて座る父の膝の中は私の指定席だった。
背中に感じる父の温もりは温かかった。

…かなり昭和!


晴れた日曜日には、サイクリングへ行こう!といいながら、私を後ろの荷台に乗せて出発!

サイクリングになってない(^^ゞ

原付きバイクで二人乗りをしてお巡りさんに捕まった事もあった。
捕まってる父を見ても、動じなかった幼い私、よく泣いたり騒いだりしなかったな?!と、なんだか褒めてくれた。
あれからあまり動揺は人に見せなくなったかも…(*^o^*)
その後また二人乗りして家まで帰った。


時には、車で、ただ遠くの山を眺めにいって、(阿武隈山脈の端っこ)山はいいなぁ〜!
とよく言っていたが、嫌でも、いつも眺めている私達にとっては、訳がわからなかった。



そうだ、父がアキレス腱を切って休んで田舎にいて、兄は東京の大学に行っていた頃に兄もまた入院してしまっていたので母は、兄の所に泊まりこんでいた。

あるとき…、
父は私に、鰻でも食べに行くか〜?!
と言ってサンダル履きで車で出かけた父と私だったが、山や川を見ているうちに、栃木県に行ってしまった、仕方ないので、宿を見つけて泊まり、
また山河を眺めているうちに群馬県に行ってしまったので、もう一泊、
またまた高原を見ているうちに、長野県に行ってしまったのでもう一泊。

さすがに、もう帰ろうか〜と言うことになり、軽井沢辺りで鰻を食べて帰って来た事がある。

その都度母には電話はしていたが、母も、帰ってらっしゃいとは言わなかった。

返って、電話口で、楽しそうに笑っているようだった。
今もその時の事を楽しそうに話す母。

そんなだから、財産なんかあるわけもない(*^o^*)

父も兄も病人で、普通なら不幸な事なはずなのに、何故だか、楽しかった父が生きていた日々だった。

今もおかげ様で、そこそこ苦しい事はあるけど、楽しい日々を送ってるよ!お父さん!


11年前にこの世から姿を消してから、私の一番近いところにいてくれるような気がします。

不思議だな。

お父さん!楽しかったよ(^^)v
ありがとう(*^▽^*)/




・・・・・残ったものは、意外に、放浪癖かも???ね??!


写真は、去年の京都の
哲学の道沿いに咲いていた桜。
早春に、一本だけ なぜか満開だった












2010/02/17 22:24:19|小旅行
成田空港。
先週に引き続き、成田空港へも行ってみました。


かれこれ22年前になるでしょうか、イッチョマエに、新婚旅行なんてもので、ヨーロッパに行ったりして…、
とうとう その後は一度も成田に、用はありませんでした。


あの頃は、自信はなかったけれど、私も少しは初々しく、少しは希望に満ち溢れ、少しは、それなりに輝いていたのかな?!(*^-’)b


ただ、今の方が、心も体も丸くはなったかもしれない?!(・_・;)
( ま! いっか! )


…そして、その頃の成田空港も、もっと夢と希望があった気もする?!


南ウイングの出発ロビーには、円形のコーヒースタンドがあって…多分…。椰子科?の大きな観葉植物が置いてあったりして、それだけで、南国リゾートたっぷりで、心ここに非ず。もうすでにバリ島辺りで篝火の炎の影に民族衣裳で食事なんてしている自分がいたりする…。(^^)v


しかし今は、何も特別な感じがしな〜い。(・_・;)


日曜日のせいもあるのか、発着も少ないし…。
飛行機はデルタばかりで色気がないし…

見学デッキも、以前は…、

『只今〜離陸致しました…航空機は…行きです。』

とかアナウンスがあったりして、行った事も見たこともない遠い国を想い妄想に走ったものだった。本来の機能目的ではないけれど…楽しませてくれた。実際、楽しかった。(*^▽^*)/


ただでさえ静かな日曜日の空港なのに…なんにも楽しませてはくれない…。
…(ノ><)ノ

無駄だ!と切られたんだろうなぁ〜!

サービスってそんなに無駄なのかなぁ〜?!

自分の心も貧しくなっているのか、ワクワクもしなかった。

…言葉は、まちまちに違うようだが、殆ど同じ顔立ちをしている人しか目につかない…。


これじゃ〜訛り懐かし停車場の上野駅の方が面白いかもしれない?!

今度は、


そうだ、
  上野駅
   行こう!


できれば根津辺りも散歩してみたいな〜!
あぁ〜!(・o・)ノ、そうだ!路地裏 探検もいいなぁ〜!
路地って好きだな〜!


そう言えば、鎌倉の長谷から歩いて、「無心庵」のおしるこを食べようとして、どこで曲がったらいいのかわからなくて、新聞屋さんのおじさんに聞いたら、
『そこのうなぎやさんのとこの路地に入ったら江ノ電の線路沿いにでるよ!』
と言われて、入っていった路地は、
ちょっと大きな邸宅なら、勝手口へ続く飛び石の続く裏庭の勢いだった。
とても道とは思えない。

でも、自然と 笑顔になっちゃう路地だった。
路地って不思議!( ^^) _旦~~

あれ!?なんの話し してたっけ?!(*^_^*)
    …。







2010/02/13 21:46:57|映画のこと
インビクタス/負けざる者たち
映画:インビクタス 負けざる者たち
監督:クリント・イーストウッド


南アフリカ大統領 ネルソン・マンデラ

アパルトヘイト(人種隔離政策)と言う重苦しい人種差別の厚い壁が崩されようとするとき…

マンデラは、もっとも頭のいいやり方で 人種差別を消した。

黒人の地位を向上したわけでもないし、

白人を叩いたわけでもない。


『今は卑屈な復讐を果たす時ではない』と一貫した考えだった。

その昔…マンデラは、白人政権の転覆を企て、反逆罪で終身刑の判決を受け、27年半獄中で暮らした。
独房に入れられ極致の中で考えるしかなかった事なのかもしれない。
そんな中でも絶望も悲観する事もなく、常に自分を失わず笑顔と遊び心を持ち続けていたという。当時を語る看守は、
 『彼は堂々としていた。白人にもダメな人間がいるように、黒人にも素晴らしい人間がいる。それを教えてくれた人でした。』
と言っていたという。

これは、映画『戦場のピアニスト』でも、
「味方でも悪い人間もいたが、敵でも良い人間がいる」
と言っている。


そして出会った一遍の詩がマンデラを動かし、弱小ながら、アパルトヘイトの象徴のようなラクビーチームを動かし、南アフリカの民衆を動かし一つにした。
鼻から、差別を考えず。

一つにしただけで、みんなが幸福を感じる事ができた。

マンデラには、敵をこそ仲間にするという獄中で身につけた信念がある。


インビクタス(征服されないと言う意味。)

前回の記事中に書き込んだ『黄金の日日』の、敵を敵と思わず、友とした堺の商人の考え方と同じだ。
大航海時代、この堺の商人の事を、当時イエズス会のキリスト教布教活動をしていたポルトガル人が書き残し、ポルトガルで見つかったらしい文献がある…となると、それが脈々と四百五十年の時をかけて鍾乳石を造るかの様に、一滴の時の一粒が、大河の流れと化しアフリカの南端に届いたのかもしれないと想像したりすると…これまた楽しい(*^▽^*)/

幸福な事だもの!(*^o^*)

マンデラ釈放後ANCと白人政府の協議に基づいて暫定憲法が成立。

副大統領は第一党と第二党からひとりづつ。

5%以上の票を得た党からは、閣僚をだすと言う
『強制連立』のルール。

ANCの一党独裁に陥る事を防ぐためだ。…と言う。

1994年の総選挙では、ANCは第一党とはなるが、三分二には届かず単独政権をつくる事はできず強制連立条項に基づき人種協調政府ができあがった。

後にマンデラは、自伝で、
『実のところほっとした。ANCだけで憲法を起草していたら、それは南ア憲法ではなくANC憲法になってしまう。私は国民統一政府がほしかったのだ』
と語ったという。

マンデラは、1999年一期であっさり大統領の座を降り、引退した。
権力の座にしがみつくアフリカの指導者が多い中、異例のいさぎよさだった。
と言う。

それって、アフリカだけの話しではないですよね。

そのために、権力を振りかざすために、お金を使い お金で動かすから お金でしか動かない人達を生み出す お金でしか動かないから お金が必要になる だからお金が欲しくなると とめどない連鎖が生まれ なんの為に動いてるんだか生きてるんだか わからなくなってしまう不幸。な人生を作ってしまう。
金権政治という手っ取り早いサギ的方法で、荒稼ぎをするしかなくなるのかもしれない。それは問題だ。


…マンデラは独裁的英雄ではなかった。
…しかし
マンデラ引退後、南アフリカは、ANCが三分二を獲得し、
連立条項を削除してしまった。

指導者達はあまり大衆の生活に関心がなく利権をあさるようになり失業率40%、治安の悪化が目立っていると言う。

昔昔、大塚製薬の社長が言っていたが、血は混じれは混じる程、良いものが生まれる。と言っていたことを思い出す。

知らないものは怖いから敵にしてしまう…。
相手を知り赦し、やはり敵じゃなく仲間にすればいいだけだ。
ホントは皆、仲良くしたいくせにね!(*^o^*)


マンデラ曰『赦しが魂を自由にする』


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インビクタス (負けざる者たち)
ウィリアム・アーネスト・ヘンリー


私を覆う漆黒の夜
鉄格子にひそむ奈落の闇
どんな神であれ感謝する
我が負けざる魂〈インビクタス〉

無惨な状況においてさえ
私はひるみも叫びもしなかった
運命に打ちのめされ
血を流そうと 決して頭は垂れまい

激しい怒りと涙の彼方には
恐ろしい死だけが迫る
だが 長きにわたる脅しを受けてなお
私は何ひとつ恐れはしない

門がいかに狭かろうと
いかなる罰に苦しめられようと


私は我が運命の支配者

我が魂の指揮官なのだ