幻塾庵 てんでんこ

大磯の山陰にひっそり佇むてんでんこじむしょ。 てんでんこじむしょのささやかな文学活動を、幻塾庵てんでんこが担っています。
 
2023/05/29 5:00:42|雑記
事務長健在、とりあえず
 
幻塾を支えている事務長のもとに、爽やかな風が吹き込む


『CATS オールド・ポッサムの抜け目なき猫たちの詩集』

 T・S・エリオット 詩
 宇野亜紀良 画
 佐藤 亨 訳
 (球形工房)
 
 
    「練習生 8」
    (てんでんこ図書館)

 *収録された庵主の文章がふたつ
  X氏への献辞(詩歌句集『漆の歴史』)
  万葉仮名を論じて「フィネガンズ・ウェイク」に及ぶ(「中央公論」)







2023/05/09 4:58:54|雑記
白鶴亮翅(はっかくりょうし)



昨年「朝日新聞」に連載された作品が、276頁ものずっしりした本になっていて驚きました。

タイトルには「はっかくりょうし」とルビがふられています。
太極拳歴の長い人は「バイフーリャンチー」と読み習わしているので、違和感があるようですが、太極拳初心者は心の中で「はっかくりょうし」と言い直すといっそう愉しい気分になります。

「書籍化にあたって加筆修正」されているそうでもあり、読み直してみようとぱらぱら眺めていたら、なんとなく愉快な一節が目に入りました。

 

 インターネットというのは川幅の広い、流れの荒い濁流のようなもので、一寸法師のわたしはその水面をお椀の舟に乗ってどこまでも流されていくうちに、支流の支流のそのまた支流に入りこんで、そのうち自分が何を知りたかったのかなどすっかり忘れてしまうことも多い。
 クリックするごとに惜しげなくディスプレイに溢れる情報に視線を走らせるのだが、いくら読んでも満足感がない。いくらポテトチップを食べてもお腹が一杯にならないのと似ている。


 
 わたしには夜一人でふらっと気の向くままに出かける習慣はなかったが、そんな自分の生活習慣を破ってみたい気もした。夜一人で町に出て本屋を見て、バーに寄って一杯やってから家に帰るなんて、まるで映画の登場人物になったみたいでわくわくする。もし観光でこの町に来ているのなら夜に外出しただろうが、住んでいると仕事や雑用に追われて、歩いていける範囲内で生活するようになってしまう。大都会で暮らすのが好きだといいながら、静かな村で暮らす敬虔な女性のように日が暮れたら外に出ず、自炊して本を読みながら寝るだけだ。







2023/04/27 5:00:00|文芸誌てんでんこ
アリギリスの歌 「てんでんこ」最終号用?

わが〈読者教〉教祖ボルヘスの全体像を知るのにうってつけの一冊に『ボルヘスとわたし』(牛島信明訳)がある。自撰短篇集とタイトルに記されているが、本書が異彩を放つのは、その収録短篇のすべてを著者自身が選択していることの他に、教祖の自伝並びに教祖自身の自作注釈を含むことである。「ボルヘスとわたし」が、虚構の短篇の一つのタイトルであるのも、いかにも教祖的だ。

自身をも他者とみなして対話をつづけた教祖のキワメツキの一冊として長い間、愛読してきた次第だが、久しぶりにページをめくると新しい発見があった。といってもささやかなことだ。自伝風エッセー中の、二十代半ばに出した第三詩集『サン・マルティン・ノート』へのカッコ書きの補足部分をこれまで読みすごしていた。思潮社版海外詩文庫『ボルヘス詩集』(鼓直訳篇)では、〈サン・マルティン印の雑記帳〉として四篇収録されているが、この題名について、サン・マルティンという「独立運動の国民的英雄とは何の関係もなく、わたしが詩を書きつけていた古びたノートブックの商標名にすぎない」と教祖はさらりと言ってのけていた。海外詩文庫版が、「サン・マルティン印の雑記帳」と訳した苦心がしのばれる。


教祖の原点を示す「古びたノートブック」がどんなものだったか知るよしもないが、ヒラ信者の当方にとって、教祖の活動全体が、根源的な〈ノート作家〉の精神にもとづくものであるように思われてならない。

極私的なものが極史及び極詩的なものに重ねられる教祖の自伝の中でとりわけ信者の心を揺さぶるのは、田舎者(アルゼンチン人)がヨーロッパに渡った時に体験したエピソードの数々である。たとえば文化後進国出身の青年が、マドリードに行ってあたためた友情の話など、「忘れることのできない」のは、教祖ばかりでなく、われわれも同様である。「今でも自分を彼の弟子と見なすにやぶさかではない」と教祖が言う詩人カンシーノスに人を介して会った際、おずおずと海をうたった彼の詩を称賛する若き教祖に、「ああどうも」と彼は言い、こうつけ加えたという――「死ぬまでに一度でいいから海を見たいものです」

井の中の蛙を自認する若き教祖は、このやりとりに対して何も書かず、かわりに次のように記す。

「カンシーノスにまつわる最も顕著なことは、彼が金銭や名声などに頓着することなく、完全に文学のためだけに生きたという事実である」

世界的名声と同時に失明という不幸に見舞われた教祖は、以後、根源的〈ノート〉を闇の中に移動させた。自伝の言葉をかりればそれは「ポータブル」になったのだ。

 

*四月中旬に下郷町を訪ねたK・Yさんが、志源行の写真を送ってくださいました。
7軒が暮す集落の墓地が写っています。

*「アリギリスの歌」全22本が冊子になります。
詳細はメールフォームでお問合せください。

 







2023/04/19 5:00:00|文芸誌てんでんこ
アリギリスの歌 「てんでんこ」第17号用


ほんとうにほんとうのノート作家カフカのアフォリズム〈八つ折版ノート〉を読み返すたび、やはり遠い昔に聞き知った新約聖書の言葉を想い起こす。うろ憶えだが、ナザレ人はたしかこう語っている。

身を殺して魂を殺しえぬ者をおそれるな。身と魂とをゲヘナにて滅ぼしうる者をおそれよ。

何を言っているのかわかったためしがないのに、どうしてか忘れえぬ言葉として記憶に残る代表的なもので、今でも理解はできていない。信仰をもつ人に訊けば、正統派の教義での解釈をしてくれるのかもしれないが、あえて不明のままにしてある。

意味不明なのに、どうしてカフカの〈八つ折版ノート〉と直結しているのか……じつはその謎を解くためにカフカのノートを反復して読みたくなる堂々巡りぶり……。

ゲヘナは、エルサレム城壁の南にある地名で、古く幼児犠牲が行なわれたことから新約聖書では地獄の意になったという。

種々のノート類に、創作を含む文を書きつづけ、自分という存在は〈文学〉以外の何ものでもなく、すべてを〈文学〉にささげると宣言した作家は、たとえば〈八つ折版ノート〉にこう書いた――「剣に魂を突き刺されたときに肝要なのは――落ち着いて眺めること、血を一滴も失わないこと、剣の冷たさを石の冷たさでもって受け入れること。突かれたことによって、また突かれた後、不死身となること」

これまた何をいっているのかわかったためしがないのに、不可能性をめぐる作家の絶望的なたたかいぶりは、ナザレ人の剣に拮抗しうる稀有なものだったという思いが私の中にゆるぎなくあるのはどうしてだろうか。

1914年2月11日付の日記に、「激越な印象がぼくの心をひっさらって行く」と前置きした後、「どうして人は自分自身に火を点けて火のなかで滅ぶということができないのだろう? あるいはまた、命令が聞えなくてもその命令に従うということができないのだろう?」などと作家は書く。「激越な」記述にはまだ続きがあるのだけれど、身と魂を没入させた〈文学〉の結晶を、ゲヘナの火に投じる作家の原像をこのひとかけらの文に見出すのは難しくないはずだ。

M・ブロート宛に、日記、原稿、手紙などを「残らず、読まずに焼いてくれ」という趣旨の遺書を残したカフカは、熱読したキルケゴールの新約聖書の真理の剣に、幾度か「魂を突き刺された」と想像される。〈文学〉以外の真理に突かれたことによって、また突かれた後、不死身となった作家こそカフカである。

 







2023/04/12 5:00:00|文芸誌てんでんこ
アリギリスの歌 「てんでんこ」第16号用

アリでもありキリギリスでもある、あるいはそのいずれでもないカフカ的雑種として生きてきたアリギリスが、実存の最終ステージで、辛うじて標榜しうるとみなした「ノート作家」――。しかし、その「ノート」のニュアンスも雑種的という他ないようである。

アリギリスガマスターできた外国語はただの一つもないが、多和田葉子のいう〈カタコトのうわごと〉ふうの異語のカケラを好物のナッツ類のように食べる習癖は若年期以来のものだ。このナッツをたとえば「ノート」を発音すれば、東北ズーズー弁のネイティヴスピーカーお得意の訛りと思われるかもしれないが、ドイツ語のNot、そしてアリギリスの偏愛するデンマーク語のNødと並べてみるとイメージの雑種的つながりがみえてくる。

ドイツ語にもデンマーク語にも、英語のnoteと同じつづりで同じ意味の単語はある。ノート(ブック)は最もありふれた世界共通語の一つといえよう。アリギリスは読めもしないカフカの原典版全集の日記をあてどなく眺め暮らしていたある日、一九一三年の記述中、次のような一行に出くわした。

 Was für Not!

このNotが、英語の否定形やnoteの‶縁語≠ンたいに思え、日本語訳全集をあたってみると、「なんという苦境!」とあり、たぶんカフカが特別の書き方をしているためだろう、同訳文には傍点がふられていた。この数行ほど前には、やはり傍点付きの「ぼくというみじめな人間!」という一行も見出される。

ドイツ語のNotやデンマーク語のNødは、音の近縁性からわかるように英語のneedに相当する。他に英語相当語をあげると、want、necessity、difficulty、trouble、misery、dangerなどなどである。なぜ、「必要、入用、要求、さし迫った事態、いざという時」と「不足、欠乏、貧困、貧窮」とが同居しているか、なんとなくわかる。 

さいごのさいごには他の草稿・作品類と共に焼却してほしいと遺言されたものではあるけれど、カフカが日記に対し並々ならぬ思い入れを抱いていたことはたしかだ。「ぼくというみじめな人間」にたえず襲いかかる「苦境」への実存的処方箋の一つとして、日記はどうしても「必要」欠くべからざるものだった。

ドイツ語のNot に相当するデンマーク語のNødは、じつは「苦境」と「必要」の他にもう一つ、木の実のナッツの意味をもつ。ナッツ類に目がないアリギリスが、特にこのデンマーク語を愛惜してやまない所以だが、ごく最近、大部の辞典をみてNødに「ばかもの」というさらにもう一つの意味があるらしいことを知った。天才作家のいとなみと区別して、Nød作家を名のる必要に迫られた次第だ。