幻塾庵 てんでんこ

大磯の山陰にひっそり佇むてんでんこじむしょ。 てんでんこじむしょのささやかな文学活動を、幻塾庵てんでんこが担っています。
 
2020/02/04 6:00:41|事務長雑記
海に向かえ山に向かえ言葉に向かえ

「三田文学」2020年冬季号に掲載された多和田葉子さんの文章です。


 目を閉じると、自転車を押してうんうん唸りながら坂をあがっていく室井さんの姿が目に浮かぶ。坂の向こうには町があり、室井さんはその町に仕事をしに行くのである。それはどうも自分のやりたい仕事ではないという気がしてしまうのか足がすくんでいるようだ。自分にはしなければならないもっと大事な仕事があるはずだ。町の人たちが仕事と呼んでいる作業、それは情報をコピー&ペーストして流すだけのこと。時には事務と呼ばれ、時には創作と呼ばれもする作業。誰もがキーを打つのが上手くなって、そのスピードは日々速くなっていくのだが、それは本当に仕事なのか。室井さんは踵を返して家に帰りたくなるが、自転車を押して坂をあがっていく自分を忘れて、牛を引いて坂をあがっていく自分を想像してみると少し納得する。自分の祖先もこんな風に牛を連れて坂道を登って歩いていたという気がする。なるほど空想の牛はさっさと歩いてはくれないので速度は遅くなるかもしれない。しかし、みんなと同じテンポで歩いたのでは大切なことは何も見えてこない。ベンヤミンも幼年時代、学校に遅刻してしまった時に初めて体験できた貴重な時間のことを書いているではないか。みんなから遅れることはとても大切なことなのだ。室井さんはいつだったか、そんなことを話してくれたような気がする。それ以来、わたしは時々自問する。自分はしっかり遅れることができているのか、それとも先を急ぎ過ぎているのか。みんなと歩調を合わせすぎていないか。ちゃんとものの見える速度で歩いているか。いつの間にかみんなと同じテンポで原稿という名の燃えるゴミを生産し、売却し、まるで当然のように原稿料を受取り、そのお金で服を買い、靴を買い、人生において末端的な意味しか持たない端末を買って暮らしているだけではないのか。わたしたち作家はなんとなく、自分がビジネスマンとは対極にいると思って優越感を抱いている。しかし原稿を売り、原稿料をもらい、その原稿の載った雑誌や本が価格をつけられて商品として売られているのだから、作家も経済機械の一つの部品として機能していることに変わりはない。小説家がセールスマンよりもたくさんの時給をもらっていることもある。室井さんはそういうことに敏感な人だった。
 わたしは自分の書いた文字を売って暮らしている。それでいいのか。いいに決まっている。いくら原稿料をもらっても自分の書きたいことを書いているのだから。とわたしは思う。しかし原稿料をもらっている限り、原稿依頼をしてくれた人の気に入りたいという気持ちが知らないうちに出てくる。もしも誰も原稿料をくれなくなったら、わたしの書く小説は変わるのだろうか。変わるかも知れないし、変わらないかも知れない。いずれにしてもそんな問いを立てることを忘れてしまう日が来たらおしまいだ。ある時、室井さんが照れたような笑いを浮かべて、「いやいや、今回はつい商業誌で仕事をしてしまってお恥ずかしい」とこぼした。わたしは室井さんがいったいどんな商業誌に原稿を書いたのかと不思議に思ったが、あとでそれが『現代詩手帖』と知った。確かに『現代詩手帖』も定価がちゃんとある商品だし、原稿を書いた人が原稿料をもらっていないとは言えない。立派な商業誌である。
 本当に商業誌ではない雑誌をつくって、若い人たちといっしょに外部に干渉されずにやっていくことを室井さんは考えていたのかもしれない。
 室井さんがつくった雑誌『てんでんこ』を初めて送ってもらった時のわたしは恥ずかしながら、まだ「てんでんこ」という言葉を知らず、「でんでん虫の子供なったつもりでゆっくり進め」というくらいの意味だろうと勝手に思っていた。実際の意味は「ゆっくり」どころかその逆で、「津浪が来たら子供や親を探していないでまず自分自身が全速力で逃げよ」というような意味なのだそうだ。
 逃げるのは卑怯だという考え方もある。しかし学生時代、大学の必修授業でとった合気道の先生が「暴力を受けそうになった時、もし逃げられるなら逃げるのが一番正しい。それができなかった場合の技が武術だ」というようなことを言っていた。あっ、そっか、逃げるのが一番偉いんだ、とわたしは目から鱗だった。
 何をしても日本の政治と経済のシステムの歯車になってしまう。そこから全速力で逃げるにはどうすればいいのか。まずは自分一人が全力で逃げるのが「てんでんこ」の精神だろう。しかし同人誌は複数で出すものなので、そこには連帯の精神がある。一人で逃げているのではなく、友人や若い人たちを引き連れて、津浪から逃げている。ただしみんなで手をつないで逃げるのではなく、たった一人でも逃げる覚悟のある人たちといっしょに逃げるのだろう。
 室井さんの実家に一度連れて行ってもらったことがある。本州というのはそもそも海からどんどん遠ざかって中心に近づくに従って山襞が狭くなっていくものだ、と室井さんが教えてくれた。室井さんの口から漏れる「会津」という言葉が新鮮で、会津の人間は簡単に「おかみ」の命令には従わない、と言われると、明治政府は歴史の記憶をぬぐい去るために藩の名前を消して県の名前と取り替えさせたという説にも納得がいくのだった。名前を変えただけでなく、元々は複数の藩に分かれていた異文化が一つの県に統合された。
 だから同じ福島県でも海に向かう部分と海から離れて山に向かう部分があるようだ。この二つの衝動は誰の中にもあるが、さしずめ室井さんの場合、海に向かう気持ちはボルヘスへ、カフカへ、シェイマス・ヒーニーへ、つまり世界文学に向かっていた。そして山に向かう心は文化人類学者になって幼年時代の記憶を探索した。この二つが結びついたところに室井文学の魅力があるように思う。
 室井夫妻が成田空港から遠くないところに暮らしていた頃、わたしはドイツに帰る前の日に泊めてもらったこともあった。家の近くを散歩するのが好きだった室井さんに、お気に入りの散歩道を案内してもらった。家の近くと言ってもそれは私小説的な空間ではない。散歩中に縄文土器を見つけたことが何度かあるそうで、何の変哲もなさそうな小径が歴史の遠い時間に繋がっている。室井さんは縄文を高く評価していて、呪術としての言葉の力をその模様に見ていた。わたしも小説を書きながら、「わたしの言葉はちゃんと縄文になっているだろうか。ひょっとして弥生になりかけてしまっているのではないか」と自問することがある。縄文に踏みとどまるのは難しい。きっと人はどこにも踏みとどまることなどできないのだ。だから縄文は踏みとどまるべき場所ではなく絶えず再発見すべき場所なのだろう。
 ちなみに室井さんは昼間から縄文土器を探しながら散歩をしていて、警官に不審者と思われ呼び止められたこともあるそうだ。他の人間たちは勤めに出ているか、家事をしているはずの時間に外をぶらぶらしていただけで不審な人間と見られてしまうのではなんだか戦時中のようだなとわたしは思った。平日の日中の散歩もみんなの時間から「遅れる」技だったのかもしれない。遅れなければ何も見えない。遅れれば、日常生活の中でも、大がかりな旅行をしなくても、縄文時代という遠い過去まで見えることがあるのである。
 室井さんは近所を散歩していただけではない。
 アンデルセンの幽霊に会いにデンマークに行ったこともあり、その時わたしが当時住んでいたハンブルグにも寄ってくれた。確かその時に対談したのが初めてだったのではないかと思う。かなり後になってから文学祭に呼ばれてベルリンに来たこともある。いっしょにベルリンの地下鉄に乗っていて、「ドイツの地下鉄はなぜアインシュタインとつぶやき続けているのか」と室井さんに言われた時は何のことか見当がつかなかった。しばらく考えてやっと分かった。発車前にドアが閉まる時に聞こえる「アインシュタイゲン、ビッテ(ご乗車ください)」という放送のことを言っているのだった。「アインシュタイゲン」の「ゲ」は日本語の「ゲ」とは全く違って呑み込まれて聞こえにくい音なので、確かにそう言われてみるとアインシュタインと聞こえないこともない。それ以来ベルリンの地下鉄の中でわたしは時々相対性理論について考える。情報を処理する技術は日々前進し、小説を読む時間や能力は日々後退していく。すれ違う地下鉄をその二つの流れに譬えると、二台の地下鉄がすれ違う時、それぞれの地下鉄の車内で作家から読者へ投げられた言葉のボールのスピードは一体どう歪むのか。これがわたしの相対性理論である。
 この原稿を今リオデジャネイロで書いている。室井さんはわたしのことを、「箒に乗って世界を旅する魔女」だと言っていた。飛行機と違って箒に乗っていると落ちるかもしれないので居眠りもできない。昨日ブラジルのHaroldo de Camposという詩人の詩集をある親切な方にいただき、ポルトガル語は読めないのに文面に直感的に面白さを感じ、どうやら実験的な散文詩らしいと勝手に考えながらテキストを眺めていた。するといきなり「muro interno」という語にぶつかった。もちろんわたしは「muro i/nterno」と読んだ。これからも、このような読み方をしてしまう度に、言語という不可解な怪物を常に読み続けた室井さんのことを毎回思い出すのではないかと思う。







2019/12/29 8:11:00|事務長雑記
追悼句による室井光広のためのエスキース【追悼・室井光広】
井口時男さんが、「群系」第43号に寄せた文章の前半です。


 九月二十七日夕刻、奥様・陽子さんからのメールで室井光広の死を知った。その前日「てんでんこ」十二号が届いたばかりだった。
「てんでんこ」は東日本大震災後に彼が仲間たちと創刊し、実質的に編集・主宰してきた雑誌である。十二号に彼は、「エセ物語編纂人」名義による長期連載小説『エセ物語』と実名での多和田葉子論と変名でのコラム二本と無署名のコラム一本、計五本を発表していた。苦しい闘病の中でよく頑張ったものだと私は感嘆し、彼の病状の行方に光明を見たような気さえしていたのである。(変名のコラム二本は私の俳句と『蓮田善明 戦争と文学』への感想だった。後日、十三号のコラムのための原稿が見つかった、と陽子さんが送ってくれた「遺稿」も私の俳句についての感想だった。)
 その十二号に私はコラムを一本載せただけだった。
 彼は七月三日に入院した。(「群像」十二月号の追悼文に六月半ばと書いたのは私の勘違いだった。)その時点では病名はまだ推測の段階だったが、八月初めに届いた彼自身からのメールは「悪性リンパ腫なる血液のガンにとりつかれた男からギリギリの一報」と書き出されていた。末尾に婉曲な原稿督促と読める文言があったので、大急ぎでコラムを書いて送ったのである。毎号かいていた俳句がらみの近況報告で、タイトルは「生還の声あっけらかんと」。
 ――昨年十一月末、肝臓癌で余命数年の宣告を受けた、とせつなげに電話してきた遠方の友人が、その後音沙汰なく、今年二月初めに電話したら、あれはほぼ完治した、とあっけらかんと応えたのだ。しかも、かくも速やかな治癒は抗癌剤治療のかたわら医師に内緒で大量に飲み続けていた乳酸菌のおかげにちがいない、などととぼけたことを言うのである。喜びもしたが驚きあきれもした。余命宣告からわずか三か月での完治宣告である。〈生還の声あつけらかんと木瓜の花〉コラムの末尾は「奇跡は『あつけらかんと』起こるものらしいのだ」と結んだ。
癌の性質が違うことは承知で、ただの無責任な気休めとは知りつつ、それゆえかえって腹を立てられてもしかたないとも思いながら、書かずにおれなかったのだ。
 折り返し、抗癌剤の副作用で朦朧としているが、陽子さんが枕元で二回読んでくれた、「心に沁みた」、と短いメールが来た。だが、彼に「奇
跡」は起こらなかった。
 彼が息を引き取ったのは二十七日の昼十一時半だったそうだ。その日、遠く離れた場所で私の体験した不思議――室井用語でいう「コウインシデンス」(偶然の一致、符合一致)、「ねこまたの聞かせ」(虫の知らせ)――については「群像」の追悼文に書いた。散歩していた私は、ちょうどその時刻、梨畑に巡らされた二枚の薄いネットの間で出られなくなっていた黒揚羽をつかまえて「解放」してやったのだった。あたかも生と死のあわいでもがき苦しんでいた彼の魂を「解放」してやる(「解放」してしまう)ように。
 蝶を人の魂とみなす伝承は洋の東西を問わず古くからあるが、ことに黒揚羽は私にとって格別で、夏の日盛りを歩いていると、木陰などから影そのものが揺れるようにして現れる。それは光(生)と影(死)の境界をゆらめき翔ぶ蝶なのだ。だからたとえば、齋藤愼爾句集『陸沈』に寄せて〈陸沈や幽明ゆらぎ黒揚羽〉(『をどり字』所収)と詠んだり〈黒揚羽身重の天使ゆたゆたと〉(同前)と詠んだりしたのだった。(「陸沈」は市井の隠者のこと。出典は『荘子』の逸話。むろん荘周は夢で胡蝶に変じた男である。)

  君逝くや秋たまゆらの黒揚羽
  黒い揚羽の影がちらつく水の秋

「たまゆら」には「魂揺ら」の意が「エコー」するだろう。その背後には原義だという「玉響」(巫女の手にした玉が触れ合って鳴る)も「エコー」する。それなら鎮魂または死者の霊魂を賦活するための「魂振り」の意もこもるはずだ。
「エコー」は室井光広の愛用語である。言葉(文章)を読むとは、眼前の言葉(文章)の背後から聞こえてくる「エコー(こだま)」を聴き取ることなのだ。室井によれば、古今東西の全言語空間(全文学空間、全テクスト空間)は言葉同士が触れ合って反響し合う「エコー」の宇宙なのである。
 夜になってから多摩川の土手に立ってみた。夜空は霽れていたが月はなく、私の眼には星もよく見えなかった。

  銀河茫々隠れたる者よく生きたり
「よく隠れた者はよく生きた」はオヴィデウスに由来するラテン語の諺らしいが、私は秋山駿のなにかのエッセイで知ったはずである。
 たしかに室井光広は「よく隠れた」。彼は東日本大震災の翌2011年春に東海大学教員を辞めて文芸ジャーナリズムからも「隠遁」した。彼の「隠遁」は徹底していて、諸雑誌編集部にわざわざ申し入れて雑誌寄贈をすべて断り、「文芸年鑑」からも名を削除してもらったという。
 しかし彼は、その年の末に雑誌「てんでんこ」を創刊した。誌名は、津波が来たらとにかく「てんでんこ」(一人一人)で逃げろ、という、大震災後に話題になった東北の格言に由来する。
 1988年にボルヘス論で「群像」新人賞評論部門を受賞して批評家として出発した彼は、1991年の『猫又拾遺』(掌編十二篇の総題)から小説に転じた。小説の舞台は、『猫又拾遺』から死によって未完に終った最後の長篇『セエ物語』まで一貫して、福島県南会津の彼の故郷をモデルにした土地だった。いわば「室井サーガ」である。(書き方はいわゆる「サーガ」(物語)とはまるで違うのだが。)
 そういう彼が東日本大震災の大津波と原発事故によって大きな衝撃を受けたのは当然だろう。一週間ほど呆然自失の状態ですごしたのち、彼はおもむろに、大津波に襲われた土地の地名――太平洋岸五百キロにも及ぶ――を、まるで「写経」するように、大学ノートに書写し始めたという。むろん、名を呼び名を記すのは鎮魂の行為にほかならない。
 彼の行為は現実的にはまったく無力であり無効である。だが、私はこの無力かつ向うの行為に感動した。文学は無力だ、と誰でもいうが(私も大震災後にそんなことを書いたりしゃべったりした)、彼ほど真剣に無力さに向き合い無力さに徹した文学者は他にいまい。大震災に接して様々なパフォーマンスを演じた作家や詩人たちの大半を私は信用しない。それらはたいてい世間向けの「ケレン」であって、無力さにとどまることがいかに難しいかを実証する現代的な病の症例にすぎない。私はただ、この無力かつ向うの行為に徹した室井光広を信用するのだ。
 そういう体験を経た彼が「てんでんこ」を創刊したのである。創刊号冒頭には「願文」(無署名だがもちろん室井光広の文体だ)が掲載されていて、吉田文憲の予言的な詩集『原子野』(2001年刊)を引いてはじまるその「願文】は、創刊同人を「七名からなる単独者組合」と呼び、「単独者の組合とは、すなわち単独者の精神を極限にまで尊重し、各自の主体的創作行動を信頼し尽すという見果てぬ夢の組合、不可能性のギルドです」と述べている。(私は創刊メンバーではない。私が寄稿し始めたのは第二号からである。)「てんでんこ」創刊自体が、その命名に込められた意味も含めて、世間への顧慮ばかりを優先させる現代ジャーナリズムの中にあって、すぐれて倫理的なふるまいだったのだ。
 しかも彼は、編集人・発行人でありながら、奥付にも名を出さず、連載小説やコラムも匿名・変名で書き、2016年の第八号のエッセイに署名するまで完全に隠れ続けていた。その意味で彼は黒子に徹していて、特に、大学の教え子でもある若い詩人や作家、批評家たちを世に出すのに熱心だった。近況報告のつもりで送った私の俳句を初めて「作品」として誌面(第二号)で扱ってくれたのも彼である。
 彼はまさしく「よく隠れよく生きた」。

  断腸花骨を拾ひに行く朝の
 二十九日朝、「骨を拾ひに」出かけた。縄文土器のかけらを拾うように、という心である。(彼は一時期縄文土器にのめり込んでいて、『縄文の記憶』という著書もある。彼にとって「縄文」は「東北」の基層なのだ。)くれぐれも、と念を押されたので、ふだん散歩するときのままの平服である。
 私の町の駅前通りの花壇にこぼれるほど咲いているのは園芸種のベゴニアだが、ベゴニアと秋海棠はもともと同じ花らしい。「断腸花」は秋海棠の別名である。
 大磯には少数の親族と私を含めて四人の文学仲間がみんな平服で集まった。癌で亡くなった友人は何人も見てきて、その枯木のような死顔を見るのが辛かったのだが、室井光広の顔は生前とあまり変わらず穏やかだった。

  棺にりんだう大字哀野を花野とす
 彼は「室井サーガ」の舞台を「猫又」とか「八岐の園村」とか「下肥町」とか(わざとあざとく)命名したが、中篇小説のタイトルにもなった「大字哀野」もその一つ。正しくは「アイノ」だがここでは「アイヤ」と訓みたい、と書いている。この「アイヤ」が台湾人の母とユダヤ系アメリカ人の父の血を引く青年が発する感嘆詞「アイヤ!」と重なってさまざまな「エコー」へと変換されていくことになる。むろん漢字の示す「哀」も「野」も響いている。言葉の繊維をほどいては結びまたほどいては結び直し、そうやって次々に変換して思いがけない「エコー」を引き出す室井流の方法だ。それはジェイムズ・ジョイス『フィネガンズ・ウェイク』の方法であり、かつ柳田国男の方法なのでもあった。

  君は燃え我は秋日の猫じゃらし
「焼き上がる」までの間、ひとりで火葬場裏の喫煙所に行ったら、ようやく差し始めた陽射の中に一匹の黒猫がいた。まだ華奢な若い野良だ。両耳の後ろに噛まれたらしい大きな傷痕があった。ちなみに、大字哀野では、猫は「現世と冥界との霊的往来の際の媒介者だと信じられている」そうだ。

  喉ぼとけ箸でつまゝれ黙す秋
 参列者が二人一組で一つずつ骨を拾った後、黒服の係員が白い大きな骨を箸でつまんで、これが喉仏の骨です、とわざわざ紹介して骨壺に入れた。彼はただその火葬場でのルーティンに従っただけだったのだろう。しかしそれは、興に乗れば文学を語って倦むことのない饒舌を繰り広げもしたあの室井光広の喉仏の骨なのだった。


 







2019/12/29 8:10:04|事務長雑記
追悼句による室井光広のためのエスキース【室井光広のモチーフによる変奏十四句】
井口時男さんが、「群系」第43号に寄せた文章の後半です。


 残暑てふ漢字をほどきあはれかなかな
「かなかな」の「かな」は「仮名」。固定した漢字表記をかなにほどき、かなの背後に声を聴き、声をゆらして様々な「エコー(こだま)」を聴き取るのが、たとえば地名研究などで展開された柳田国男の方法であり、そのまま室井光広の方法でもあった。そして、漢字の傍らにそっと寄り添うふりがなは、「おどるでく」という千変万化する変化のものの一態でもあった。日本語の「あはれ」は仮名文字にこそ宿るのだ。

 秋出水明けのかけ橋とだえして
 室井光広の死をはさむ今年の九月十月、台風被害が相次ぎ、増水した川にいくつもの橋が落ちた。橋は此岸と彼岸をつなぐものだが、室井光広において「架け橋」は「欠け端」でもある。縄文土器の「かけら=欠け端」が失われた「全体」の記憶をおぼろに内蔵しているように、断片であることによって「欠け端」はまぼろしの「全体」への「架け橋」となる。それならば、現には「欠け端」でしかない我々という存在も、我々の言葉も、失われた「全体」への郷愁において、夢の「架け橋」なのかもしれない。室井光広は死に、現の橋は途絶えて「欠け橋」となったが、それゆえに、嵐が去って横雲が峯を離れる夜のほの明けに、この「欠け橋」はいっそう純粋な「夢の浮橋」となって空に架かる。
 なお、「欠け端=架け橋」という着想を、彼はおそらく大江健三郎の短篇『もうひとり和泉式部が生まれた日』から得ている。大江健三郎は室井光広が一番敬服していた日本の作家である。大江がノーベル賞を受賞した翌1995年、私は室井光広と松原新一と三人で「大江作品全ガイド」なる途方もない座談会を行なった。『群像特別編集 大江健三郎』に載っている。

 秋さびし木霊かそけき森に来て
 ギリシャ神話の「エコー」はニンフで若い女性イメージだが、日本語の「こだま」は木霊、木の精霊、魑魅魍魎のたぐいである。樹木もまばらに木霊たちの声もかそけきこの森は現代文学の森なのかもしれない。

 行間に魑魅隠れる秋灯火
 小説『おどるでく』で室井光広は1994年上半期の芥川賞を受賞した。カフカの創造した奇妙な生き物「オドラデク」と似た性質も持つらしい「おどるでく」は、古民家に棲みついてめったに姿を現さない「スマッコワラシ」(室井流に変形したザシキワラシみたいなもの)にもなぞらえられるが、同時にそれは文字に取り憑く精霊、つまりは声に取り憑く「こだま(木霊)」と同類の魑魅の一種でもあるらしい。「スマッコワラシ」にめったに遭遇できないように、「おどるでく」に出遭うのも難しい。ページを開いたとたん、彼らはわらわらと行間に逃げ込んでしまうのだ。

 月の夜を木霊言霊をどる木偶
 自然界でも言語界でも、いまやあらゆる精霊は死滅しかかっているのかもしれない。だが、陽光の下には姿を見せない彼ら木霊や言霊や「おどるでく」がどこからか現れてみんなそろって舞い踊る――そんななつかしい月夜がありそうな気がする。
 評論「声とエコーの果て」によれば、生者の発した声はいったん死んで木霊あり、その木霊を聴き取って「廻向」(えこう=エコー)するとき、木霊は言霊になるのだという。意外なことに、これは江戸の国学者・冨士谷御杖の言霊論と基本認識を共有している。室井の文章に御杖の名は見えないのだが。

 名刺あり「私設月光図書館司書」
 室井光広は若いころ或る私立図書館に勤務していた経歴をもつ。これは月光のあやかしが創り出した「月光図書館」。館長は「バベルの図書館」創設者でもあるボルヘスにちがいない。

 漆炎え縄文の蛇穴に入る
 室井光広の故郷は木地師の伝統の残るような村だったらしいが、江戸時代から漆の産地で漆の木も多かったという。木工製品の仕上げに漆は不可欠だ。縄文人も漆を使いこなしていたらしい。その漆の木々が鮮やかに紅葉する季節、穴に入る蛇もまた縄目文様。「朽ち縄」たる蛇はすべて「縄文」の蛇なのだ。
 漆(漆器)はで異語でjapanである。彼は私家版の詩歌句集を『漆の歴史』と名付けていた。1988年の「初刷」限定二部以来何度か数部ずつ「増刷」(?)してきたらしいが、私の所持しているのは1996年の「限定十二部版のうち4番」である。彼はたぶん、大事な言葉は人から人へじかに手渡しされるべきだ、と思っていたのだろう。

 あんにゃとて書読む秋を木挽唄
 室井光広の小説第二作は『あんにゃ』と題されていた。「あんにゃ」は彼と私の故郷に共通する方言で、長男を指す言葉だ。次男以下は「おじ」である。「あんにゃ」は家父長権の継承予定者であり、家を統治し家族を保護する責任を要求される。「おじ」にはそういう重圧はなく自由だが、いずれ家から追放される不安がある。
「あんにゃ」は家を継ぎ家に残る。そこが山間の村ならさびれゆく村に残る。畑仕事や山仕事に追われる日々は彼から書物を読む習慣を奪うだろう。それでも読み続けるなら彼は孤立し、やがて村と対立してしまうかもしれない。森の中の村でダンテの『神曲』を読み続けた大江健三郎『懐かしい年への手紙』の「ギー兄さん」のごとく。
 初めて室井光広に会ったとき、彼は私を「あんにゃ」に擬していて、実際、冗談めかして「あんにゃ」と呼びもした。「心のあんにゃ」(『おどるでく』いうわけだ。私が「群像」新人賞受賞の言葉で中村草田男の〈蟾蜍長子家去る由もなし〉を引いたのを覚えていてくれたのだろう。事実、私は彼より二歳年長で、しかも出自において長男であり、彼は次男だった。
 彼は自分を究極の「おじ」的存在とみなしていたふしがある。「究極のおじ」とは、父や兄に心配ばかりかけている役立たずの存在、太宰治の津軽弁でいえば「おずかす」のことだ。たぶん彼はカフカ(カフカ家の長男だった)の「オドラデク」にもプラハの「おずかす」を見出していたはずだ。(『家父の気がかり』で通っているその短篇タイトルを、多和田葉子はぐっと砕けて『お父さんは心配なんだよ』と訳したが、それでは家長の権力性が見えにくくなる。)
 しかし、私自身は、家を出て家に帰らず家を作りもしない「エセあんにゃ」だった。この「エセあんにゃ」は、東日本大震災直後の2011年春に大学教員勤務を辞して「隠遁」を気取っていたが、その年六月、「究極のおじ」たる彼が勤務大学にいたたまれなくなって(彼には大江健三郎のいう「ヴァルネラブル」な一面、人間関係において理不尽な被害をこうむりやすい一面があったようだ)思いあぐねて相談に来たとき、言下に、「辞めれば楽になるよ」と無責任な悪魔の言葉を吹き込んだのだった。翌年春、彼はほんとうに大学教員を辞して「隠遁」した。

 ボルヘス夜なべして言の葉を綴れ織る
 もちろん作家ボルヘスが言の葉を綴って織るのは言葉の織物たる「テクストいうものだろう。しかし、大きなタバコの葉を撚り縄に綴り込む作業に毎夜追われた室井光広の生家のように、「夜なべ」の似合うこのボルヘスは、どうも正真正銘の田舎者、山賊ではないかと疑われる。もしかすると彼は言の葉ならぬ木の葉で綴れ織っているのかもしれない。『遠野物語』第四話で目撃された山人(山女)が「裾のあたりぼろぼろに破れたるを、いろいろの木の葉はどを添えて綴れたり」とあるように。
 ともあれ、経糸にボルヘスやカフカやジョイスという「世界文学」、横糸に柳田国男の緒著作、というのが自覚した「田舎者」たる室井光広の「テクスト
織り方だった。

 鵈の贄なほあざらかな耳と舌
『日本霊異記』によれば、むかし、或る僧は山中で髑髏になっても舌だけは腐らずに法華経を唱え続けていたというが、室井光広の耳も舌もあっけなく灰になってしまった。ユニークな「言葉いじり」小説を書きつづけた彼は、最終的には日本語版『フィネガンズ・ウェイク』を書きたかったのではないか、と私は思っている。もしそうなら、彼が心から欲しかったのは、日本語を聞き取り日本語を話せるジョイスの耳と舌ではなかったか。

 言語野はヨミの花野ぞ踏み迷へ
「ヨミ」はむろん「読み」でもあり「黄泉」でもあろう。道を失ってことを行き暮れることを恐れるのでなく、「踏み迷へ」と積極的に奨励し誘惑するのは踏み迷う快楽を知ればこそだ。『太平記』が「落花の雪に踏み迷ふ片野の春の桜狩り」と謳ったように、自在なステップを踏んで「ヨミの踊り」(『おどるでく』)を踊ったあげく、踊り疲れてたとえ花野に行き暮れようとも、薩摩守忠度に倣って花々を「今宵の主」とするだけのことだ。(とはいえ『太平記』の一節は後醍醐天皇側近の日野俊基が鎌倉へ護送される死出の旅路の綴れ織りた。それは「ヨミ」と微妙に反響し合う。)
 室井光広の未完の長篇『エセ物語』は十干十二支で暦が一巡する還暦までの全60回を予定していたようだが、日本語(会津弁)と朝鮮語と中国語(台湾語)という東アジア三言語の間で言葉の繊維の結んでほどいてを倦むことなくくりかえす小説だった。そこにはそもそも、主語―述語の連鎖によって終り(目的地)へと直線的に進行するハナシ(ストーリー)というものがない。つまりそれは、書き出した時から、終り(目的地)なき小説だった。だからこそ終りは中国由来の暦法によって形式的に設定されるしかなかったのだ。
 偏愛するドン・キホーテのごとき「遍歴の騎士」ならぬ原稿用紙の区画整理えた田畑を「筆耕」する半分「百姓」の「遍歴の郷士」あるいは実体のない言葉や文章ばかりを蒐集して廻る「遍歴の文士」または「遍歴の言語(幻語?)士」たる彼は、いわば花野の花から花へと舞い遊ぶ黒揚羽のように、己が言語野を楽しげに遍歴しつづけたのである。朝鮮語にも中国語にも(英語にもデンマーク語にもスペイン語にも)連接するその言語野は、ほんとうは「己が」という所有格では囲い込めないような広漠たる「原野(幻野?)」だった。ここでこそ、東アジア三言語は、言葉の縁の糸を結んでほどいて自由に交通し合うあ。それは非政治的で非歴史的な遊戯にみえるが、現実の政治や歴史の理不尽な拘束を根底から批判し超出するという意味で非「政治」的かつ非「歴史」的なのである。

 オラオラデシトリエグベシ彼岸花
「Ora Orade Shitori Egumo」(オラオラデシトリエグモ)、「標準語」に「翻訳」すれば「私は私で一人で死んでいくもの」は、宮沢賢治のまだうら若い妹が死の間際に口にした言葉だった。室井光広はこれこそがキルケゴールのいう「単独者」の覚悟なのだという(『キルケゴールとアンデルセン』)。こうして彼は、キルケゴールの深淵な哲学概念を東北娘の素朴で真率な一言にほどいて「受け取り直し」た。(「受け取り直し」もキルケゴール由来の室井用語である。)室井みよれば、デンマークはヨーロッパの東北であり、デンマーク語はズーズー弁みたいに訛っているのだ。

 木守柿荒れ野をナマリの騎士が行く
「木守柿」が会津のみしらず柿なら、この「荒れ野」は彼の故郷の貧しい山野のことかもしれないし、なおも放射線降る「原(子)野」かもしれない。あるいは、耕作放棄で田園まさに荒れ果てた日本全国到る所の風景か。しかし、彼の言語野が諸言語の「野」へと連接していたように、「荒れ野」はエリオット(彼の友人・佐藤亨が「てんでんこ」にエリオットの詩を翻訳連載中だった)が予言的に描いた「荒地」にも、イギリスに搾り取られて餓え続けるしかなかったアイルランド(ジョイスやベケットの故国)にも、通じているだろう。ならばそれは現代文学の「荒れ野」でもある。
 秋も末、その「荒れ野」を一人の「騎士」がゆく。ドン・キホーテのような時代錯誤にして居場所錯誤のちょっとユーモラスな文学の騎士である。文学の黄金の時代は遠く過ぎ去り、銀の時代も銅の時代も過ぎ去って、もはや鉄の時代、どころか鉛の時代である。どうやら会津訛りらしいこの貴誌はやっぱり室井光広にちがいない。

 君逝きて電子文字降る枯野かな
 もはや冬。文学の野も枯れ尽した。苦しい病床の日々、「憂い顔の文士」の夢も茫々たる文学の枯野を駆け巡ったのだろうか。(室井光広の原稿は最後まで手書きだった。)
 







2019/12/28 6:55:08|事務長雑記
木霊の森で 追悼・室井光広
「現代詩手帖」2020年1月号の、井口時男さんの追悼文


 室井光広よ、若き日の君は大冊の私家版詩歌句集『漆の歴史』を作っていた。君の故郷、福島県南会津の山間の村はウルシの産地だったが、「漆」は「japan」なのだった。東北の隅っこの村は、このとき「日本」そのものである。
『漆の歴史』は君の「歌の別れ」の記念碑だった。以後散文に転じた君はもう詩も短歌も俳句も作らなかった。少なくとも発表しなかった。そうして君は、1988年、ボルヘス論で文芸批評家としてデビューし、まもなく小説に転じて、1994年、「おどるでく」で芥川賞を受賞した。
 しかし『漆の歴史』の「序詩」で君はいう、「ウルワシの双子座」たる漆は「原(ウル)詩」でもある、と。たしかに「原詩」の樹液は君の散文の隅々にまで浸透していた。
 君はまさしく「詩ッ神かぶれ」。だから君は、批評らしい(批評でしかない)批評が書きたかったわけではないし、小説らしい(小説でしかない)小説が書きたかったわけでもなかった。君はただ、詩と批評と小説の「三位一体」を「実践」したかっただけなのだった。実際、前代未聞の、おそらくは後世も模倣不可能な言語小説「おどるでく」は、おかしくもあわれな、しかしこの上なく精妙な、「三位一体」の言葉の手踊りだった。
 生身の声は死んで木霊になり、木霊は読者に「廻向」されて言霊となる、というのが比類ない独学者だった君の言霊学だ。読むとは反響しあう声なき「木霊(エコー)」に耳をすますことである。
 文学空間は無数の言葉たちが「エコー」しあう宇宙である。国境を越え歴史を越えて言葉同士が自由に結んでほどいてまた結び直すこの宇宙に「中心」などない。だから君は「田舎者」として世界の隅っこにとどまりつづけた。君が愛したアルゼンチンのボルヘスもアイルランドのジョイスもデンマークのキルケゴールもプラハのユダヤ人だったカフカも、もちろん日本の柳田国男も、みんな「田舎者」だったのだ。「田舎者」とは、君の用字法では、異なるものの間に棲む「異中者」のことだ(こう書いている私はただの「井中者」だが)。
 東日本大震災後に「隠遁」した君が創刊した「てんでんこ」は、世界の隅っこを愛した君にふさわしく、片隅で自立する小さな雑誌だった。君はほとんどの文章を偽名で書き、奥付にも名前を出そうとしなかったが、「てんでんこ」で君に育てられた若い人々がいま世に出つつある。
 室井光広よ、君はよく隠れよく生きた。君の声はもう聞けないが、君の言葉の「エコー」に耳澄まし、「廻向」する文学の喪の仕事はいま始まったばかりだ。







2019/11/12 8:16:47|事務長雑記
追悼 室井光広
「群像」12月号に掲載された井口時男さんの文章です


「田舎者」の世界文学
井口時男

 九月二十七日の夕刻、奥様からメールがあり、室井光広氏が亡くなったことを知った。一昨日の抗癌剤治療中に昏倒して心肺停止状態になり、懸命の救命処置が施されたが「今日11時半に死亡宣告」とあった。
 六月半ばに入院してからわずか三カ月半、悪性リンパ腫は急激に彼の肉体をむしばみ、恐るべき力で拉し去ったのだ。
 しばし呆然としたのち、ふと思い当たることがあった。
その日午前十一時半ごろ、残暑の日盛りの中、私は近所を散歩していた。いつもどおり用水路沿いに歩いた後、めったに通らない細道に入った。左側に柵で囲われた梨畑があり、太くて大きな網目の頑丈なネットが廻らせてあったが、そこで黒い揚羽蝶がしきりに羽ばたいていた。近づいてみると、頑丈なネットの上半分に網目の細かい薄いネットが二重にして掛けられていて、その薄い二枚のあいだに閉じ込められてもがいているのだった。私は彼自身がそこから入り込んだのであろう二重のネットの下の隙間から手を入れてそっとつかまえ、珍しいことなのでスマホのカメラで撮影してから放してやった。
 スマホの写真のプロパティを確認すると、撮影時刻は「11:24」だった。私はうろたえた。
 これはまるで、室井光広の愛用語でいう「コウインシデンス」(coincidence、偶然の一致、符合一致)、彼の小説の言葉でいえば「ねこまたの聞かせ」(虫の知らせ)ではないか、という奇怪な思いに襲われたのである。もがきあがく彼をとらえていた薄くてやわらかい二枚のネットは生と死の境界の皮膜ではなかったか、それなら私は彼を「解放」してやった(「解放」してしまった)ことになるのではないか、と。
 蝶を人の魂の化身とみなす伝承は洋の東西に古くからあるらしいのだが、私はとりわけ黒揚羽を、幽明の境をゆらぎつつ翔ぶ蝶のように思っていたのだった。実際、暗い木陰などからまばゆい陽光の中へ彼が不意に現れるとき、光と陰のあわいがほのかにゆらめくように感じられるのだ。
 むろん私は神秘主義者でも運命論者でもないから、黒揚羽の印象も、近ごろ俳句を作っている私のその場かぎりの「詩的」な修辞的感慨みたいなものにすぎない。だが、それゆえなおさら、この「符合一致」にうろたえたのである。
 私に比べれば、室井氏ははるかに神秘主義に関心も造詣もあったようだ。しかしたとえば、遭遇した「コウインシデンス」体験の数々を書き留めた手帳を所持しているという作中人物を登場させるとき、その手帳を略して「デンス手帳」と呼ぶ滑稽化・卑小化の手続きも彼は忘れていなかった。「デンス手帳」は「電子手帳」の東北訛り風のもじりだろうが、私の耳には、「デンス」の背後に、子供の頃の人気コメディアン・トニー谷の奇態な語尾「ざんす」や漫画の中の相撲取りの「ごんす」の「エコー」(これも室井用語だ)が聞こえるのだ。私の鈍感な耳に聞こえる「エコー」が鋭敏な氏の耳に聞こえなかったはずはない。
 室井氏には、彼の愛した作品になぞらえるなら、ロマン主義的夢想家ドン・キホーテとリアリストの批評家サンチョ・パンサがいつも同居していた。
 たしかに彼は猪突するドン・キホーテの一面があった(同時に彼は「憂い顔の文士」でもあったが)。ボルヘス論でまず批評家としてデビューした彼の猪突する行く先は最先端の「世界文学」である。彼はボルヘスを語りパウンドを語りプルーストを語りカフカを語りジョイスを語った。
 それはあくまで「語った」のであって「論じた」のではない。論じる者は(この私もそうだが)高みに立って自ら権威ある者のごとく対象を裁断しがちだ。だが、そうすることを彼の中のサンチョ・パンサが許さない。旦那は英雄なんかじゃありませんよ、ただの「田舎者」にすぎませんよ、とサンチョが耳元でささやくのだ。
 だから氏は、「田舎者」という低い場所に留まりつづけた。その低い場所で、これも彼がキルケゴールの「反復」という概念を「翻訳」しほどいてみせた室井用語でいえば、「世界文学」を何度も何度も「受け取り直し」、きちんと「受け取り直した」ことだけを語ったのだ。論じる者が結論=真理へと急ぐのに対して、語る者は、猪突することなく、語ること自体の愉楽を味わうようにテクストを自由に「遍歴」しつづける。
「世界文学を読む田舎者」――約めていえば、それが室井光広の立ち位置だった。滑稽に響くかもしれないが、しかし、中上健次だって大江健三郎だって、「世界文学を読む田舎者」だったのだ。さかのぼれば、近代日本の文学者がすべてそうだったのだ。そして子規以来、漱石以来、そのことを自覚してきっぱりと引き受けた「田舎者」だけが日本文学を推し進めてきたのである。中野重治(『斎藤茂吉ノート』)はそれを称して「『田舎者』の自己樹立」と呼んだのだった。
 だから氏は、「田舎者」に方法を与える思想家として柳田国男を選び取り、最初の小説『猫又拾遺』から死によって未完に終った最後の長篇『エセ物語』まで、氏の故郷である南会津の貧しい山間の村をモデルにしつづけた。いわば「室井サーガ」である。
『猫又拾遺』と総題される十二篇の掌篇群は、奇譚の背後に「世界文学」や芸術論・文学論などの「エコー」が聞こえるという意味でボルヘス的であり、同時に、「猫又」と名付けられた土地にまつわる説話や世間話の「拾遺」として柳田の『遠野物語』的でもあった。そしてそれらは、人物を一筆で描き、ハナシを一息で語り切る氏の高度なカタリの能力や詩人的文才を見事に証してもいた。
 だが、三作目『かなしがりや』あたりから語り方ががらりと変わって、人物やハナシは後景に沈んでしまう。「かなし」や「そして」(『そして考』)といった言葉の繊維をほどいては結び、またほどいては結び直す「言葉いじり」が前景に出て、やがて小説の全面を覆うことになる。カフカの語った「オドラデク」は父子関係の寓話(ハナシ)として読めるが、それをほどいてもどいた『おどるでく』は氏のいう「実践的批評」として展開された日本語論なのだ。そして、『エセ物語』は、日本語(会津方言)と朝鮮語と中国語の間で「結んでほどいて」を繰り返す終り(目的地)なき言葉の「遊戯=遍歴」の連続なのである。
 小説は言葉という繊維で織られた織物(テクスト)だ、とは今や誰もが口にする「常識」だ。しかし、みんな知っているだけだ。それを実践してみせたのは室井光広だけである。そこでは人間さえも言葉の織物なのだ。
 この驚嘆すべき「言葉いじり」の背後にいるのは、ボルヘスではなくジェイムズ・ジョイスである。しかしまた、それはやはり、たとえば地名研究などで展開された柳田国男の方法でもある。柳田は固定した漢字をひらがなにほどき、声にほどき、その声をゆらし、ゆらぐ声の彼方に別な響き(エコー)を聴き取る耳を持っていた。
 ハナシ(物語)は主語―述語の連鎖として統辞的に進行するものだが、氏の小説では、シンタックス中の一語がたちまち音の類似や連想によって範列的にほどかれ増殖して、そのあげく、あたかも広漠たる己が言語野に踏み迷い、踏み迷うことを楽しむかのごとく、方向を見失ってしまうのである。こうして小説から「人情」も「世態風俗」も消え、「物語」も消える。
『おどるでく』は幸運にも芥川賞を受賞したが、こんな歌劇で風変わりな前衛に世間がついて来られるはずがない。しかも世は村上春樹(物語、ファンタジー)が全盛期を迎えつつあったのだ。しかし、孤立と無理解は少数者の負う栄光でもあるはずだ。(私はひそかに思う、室井光広の一連の「言葉いじり」小説は、いつか日本語版『フィネガンズ・ウェイク』を書くための困難な、しかし楽しげな、長い長い試行ではなかったか、と。)
 私は単行本『猫又拾遺』の書評(「図書新聞」一九九四年六月二十五日号)の末尾に、「”言葉いじり”は時に玩物喪志になりかねない。だが、作者が立っているのは、俳句分類に没頭した子規においてそうであったように、”言葉いじり”こそがモラルであるような地点である」と書いた。
 それは、政治(革命)という「大きな物語」終焉後の文学のあり方に関わっている。そのなかで、宗教や神秘主義という別な物語に逃げるのでもなく、メタ・フィクションという「物語いじり」の流行に乗るのでもなく、文学の原基である言葉そのものに立ち返ろうとする姿勢にこそ「モラル」を見たのだ。
『大洪水の後で――現代文学三十年』に当時の時評や書評の一部を収録し、その「あとがき」にも書いたとおり、当時私は「マイナー文学論」なるものを構想していた。私自身の怠惰によって実現しなかったその構想の中心には、「群像」新人賞出身でほぼ同時期に芥川賞を受賞して世間に認知された「言葉いじり三人衆」、室井光広、多和田葉子、笙野頼子が並ぶはずだった。
 その後、多和田や笙野は国際化やフェミニズムという新たな「問題」にリンクしたが、室井光広はそうした「問題」そのものへのリンクを忌避するように、凹んだ低い位置に、家屋の片隅にこっそり隠れ棲む「スマッコワラシ」(室井流東北民間伝承版のオドラデクだ)みたいな場所に、留まりつづけた。
 室井氏は東日本大震災後に「てんでんこ」という雑誌を創刊し、私も寄稿させてもらっていたが、その十二号が届いたのは彼の死の前日だった。彼自身はついに見ることがかなわなかったというその十二号に、彼は「ディヒターの心配――多和田葉子ノート」を載せている。そこで彼は多和田葉子を「ディヒター」(Dichter、詩人・作家)と呼ぶのだが、室井光広自身がまぎれもない「ディヒター」だった。彼は、初期の批評文で宣言した詩と批評と小説の「三位一体」を実践しつづけたのである。
「現代詩手帖」二〇一七年九月号の室井・多和田対談には、言語観と文学観の根本を共有する者同士の親密感があった。多和田葉子は日本語を国境を越えて「外へ」と開き、室井光広は日本語を会津弁という「内へ」と開き、両者ともに、開きつつ脱臼(異化)させて日本語の文学に新たな可能性をもたらそうとしていた(している)のだ。
 氏のいうとおり、ボルヘス(アルゼンチン)もキルケゴール(デンマーク)もジョイス(アイルランド)も「田舎者」である。ほんとうは、地球が球体だと判明した時から、世界に中心などなくなったのだ。中心(権威、権力)なき世界で地方(田舎)同士が自在に結んでほどきほどいてまた結び合うネットワークとしての世界――それが、時に「玩物喪志」と見せかけつつ、室井光広の文章が「三位一体」で提示する世界像であり、文学の「モラル」にほかならない。

「六月半ばに入院してからわずか三カ月半」は、井口の勘違いによる事実誤認で、正しくは「七月初めに入院してからわずか三か月足らず」でした。室井さん、申し訳ない。――井口時男