幻塾庵 てんでんこ

大磯の山陰にひっそり佇むてんでんこじむしょ。 てんでんこじむしょのささやかな文学活動を、幻塾庵てんでんこが担っています。
 
2019/11/12 8:16:47|事務長雑記
追悼 室井光広
「群像」12月号に掲載された井口時男さんの文章です


「田舎者」の世界文学
井口時男

 九月二十七日の夕刻、奥様からメールがあり、室井光広氏が亡くなったことを知った。一昨日の抗癌剤治療中に昏倒して心肺停止状態になり、懸命の救命処置が施されたが「今日11時半に死亡宣告」とあった。
 六月半ばに入院してからわずか三カ月半、悪性リンパ腫は急激に彼の肉体をむしばみ、恐るべき力で拉し去ったのだ。
 しばし呆然としたのち、ふと思い当たることがあった。
その日午前十一時半ごろ、残暑の日盛りの中、私は近所を散歩していた。いつもどおり用水路沿いに歩いた後、めったに通らない細道に入った。左側に柵で囲われた梨畑があり、太くて大きな網目の頑丈なネットが廻らせてあったが、そこで黒い揚羽蝶がしきりに羽ばたいていた。近づいてみると、頑丈なネットの上半分に網目の細かい薄いネットが二重にして掛けられていて、その薄い二枚のあいだに閉じ込められてもがいているのだった。私は彼自身がそこから入り込んだのであろう二重のネットの下の隙間から手を入れてそっとつかまえ、珍しいことなのでスマホのカメラで撮影してから放してやった。
 スマホの写真のプロパティを確認すると、撮影時刻は「11:24」だった。私はうろたえた。
 これはまるで、室井光広の愛用語でいう「コウインシデンス」(coincidence、偶然の一致、符合一致)、彼の小説の言葉でいえば「ねこまたの聞かせ」(虫の知らせ)ではないか、という奇怪な思いに襲われたのである。もがきあがく彼をとらえていた薄くてやわらかい二枚のネットは生と死の境界の皮膜ではなかったか、それなら私は彼を「解放」してやった(「解放」してしまった)ことになるのではないか、と。
 蝶を人の魂の化身とみなす伝承は洋の東西に古くからあるらしいのだが、私はとりわけ黒揚羽を、幽明の境をゆらぎつつ翔ぶ蝶のように思っていたのだった。実際、暗い木陰などからまばゆい陽光の中へ彼が不意に現れるとき、光と陰のあわいがほのかにゆらめくように感じられるのだ。
 むろん私は神秘主義者でも運命論者でもないから、黒揚羽の印象も、近ごろ俳句を作っている私のその場かぎりの「詩的」な修辞的感慨みたいなものにすぎない。だが、それゆえなおさら、この「符合一致」にうろたえたのである。
 私に比べれば、室井氏ははるかに神秘主義に関心も造詣もあったようだ。しかしたとえば、遭遇した「コウインシデンス」体験の数々を書き留めた手帳を所持しているという作中人物を登場させるとき、その手帳を略して「デンス手帳」と呼ぶ滑稽化・卑小化の手続きも彼は忘れていなかった。「デンス手帳」は「電子手帳」の東北訛り風のもじりだろうが、私の耳には、「デンス」の背後に、子供の頃の人気コメディアン・トニー谷の奇態な語尾「ざんす」や漫画の中の相撲取りの「ごんす」の「エコー」(これも室井用語だ)が聞こえるのだ。私の鈍感な耳に聞こえる「エコー」が鋭敏な氏の耳に聞こえなかったはずはない。
 室井氏には、彼の愛した作品になぞらえるなら、ロマン主義的夢想家ドン・キホーテとリアリストの批評家サンチョ・パンサがいつも同居していた。
 たしかに彼は猪突するドン・キホーテの一面があった(同時に彼は「憂い顔の文士」でもあったが)。ボルヘス論でまず批評家としてデビューした彼の猪突する行く先は最先端の「世界文学」である。彼はボルヘスを語りパウンドを語りプルーストを語りカフカを語りジョイスを語った。
 それはあくまで「語った」のであって「論じた」のではない。論じる者は(この私もそうだが)高みに立って自ら権威ある者のごとく対象を裁断しがちだ。だが、そうすることを彼の中のサンチョ・パンサが許さない。旦那は英雄なんかじゃありませんよ、ただの「田舎者」にすぎませんよ、とサンチョが耳元でささやくのだ。
 だから氏は、「田舎者」という低い場所に留まりつづけた。その低い場所で、これも彼がキルケゴールの「反復」という概念を「翻訳」しほどいてみせた室井用語でいえば、「世界文学」を何度も何度も「受け取り直し」、きちんと「受け取り直した」ことだけを語ったのだ。論じる者が結論=真理へと急ぐのに対して、語る者は、猪突することなく、語ること自体の愉楽を味わうようにテクストを自由に「遍歴」しつづける。
「世界文学を読む田舎者」――約めていえば、それが室井光広の立ち位置だった。滑稽に響くかもしれないが、しかし、中上健次だって大江健三郎だって、「世界文学を読む田舎者」だったのだ。さかのぼれば、近代日本の文学者がすべてそうだったのだ。そして子規以来、漱石以来、そのことを自覚してきっぱりと引き受けた「田舎者」だけが日本文学を推し進めてきたのである。中野重治(『斎藤茂吉ノート』)はそれを称して「『田舎者』の自己樹立」と呼んだのだった。
 だから氏は、「田舎者」に方法を与える思想家として柳田国男を選び取り、最初の小説『猫又拾遺』から死によって未完に終った最後の長篇『エセ物語』まで、氏の故郷である南会津の貧しい山間の村をモデルにしつづけた。いわば「室井サーガ」である。
『猫又拾遺』と総題される十二篇の掌篇群は、奇譚の背後に「世界文学」や芸術論・文学論などの「エコー」が聞こえるという意味でボルヘス的であり、同時に、「猫又」と名付けられた土地にまつわる説話や世間話の「拾遺」として柳田の『遠野物語』的でもあった。そしてそれらは、人物を一筆で描き、ハナシを一息で語り切る氏の高度なカタリの能力や詩人的文才を見事に証してもいた。
 だが、三作目『かなしがりや』あたりから語り方ががらりと変わって、人物やハナシは後景に沈んでしまう。「かなし」や「そして」(『そして考』)といった言葉の繊維をほどいては結び、またほどいては結び直す「言葉いじり」が前景に出て、やがて小説の全面を覆うことになる。カフカの語った「オドラデク」は父子関係の寓話(ハナシ)として読めるが、それをほどいてもどいた『おどるでく』は氏のいう「実践的批評」として展開された日本語論なのだ。そして、『エセ物語』は、日本語(会津方言)と朝鮮語と中国語の間で「結んでほどいて」を繰り返す終り(目的地)なき言葉の「遊戯=遍歴」の連続なのである。
 小説は言葉という繊維で織られた織物(テクスト)だ、とは今や誰もが口にする「常識」だ。しかし、みんな知っているだけだ。それを実践してみせたのは室井光広だけである。そこでは人間さえも言葉の織物なのだ。
 この驚嘆すべき「言葉いじり」の背後にいるのは、ボルヘスではなくジェイムズ・ジョイスである。しかしまた、それはやはり、たとえば地名研究などで展開された柳田国男の方法でもある。柳田は固定した漢字をひらがなにほどき、声にほどき、その声をゆらし、ゆらぐ声の彼方に別な響き(エコー)を聴き取る耳を持っていた。
 ハナシ(物語)は主語―述語の連鎖として統辞的に進行するものだが、氏の小説では、シンタックス中の一語がたちまち音の類似や連想によって範列的にほどかれ増殖して、そのあげく、あたかも広漠たる己が言語野に踏み迷い、踏み迷うことを楽しむかのごとく、方向を見失ってしまうのである。こうして小説から「人情」も「世態風俗」も消え、「物語」も消える。
『おどるでく』は幸運にも芥川賞を受賞したが、こんな歌劇で風変わりな前衛に世間がついて来られるはずがない。しかも世は村上春樹(物語、ファンタジー)が全盛期を迎えつつあったのだ。しかし、孤立と無理解は少数者の負う栄光でもあるはずだ。(私はひそかに思う、室井光広の一連の「言葉いじり」小説は、いつか日本語版『フィネガンズ・ウェイク』を書くための困難な、しかし楽しげな、長い長い試行ではなかったか、と。)
 私は単行本『猫又拾遺』の書評(「図書新聞」一九九四年六月二十五日号)の末尾に、「”言葉いじり”は時に玩物喪志になりかねない。だが、作者が立っているのは、俳句分類に没頭した子規においてそうであったように、”言葉いじり”こそがモラルであるような地点である」と書いた。
 それは、政治(革命)という「大きな物語」終焉後の文学のあり方に関わっている。そのなかで、宗教や神秘主義という別な物語に逃げるのでもなく、メタ・フィクションという「物語いじり」の流行に乗るのでもなく、文学の原基である言葉そのものに立ち返ろうとする姿勢にこそ「モラル」を見たのだ。
『大洪水の後で――現代文学三十年』に当時の時評や書評の一部を収録し、その「あとがき」にも書いたとおり、当時私は「マイナー文学論」なるものを構想していた。私自身の怠惰によって実現しなかったその構想の中心には、「群像」新人賞出身でほぼ同時期に芥川賞を受賞して世間に認知された「言葉いじり三人衆」、室井光広、多和田葉子、笙野頼子が並ぶはずだった。
 その後、多和田や笙野は国際化やフェミニズムという新たな「問題」にリンクしたが、室井光広はそうした「問題」そのものへのリンクを忌避するように、凹んだ低い位置に、家屋の片隅にこっそり隠れ棲む「スマッコワラシ」(室井流東北民間伝承版のオドラデクだ)みたいな場所に、留まりつづけた。
 室井氏は東日本大震災後に「てんでんこ」という雑誌を創刊し、私も寄稿させてもらっていたが、その十二号が届いたのは彼の死の前日だった。彼自身はついに見ることがかなわなかったというその十二号に、彼は「ディヒターの心配――多和田葉子ノート」を載せている。そこで彼は多和田葉子を「ディヒター」(Dichter、詩人・作家)と呼ぶのだが、室井光広自身がまぎれもない「ディヒター」だった。彼は、初期の批評文で宣言した詩と批評と小説の「三位一体」を実践しつづけたのである。
「現代詩手帖」二〇一七年九月号の室井・多和田対談には、言語観と文学観の根本を共有する者同士の親密感があった。多和田葉子は日本語を国境を越えて「外へ」と開き、室井光広は日本語を会津弁という「内へ」と開き、両者ともに、開きつつ脱臼(異化)させて日本語の文学に新たな可能性をもたらそうとしていた(している)のだ。
 氏のいうとおり、ボルヘス(アルゼンチン)もキルケゴール(デンマーク)もジョイス(アイルランド)も「田舎者」である。ほんとうは、地球が球体だと判明した時から、世界に中心などなくなったのだ。中心(権威、権力)なき世界で地方(田舎)同士が自在に結んでほどきほどいてまた結び合うネットワークとしての世界――それが、時に「玩物喪志」と見せかけつつ、室井光広の文章が「三位一体」で提示する世界像であり、文学の「モラル」にほかならない。

「六月半ばに入院してからわずか三カ月半」は、井口の勘違いによる事実誤認で、正しくは「七月初めに入院してからわずか三か月足らず」でした。室井さん、申し訳ない。――井口時男







2019/10/30 5:42:08|事務長雑記
大波小波 ふたたび







2019/10/30 5:40:22|事務長雑記
大波小波

 







2019/10/13 12:15:12|文芸誌てんでんこ
「てんでんこ」 第12号
 

「てんでんこ」第12号ができました



見えないドローン 他4篇············································ 蜂飼 耳 
残されて·································································吉田 文憲  
ディヒターの心配――多和田葉子ノート························· 室井 光広 
納戸物語································································ 村松 真理 
果実の瞬間······························································山ア 修平
星野智幸と「新しい政治小説」――ヘテロトピア文学論(2)杉田 俊介
郷士歌集(5)························································ 田中 和生
山の夢、磯の夢························································ 平田 詩織
ヘマを踏む(4)····················································· 綱島 啓介
ニュー・ウエイヴ····················································· 田中 さとみ
T・S・エリオット『エアリアル詩篇』 ························
·佐藤 亨訳
批評のリアリズム――秋山駿について····························· 川口 好美
エセ物語······························································ エセ物語編纂人

 
てんでんこらむ
アリギリスの歌 / 一度きりの喧嘩(森禮子)
ヴェイユと雑木林と(千葉みずほ)/ 越境する「評説」(丹波一京助)
沖縄ことはじめ( いまきりゑこ)/「驚く」能力 (大庭葉蔵)
極私的なカブトムシの神話(田中和生)/ 故郷をtraceする(田中さとみ)
「さらば夏の日」(松川好孝)/ 三酔人誤読問答(竹中賛蔵)
信仰者と宗教者の間(日野紀信)/ 生還の声あつけらかんと(井口時男)
蟬の娘(村松真理)/ TORU写真館(佐藤亨)
読書の効能について(阿部晃士)/ ニセモノ感(藤田直哉)
日蝕(寺田幹太)/ 人は星である(山本秀史)
ボーヨー、ボーヨー(川口好美)

 







2019/09/27 15:51:32|文芸誌てんでんこ
「てんでんこ」第1号〜第12号総目次
「てんでんこ」第1〜12号に集った、20代から80代の50名ほどの作品


阿部晃士 てんでんこらむ 第4号〈わからない〉 第12号〈読書の効能〉

井口時男 第2号〜第4号 新旧の句帖から 冬/春&夏/夏&秋&冬
     句帖から 第5号 第6号(2014年) 第7号(2015年)
     第8号(2015年夏から秋) 
               第9号(2017年 付・連作「タバコのある風景」)
     第10号(2018年春から夏 付・無用の注釈)
     第11号 旅の句帖から(2018年秋)
    
     第3号 テキスト・クリティーク「せめて二十歳のその日まで」
     第4号 石原吉郎私記――「位置その他」
     第5号 人間の「条件」――石原吉郎私記(2)
     第7号 光部美千代さんを悼む
     第10号 自死とユーモア――西部邁の死について
     
     てんでんこらむ 第2号〈東北白い花盛り〉第3号〈季節に認識ありやなしや〉
     第4号〈貫く棒の如きもの〉第5号〈卵食ふ時口開く〉
     第7号〈草二本だけ生えてゐる〉第8号〈鼓膜の秋となりにけり〉
     第9号〈長子家去る由もなし〉
     第10号〈狂女死ぬを待たれ滅多矢鱈の〉
     第11号〈大寒の埃の如く 吉田和明追悼〉
     第12号〈生還の声あつけらかんと〉

いまきりゑこ てんでんこらむ 第9号、第12号〈沖縄ことはじめ〉

上野火山 第8号 舞台「空にはきらきら金の星―落雀の候―」を終えて

エセ物語編纂人 第1号〜第12号 エセ物語《丙子》〜《甲午》

大庭葉蔵 第8号 随想 
      第9号 斗南一人――会津人柴五郎の遺書をめぐって       
      第11号 北轅――会津の徳一をめぐって

      てんでんこらむ 第8号〈アイダに立つ〉第12号〈「驚く」能力〉

粕谷栄市 第10号 亡霊

金子昭  第11号 意識の深淵と存在の旋風――埴谷雄高における文学のアクチュアリティ
 
     てんでんこらむ 第12号〈越境する「評説」〉 
 
川口好美 第9号 中野重治
      第10号、第11号〈内部の人間〉の革命――中野重治再考
      第12号 批評のリアリズム――秋山駿について
     
     てんでんこらむ 第9号〈マニウケル〉 第10号〈僕の文学のふるさと〉
      第11号〈切実な「対決点」〉第12号〈ボーヨー、ボーヨー〉

金栄寛 第3号 屏風
     てんでんこらむ 第2号〈アリアドネの糸〉  第4号〈テキスト動物園〉

許鎬 てんでんこらむ 第8号〈日本語と私〉

齋藤由美子 てんでんこらむ 第5号〈こどもの歌〉

佐藤亨 T・S・エリオット訳詩 第1号 荒地  第2号〜第4号 四つの四重奏
     第5号 灰の水曜日  第6号から第7号 岩の合唱
     第8号 プルーフロックの恋唄  第9号 詩篇1920年
     第10号 詩篇1920年(2) 第11号 詩篇1920年(3)
     第12号 エアリアル詩篇
    
     てんでんこらむ 第2号〈タバコをやめた話〉 第5号〜第12号〈TORU写真館〉
     第9号〈原子力という共同幻想〉

杉田俊介 第11号、第12号 星野智幸と「新しい政治小説」――ヘテロトピア文学論

関典子 てんでんこらむ 第3号〈体内季節〉

高島易子 第9号 タワダヨウコ語のささやき

      てんでんこらむ 第8号〈春子と修羅〉

竹中賛蔵 てんでんこらむ 第12号〈三酔人誤読問答〉

舘野七帆 てんでんこらむ 第8号〈消えたドジョウ〉

田中和生 第1号〜第7号 戦後文学と世界文学のあいだ――戦後文学の構造分析1〜7

     第8号〜第12号 郷士歌集1〜5
     
     てんでんこらむ 第1号、第3号〜第5号、第9〜12号
     〈極私的なカブトムシの神話〉

田中さとみ 第5号 仙人現れる! 第6号 痰 第7号 ムカシトカゲ
       第8号 森に入ってめかくしをしたらクダアと鳴いた
       第10号 iomante 第11号 misique
       第12号 ニュー・ウエイヴ
      
       てんでんこらむ 第5号〈東京のおばけ〉 第6号〈カメムシと豆まき〉
       第7号〈ニョロニョロ観察記〉 第8号〈野辺山にて〉
       第10号〈ソウセキの思い出〉第12号〈故郷をtraceする〉

多和田葉子 第9号 魔の山の麓にて

知念明子 第11号 七月堂動物記――シロちゃんとミャーさんと

      第6号〜第8号てんでんこらむ〈七月堂って何屋さん? 1〜3〉

千葉みずほ 第10号 夜の重力
       てんでんこらむ 第12号〈ヴェイユと雑木林と〉

綱島啓介 第1号〜第4号 ムーサン・カサイエの歌1〜4
      第5号 あぶく話  第6号 ありのままの話
      第7号〜第8号、第10号、第12号 ヘマを踏む1〜4 
      第9号 そら 第11号 シチテンバットウの記

      てんでんこらむ 第1号〜第9号〈ヨミカキコリカ〉

角田伊一 第9号 イザベラ・バードの軌跡――見逃されたもう一つの会津

      てんでんこらむ 第8号〈たかが虫けら〉

角田悦哉 第10号 譜代屋敷始末

寺田幹太 てんでんこらむ 第3号〈天幕〉 第4号〈仏法僧鳥〉
      第5号〈アウエルバッハの魔術師〉 第6号〈南極の犬〉 第7号〈浅草のおなみ〉
      第8号〈津軽海峡〉 第9号〈天幕再訪〉第10号〈キャバレーニューキャッスル〉
      第11号〈浦辺の月〉第12号〈日蝕〉
 
鳥越覚生 てんでんこらむ 第3号〈コシカケル人〉

中嶋美紀 てんでんこらむ 第8号〈柳田國男が見た地球〉

中本道代 第11号 六月

長谷川萌 第4号 家路

蜂飼耳 第12号 見えないドローン 他4篇

日野紀信 てんでんこらむ 第12号〈信仰者と宗教者の間〉

平田詩織 第1号 隻影/愛  第2号 春黙し  第3号 花火  第4号 歌う人
      第5号 貝のために  第6号 光の家  第7号 春子  第9号 覚醒 
      第10号 誕生日 第11号 ニューヨーク
      第12号 山の夢、海の夢
     
      てんでんこらむ 第1号〜第8号〈またたく〉

福田拓也 第2号 空洞行き着かない過程の中で伸びる鳥の
      第3号 全く別の言語に語と語のそのいくつかの波頭が
      第4号 海處行けば骨片の浜辺を磯傳ひ……

藤田直哉 第9号 《野》の人――室井光広論
      第10号 ドン・キホーテの憑依者たち テリー・ギリアム試論
  
      
てんでんこらむ 第12号〈ニセモノ感〉

松川好孝 てんでんこらむ 第6号〈懐かしい場所〉 第7号〈夕空晴れて〉
      第8号〈夜の八王子〉 第9号〈バカ尾根を登る〉第10号〈一冊の写真集〉
      第11号〈黒猫のクロ〉第12号〈『さらば夏の日』〉

村松真理 第1号 ジャム  第2号 影の灯  第3号 甜瓜行  第4号 よあけのさんぽ
      第5号 誕生日の子供  第7号 夏の子供  第9号 庭の画帳
              第9号〜第10号、第12号 納戸物語
      
     てんでんこらむ 第2号〈箱の中より〉 第4号〈キツオンポルカ〉
      第5号〈さとがえりの記〉 第6号〈ジャンル?〉 第8号〈饗宴(ステイル・ライフ)〉
      第9号〈食べられるアイドル〉第12号〈蟬の娘〉

室井廣一 第5号てんでんこらむ〈護身術としてのお掃除〉

室井光広 第8号 ワラシベ長者考 
      第10号〈帽子病〉の四十年――粕谷栄市ノート
      第12号 ディヒターの心配――多和田葉子ノート

本山洋介 第5号 曲走

森禮子 てんでんこらむ 第2号〈カンムリカイツブリ〉 第3号〈救済記〉
     第4号〈顔〉 第5号〈最初で最後のカラオケ 〉第6号〈クロの選択〉
     第7号〈小径〉 第8号〈素に立つ〉 第9号〈ともしび〉
     第10号〈火星に似合う花〉第11号〈地域猫抗争〉
     第12号〈一度きりの喧嘩〉

山岸聡美/あき津/加豆美 第8号 桃の家一家オーガニックの旅

山ア修平 第12号 果実の瞬間

山本秀史 てんでんこらむ 第8号〈ある一冊の本を読んで〉
      第10号〈思考する自我〉 第12号〈人は星である〉

夜鷹市蔵 第8号 孤島句のゆくえ――齋藤愼爾論序説

     てんでんこらむ 第8号〈破局と月並〉第9号〈ひ・と・ご・ろ・し〉
     第10号〈文は孤ならず〉第11号〈三酔人誤読問答〉

吉田文憲 第1号 水辺にはいろとりどりの火が訪れている/この文字はだれの息をたど
     っているのだろうか/…………
      第2号 消点/生誕/さまよう息/その人は/倒れたところが/…………/
     レクイエム/弱い光 第3号 隕石が 第9号 dumbの影
      第10号 北の映像圏へ 第12号 残されて

     てんでんこらむ 第4号〈記述の魔〉〈微妙な立ち位置〉

渡部純夫 てんでんこらむ 第7号〈分校の頃〉

無署名 第1号 願文――「てんでんこ」創刊覚書に代えて
    てんでんこらむ 第1号〜第12号〈アリギリスの歌〉 第2号〈訪い〉
    第2号〜第3号〈昭和の短篇小説〉 第4号〈読書人心得?〉
    第6号〈快不快〉第10号〈カフカの遺書〉〈虎が石〉
    第11号〈詩学入門より〉〈業平の朝臣のいまはの言の葉〉


「てんでんこ」第1号〜第12号は、七月堂オンラインショップで入手できます







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