幻塾庵 てんでんこ

大磯の山陰にひっそり佇むてんでんこじむしょ。 てんでんこじむしょのささやかな文学活動を、幻塾庵てんでんこが担っています。
 
2017/08/10 12:43:18|事務長雑記
空前絶後


『法政文芸』第13号(2017年7月発行)の巻頭に
平田詩織さんの詩と庵主のエッセイが並んで掲載されているというので
庵主は上機嫌。
声を出さずにいると声帯が退化してイザという時に叫ぶこともできなくなるそうなので、籠りきり、黙りがちな日々にあって、歌ったり騒いだり音読したり、くらいがいいのかもしれない。







2017/07/25 12:38:14|事務長雑記
永山則夫の罪と罰

当庵ゆかりの批評家井口時男氏の新著
『永山則夫の罪と罰――せめて二十歳のその日まで』(コールサック社)
が届けられた。

「永山則夫論30年の集成」とある通り、文芸批評家としての氏の仕事のほぼ全期間にわたっている文から成るが、その中には、氏自身の「記録」である以上、除外したくなかったという匿名コラムなども含まれていて興味深い。

永山に対する心情がもっともよく滲んでいると氏自らいう巻頭の俳句と、掉尾を飾るエッセイが「てんでんこ」初出だというので、事務長の低い鼻も少し高くなったような気がしている。

 

……中上健次は「なぜぼくは無数の永山則夫の一人でありながら、唯一者永山則夫でなかったのか」という問いを発していた。それはまた、本書の文章を書きながらつねに私自身の念頭にあった問いでもある。
 人はみな、各自の条件の中に生れ、各自の条件の中で生き、各自の条件の中で死ぬしかない。「少年」永山則夫を「唯一者」たらしめていた諸条件はきわめて過酷なものだった。永山の事件から半世紀近く経過したが、歪んだ諸条件が作り出す「少年殺人者」たちはこれからも跡を絶つまい。だから人は、彼らを指弾する前に、いや、指弾しながらでも、自分自身に問うしかないのだ。自分はいかなる条件によって護られていたのか、と。
《あとがきより》
 







2017/07/03 14:22:03|事務長雑記
森羅


非売の詩誌「森羅」が届く。

第四号は2017年5月9日発行。
同人の粕谷栄市さん、池井昌樹さんに加え、賓客として江代充さんの詩が収められている。

第五号は2017年7月9日発行。
賓客は小池昌代さん。

庵主はこの詩誌を声に出して読むことを愉しみにしている。
「声」も出さずにいると、出にくくなるらしい、と聞いて、ちょっと心配になったのでは?







2017/04/02 13:41:59|事務長雑記
田中和生さんの本 寸評

佐藤亨さんから、便りの続きが届いた。
 

田中さんのもの、読みました。震災を経験したことで目覚めた、日本人としての田中さんのヒューマニズムに貫かれた本で、日本というネーション/共同幻想を越えた、アジア人もしくは人間、というあらたな同朋意識を自覚させるものでした。

明治以来の脱亜入欧、あるいは、日本人に独特の加害者意識なき敗戦国(被害者)意識、そして戦後日本の、被爆国でありながら、今度は原子力を推進するという矛盾した経済優先の社会(それはまるで敵国アメリカを、戦後はあこがれ、それに追従し、西側にくみするという戦後日本のたどったコースと軌を一にします)の、猛進/盲信ぶり、そしてそれと共犯関係にあった「原子力」という神話/共同幻想が、震災によって一気に崩れ去り、震災を経て、戦後にはなかった、あらたな意識が(戦争に対するあらたな意識も)、やっと生まれつつある、と予言・示唆する本でした。

文学者の作品が小説を含め、数々引用されますが、一冊の文明論、日本(人)論として読みました。
「震災後の日本」という言葉が、今さらながら、印象的です。力作!







2017/04/01 12:19:29|事務長雑記
田中和生さんの本

セルビアとスロヴェニア探訪の旅から帰国したばかりの佐藤亨さんから、田中和生さんの新刊についての便りがあった。
 

今朝、ふと、『震災後の日本で戦争を引きうける』を手に取り、読みはじめました。序章と一章しか読んでいませんが、この本、一読するや、惹きつけられます。
田中さん、以前読んだものでは、同時代の歌を取りあげたりと、軽快な面も持ち合わせていますが、そういうやわらかい感性がここでも素直に働いています。そして、文章は、直球のように、わかりやすい。前々から『共同幻想論』を授業(ゼミ)で読もうかと思っていましたが、田中さんの本が導きになりそうな予感です。
「てんでんこ」の皆さん、文字通り、てんでんこに活躍されてすばらしいですね。

《続信》
今日は予定を返上して(たいした予定でもないので)、田中さんのものを読みます。いままで、吉本は、ぼくはしっくりこなかったのですが、これは頭が悪かったというのもありますが、もうひとつ、タイミングが悪かったのだと思います。この年になって、さまざまなナショナリズム論に触れ、また、すこし柳田がわかったところで、『共同幻想論』に出会うのは、いい時期かな、と。そして田中さんの文章は、読むや引き込まれ、今日はこれを読み終わるまで、家を出るのをやめよう、と思いました。いまさら吉本ですが、遅れてきたぶん、なにか得るところはあるでしょう。
そういえば、ベオグラードで買ったセルビア語訳、大江健三郎の『飼育』のカバーは、飢饉のとき、大根を根元から丸かじりする我が岩手の少年たちでした(歴史の教科書に載っているあの有名な写真)。涙が出そうになり、思わず買ってきました。この写真を見て、岩手の現代少年は歴史を学ぶわけですから、コンプレックスは募るわけです(笑)。友だちが写真の少年に似ていたりして、また、以前、同じくらい貧しい友だちもいて、同時代意識を抱いたものでした。







[ 1 - 5 件 / 188 件中 ] 次の5件 >>