幻塾庵 てんでんこ

大磯の山陰にひっそり佇むてんでんこじむしょ。 てんでんこじむしょのささやかな文学活動を、幻塾庵てんでんこが担っています。
 
2020/05/27 7:53:32|事務長雑記
週刊読書人 書評
 

5月22日発行の週刊読書人に
『詩記列伝序説』『多和田葉子ノート』の書評が掲載されました



 室井光広氏を紹介するのにどんな言葉がふさわしいかと思い悩み、〈類稀な‶思想詩エッセイ”の書き手〉などとノートに書きつけてみたものの、想像の中で氏に「その〈書き手〉というのがぞっとしないね……」とたしなめられる。氏は愛惜するボルヘスの詩の一節を、あらためてわたしに読んで聴かせる。「認めたページの自慢は余人に任せよう/読んできた書物こそわたしは誇りたい」。氏はたしかに、読者として生き、読者として死んだ。それが若年時からの望みであり、望みは見事に果たされたのだ。わたしは〈書き手〉として称揚することを諦め、氏自身による紹介の言葉――『詩記列伝序説』序章の題に用いられている――を書き写して満足する。曰く、「〈読者教〉信者」。

 氏は癌治療による入院中も病室で本書の原稿を磨きつづけていたが、昨年九月末、完成を待たずに亡くなってしまった。二冊は遺著となった。奥付の発行日(2020年3月23日=多和田葉子さんの還暦の誕生日)とじっさいの発行日にズレがあるが、著者の当初からの意志を尊重しそのままになっている。編集・装丁の実務を担った高林昭太さんは、著者の郷里である南会津の小さな集落や晩年すみかとした大磯の浜辺を何度も丹念に歩きまわって、本のデザインを決められたそうだ。版元は書肆「双子のライオン堂」。氏の教え子でもある社主竹田信弥さんは先が見通せない困難な状況の中刊行までこぎつけ、氏(師)との約束を果たされた。本書は、読むことに憑かれた「信者」の最後の信仰告白の書にふさわしく、文字どおり有難い”出来事の積み重なりの結果成ったものである。

 山を下り〈野〉に出でよ。そこに浮び上がる「読みの世界劇場」で正しく「不安」を学べ――。『詩記列伝序説』をモットーふうに要約してみればこうなる。

 下山とは、直接的には、あの3・11を機に氏が大学の教員を辞し、あらゆる商業ジャーナリズムと縁を切った事実を指す。だが『多和田葉子ノート』に収められた対談中の「山を下りて終わりにしたい、チャラにしたいという見果てぬ夢があって」という語り口が如実に示すように、それはたんに隠棲すればすむような話ではありえなかった。氏にとって下りる”ことは「闇自体を自分で手作りし」、おのれの全実存を「闇」と一致させることを意味していたからだ。このとびきり困難な、しかし希望に満ちた手仕事としての闇落ち(?)への理解を助けてくれそうな一節を『序説』の掉尾を飾るエッセイから前後の文脈にはふれずに書き写してたい。「何のために? 正しい不安という「最高のもの」を学ぶために、である。〈根底に向って没落する〉実存の落ちきり”プロジェクトともいうべきこの「冒険の旅」をやめると、自分が「だめになってしまう」ことを絶望的な「困難(ノート)」に対処する「必要(ノート)に迫られた〈ノート作家〉は本能的に知りぬいていた」。

 デビュー以来ボルヘスをはじめとする海外作家の反復読みを実践してきた氏はある日、柳田国男とアプト式列車に乗って下山することを決意する。何度も峠を越え、ついに〈野〉に出た……。氏の『柳田国男の話』から教えられたことだが、開けた平坦な土地という現在的イメージとは異なり、もともと〈野〉は山の裾野、緩傾斜の地帯を意味する日本語だったそうだ。人間を拒絶する厳しい山の自然と、安寧な暮らしを許す平野。両者の中間領域としての〈野〉は『遠野物語』に顕著なように、国家的神話とは一線を画す民衆的メルヘンの母胎だった。これを詩的に拡大解釈し、あいだ”としての〈野〉は「闇」が息づくことの可能な稀有な場所でありつづけてきた、と言い換えてもよいだろう。

〈野〉にからだを横たえると、夜空にはベンヤミン、カフカ、キルケゴールという〈ノート作家〉=「非商業系著作家」たちが形作る「〈冬の大三角〉座」がしるく浮き立っている。非在の「読みの世界劇場」の観客になり遂せた氏は、濃密さをます闇の中、分析も解釈もせず、繰り返し読んだテクストをあらためて受け取り直す。何のために?「正しい不安という「最高のもの」を学ぶために」。なぜ「不安」を捨てたり解消したりするのではなく、学ばなければならないのか。学ぶとは、正しい愛し方を知ることだ。配達不能郵便(デッドレター)のように生に積み重なり、わたしを疲弊させる無数の小さな「不安」たち。それらの愛し方さえわかれば、それらが神話的に巨大な「不安」の物語として暴力的に統合されてしまう前に、あいかわらず小さく無意味だがしかし希望を孕んだ無数の手紙としててんでに煌めき出し、いつのまにかまったくあたらしい物語=歴史に反転しだれかに届く可能性もゼロではない。氏にとって読むことは、そのわずかな可能性に賭けることだった。氏が『序説』の最後に引用しているベンヤミンの言葉はこうだ――「希望なき人々のためにのみ、われわれには希望が与えられている」。

 本書に収められたエッセイの大部分を雑誌掲載時に読んでいたが、今次刊行された本で通読すると、一つ一つの言葉がいいがたい純度を帯びて、一層心身に沁み渡るように感じられた。今、わたし(たち)が晦い「不安」のなかに在ることと関係しているのかもしれない。本稿で多く言及したエッセイ「〈冬の大三角〉座で正しく不安を学ぶ」は震災への遅ればせながらの応答として書かれたものだ。氏のテクストは「不安」とともに生きざるをえないわたし(たち)にとって、これからも希望の書、抵抗の書でありつづけるだろう。キルケゴールについてのカフカの言葉をもどいた氏の言葉をさらにもどいて、わたしはつぶやく。本稿の読者がカフカらと同じ星座に属する非商業的著作家の手になる二冊の本を読んでくれるなら無常にうれしい……と。(かわぐち・よしみ=文芸評論家)


 







2020/05/23 7:10:43|事務長雑記
室井光広、まぼろしのシショチョー


『ODD ZINE Vol.4』に掲載された川口好美さんの文章です。


室井光広、まぼろしのシショチョー――北海道通信その二

 さっそく私的な報告で恐縮だが、本誌が出る頃には、静岡県の川根本町――お茶畑を懐かしいSLや機関車トーマスが走る光景に毎日出会える素敵なところです。一度遊びにいらしてください――に引っ越している。なので「北海道通信」は今回で最後になる。
   *
 昨年九月末、室井光広さんが六十四歳で亡くなった。癌だった。ご存じない方のために略歴を記しておけば――1955年、福島県生まれ。1988年、アルゼンチンの前衛作家J.L.ボルヘスについての評論「零の力」で群像新人賞当選。同年、図書館勤務のかたわら継続していた詩、短歌、俳句の実作の集成『漆の歴史――history of japan』(私家版、限定2部。1996年再刊)を刊行。1994年、小説「おどるでく」で芥川賞。1996年、日本文化論『縄文の記憶』。1997年、長篇小説『あとは野となれ』。2000年、アイルランドの詩人シェイマス・ヒーニーの評論集『プリオキュペイションズ』を英文学者佐藤亨氏と共訳刊行。同年、長篇評論『キルケゴールとアンデルセン』。2006年、東海大学文学部准教授就任を機に神奈川県大磯町へ移住。専任教員だった期間中、世界文学入門シリーズとして『カフカ入門』『ドン・キホーテ讃歌』『プルースト逍遥』を相次いで刊行。2012年、大学を退職し文芸雑誌『てんでんこ』を創刊。同誌上で『三田文学』に連載、中断していた創作「エセ物語」を再開。2014年、長篇評論『柳田国男の話』。2016年評論集『わらしべ集』。『てんでんこ』は12号(2019年9月刊行)まで出たが、彼自身が最終号の完成を見ることは叶わなかった。
 ざっと並べただけでもその仕事の多様さに驚くが、彼が若年より英語だけではなくアジアや北欧の諸言語のレッスンを続けていた事実もそこに付け足しておきたい。では、室井光広は博覧強記のジャンル横断的知識人だったのか。器用な、天才肌のアーティストだったのか。どちらも完全な間違いとは言えないにしても究極のところでは当て嵌まらない。定義”というもの自体、彼のテクストの前では拒否されるから。自分をひとかどの何者かとして表現する(してしまう)スタイルを彼は避け続けた。けしてそれは強い自負心に裏打ちされた謙遜のポーズなどではなく、この世界に自分が存在していることへの本源的な羞恥と憂鬱のゆえのもので、だからこそ自己を下へ下へと下降させる類のユーモアを片時も手放さなかった。わたしなどと違い、〈わたし〉という言葉さえ用いたがらず自分を指す必要がある場合には〈当方〉や〈凡愚〉としたり、〈わたし〉を〈ワラシ〉と言い換えたりしたほどだ。デビュー時から徹底してそうだったのだから、ほんとうに稀な生き方をしたのだ。
 室井光広という固有名を偶然に負わされた、曖昧=豊かな主体。それを知るのに恰好な文章が彼のヴァルター・ベンヤミンを主題とするエッセイ「一方通行道路とパサージュ」(『ドン・キホーテ讃歌』所収)に含まれている。そのパラグラフを全部引いてもよいが、ここではあえて原文の主語ベンヤミンを室井光広に置き換えた換骨奪胎バージョン(?)を掲げることにする。言葉も勝手に変更しているが、様々な引用のスタイルを編み出すことで学術的厳格さからユーモラスに身をかわしつづけた室井にオマージュを捧げるノリである。
 ――たしかに室井は、シュタツィオーン(=十字架の留、駅、節目、段階……)としての研究所、たとえば大学の機関等にいつかは正式に所属し、ある程度の人間らしい生活をしたいという希望を抱いていたかもしれないが、彼の根源的〈文人〉homme de letters 気質はどこかでそれを虚偽の願いと位置づけていた。室井は文学と哲学・歴史を架橋するあらゆるシュタツィオーンを経巡ったが、どの留にもとどまることがなかった。言語に深い洞察を示したが言語学者ではなく、占星術をはじめとする神秘的な世界に強く惹かれていたものの神秘主義者ではなく、魅力的な文章の書き手だったにもかかわらず、終始望んでいたのは引用文からなる作品を創り上げることだった。すぐれた翻訳を残したが翻訳家ではなく、多くの作家論をものしたが文芸評論家ではなく、縄文についての本を書いたが歴史家ではなく、詩的にまた哲学的に思考していたものの詩人でも哲学者でもなかった。一つだけたしかなのは、この根源的に晦い文人が憂鬱気質の人、メランコリカーであったということだ。
   *
 前回と同様、わたしに文筆業者の末席を汚すきっかけを与えてくれた新人賞の受賞パーティーの夜を思い出す。そこでわたしは、当時小説部門の選考委員を務めていた辻原登さんと久しぶりに再会した。彼はかつて東海大学文学部文芸創作学科で教えており、室井さんの同僚だった。二人ともわたしの先生である。二人はデビュー間もない頃からの友人で、先に勤務していた辻原さんが室井さんに来てほしいと勧誘した経緯があったらしい。室井先生も君の受賞を喜んでいるだろうね、と辻原さんは言った。〈大〉学、〈大〉新聞、〈大〉出版社との絶縁を実行した室井さん(この三つの〈大〉を、彼は手紙の中で冗談めかして「物書きの三大・寄らば大樹の陰」と呼んだことがあった)はもちろんパーティーに来なかった。辻原さんの眼は、わたしではなく、不在の室井光広を見つめている。見つめようとしている。そんな気がしていた。
 北海道に戻る機内で、『群像』「創刊七十周年記念号」の巻頭座談会を読んだ。出席者の一人である辻原さんが「僕は文学史的に物を考えたり、作品の系列とか、時代とかにあてはめて、何かを考えたりしたことがほとんどないんです」と座談会の趣旨にほとんど反することを前置きとして言った上で「文学という流れは、文芸誌に常に掲載されたり、文学賞をとったり、売れたり、売れなかったりという形で、作家という職業につくこととは全く関係ない。文学志願者、それから文学愛好家たちがうねりのように生れて消えていく。そこには進歩も発展も何もなくて、ただひたすら累々と日の目を見なかった作品だけが残っていく」と述べていた。室井先生のことが念頭にあってどうしてもこんなことを言っておきたかったのだなと、そのときのわたしは昨夜の印象を無理に重ねて理解しようとした。
 だが、それもまったくの的外れではなかったのかもしれない。大学辞職によって生じたごたごたを境に辻原さんと長い絶好状態に入ったのだが、先ごろ文通が復活しほんとうに嬉しい――ある日、そんな内容を報告(告白?)する手紙が室井さんから届いた。だがそれから半年もしないうちに彼は亡くなってしまった。
 文通復活時の室井さんから辻原さんへの私信が『三田文学』誌上の追悼座談会(2020年冬季号、出席者は辻原登、井口時男、田中和生の三氏)で公開されている。やはりその座談会でも辻原さんは「人について語るほうがおもしろいと思う」、「僕は文学の話があまり好きじゃないので人の話でいくと」、と断りを入れている。文学談義はやめて肩肘張らない思い出話に終始したい、そんなことではない。「文学史的」な位置づけや、「作品の系列」とか「時代」背景を論じることではわかりようのない〈文の人〉man of letters としての室井光広のモラルを正しく受け止めたかったのだ。累々たるテクストを置き残し、晦い底に向かって独りで下降し続けた、確信に満ちたその憂い顔を、心に刻みたかったのだ。
「人」を云々するだけでは到達出来ない「文学」の実質がたしかにあるだろう。だから「文学」を論じることは大事だ。だがそれは「人」などなくても「文学」はあると考えることとは違う。警鐘を鳴らしたいのではない。ただわたしはそういう考えは嫌いだ、と言いたいまでである。「文学」は「人」を忘れていないか。「進歩も発展も」ない「文学」のうねり、信じられないくらい長い時間続けられてきた無為な営みの渦中に一瞬浮び上がりしずかに発光する、「人」のことを。
   *
 室井さんの訃報に接して茫然とし、不眠に陥って困りはてた挙句なんの連絡も入れずに大磯のご自宅を訪問したのだが、奥さまから闘病や最期の様子についてお話を伺い、わたしは自分が恥ずかしくなった。どんな時間も無数の細部としてしか存在しないという、当たり前のことを忘れていたのだ。彼が、巨大な壁に圧倒され押し潰され、絶望して死んだと思い込んでいたのだ。たしかに、人間にとって死はすべてをチャラにしてしまう「究極の失敗」である。しかし死という壁の前で、ベンヤミンがカフカを引き合いに出して「究極の失敗が確かに思えてから、途上のすべてが夢のなかでのようにうまくいった」と語ったような、希望に満ちた細部としての時間を創り出すことは可能なのだ。それはたしかに為されたとわたしは信じる。室井光広は、ベンヤミンと同じように、死という絶対的な境界線=壁を、コレクションしそこに棲み込むことすら可能な「一種の領域」と見做すことで、多様な分岐を孕む襞へと作り変え得たのだと信じる。
「一方通行路とパサージュ」の最終節にはこうある。――「サタンはかれを万策尽きて逃げ道のない壁の前に立たせた。しかしかれはサタンがヤヌスのようにもう一つの貌を隠しもっていることに望みをつなぎ、壁がいくつもの出口をもつ襞になり変る救済をデーモンの征服者たる新しい天使に託した。かれがのぼっていった死の十三階段――その一方通行路の果てにはパサージュが広がっていた」
   *
 さて私事に戻るが、新居に、といっても築百二十年のおんぼろ屋敷なのだが、室井さんの蔵書を引き取り、その場所をささやかな図書館として開放したいと思っている。実現すれば、室井さんにはマボロシの支所長職に就いて=憑いて(?)いただくつもりだ(言うまでもなく、ボルヘスが館長を務めるあのバベルの図書館が本館である)。シショチョーはもちろん司書長に、場合によっては始祖鳥にさえ変異を遂げるに違いない。







2020/05/09 6:35:52|事務長雑記
あんにゃ通信


信書を整理していたら、「あんにゃ通信」というものが出てきた。

命名ということを好んだ庵主は、通信にもさまざまな名前をつけていた。
「師父通信」は故奥井潔先生に宛てたものだし、「さみなし通信」とか「TOKIO通信」とか、続々とあらわれる。

「あんにゃ通信」の宛先はT・N氏なのだが、同じ宛先で「愛兄通信」なんていうものもある。
一度命名したら、二度と変らないわけではなく、その時々で言い換え、呼び変えてとまらないタチだったのだ。

「あんにゃ」について書かれた文章も出てきた。


 黒田(喜夫)の郷里と県はちがっても地理的にはさほど遠くないわがお蔵入り地方でも「あんにゃ」なる呼称は用いられます。1955年百姓家の次男として生れた僕もじつは「あんにゃ」を付けて呼ばれていました。しかし僕のところで今も使われているそれには卑称、蔑称のニュアンスは――もとはあったにしても――ほとんどありません。
 僕にとって「あんにゃ」はオクライリ同様、むしろナツカシイ響きのする言葉です
(対話的思考のすすめ――詩学入門)
 

 
「あんにゃ」は、隣家を訪ねて「〇〇あんにゃ、いたのか」(=〇〇君はいますか)のような使われ方をする第三人称なので、〇〇君があらわれても、面と向かって「〇〇あんにゃ」とは呼ばない。


〈僕はこれまで、文学の全ジャンルを一通り行脚するあんにゃ=作男として生きてきたつもりです〉


 







2020/05/02 14:25:56|事務長雑記
遺著2冊 評
 
毎日新聞4月22日夕刊の4月の文芸時評
 
……昨年亡くなった室井光広の遺著『詩記列伝序説』(双子のライオン堂)と『多和田葉子ノート』(同)を読んでいると、その室井こそ古井由吉の「晩年の諸作」を「批評できる人」だったのではないかと思える。
 松浦寿輝の追悼文の言い方では、それは「途方もない力量を備えた批評家」ということになるが、たとえば室井光広が『詩記列伝序説』で提示するのは、司馬遷の『史記』からはじまり、セルバンテスやキルケゴール、カフカや北村透谷などの文学作品を同列に論じられる、「世界劇場」という文学的な舞台だ。それは詩や小説というジャンルで辿られるのではなく、詩的な散文として柳田国男の作品まで広く含んで語られ、粕谷栄市のような現代詩人も参与している。
 そこでしばしば室井光広が依拠する先駆者は、二十世紀アルゼンチンの作家ボルヘスだが、その「世界劇場」の重要な登場人物でもあるボルヘスは「自分がすでに死んだ人間のような感じ」で書いていたという点で、古井由吉の親しい隣人である。一方の『多和田葉子ノート』は、その過去の偉大な文学者たちが織りなす「世界劇場」に所属する、同時代の例外的な「ディヒター(詩人・作家)」として多和田葉子について語っている。批評家を含め、これからの読者が受け継いでいきたい視点だ。







2020/05/02 14:10:39|事務長雑記
双子のライオン堂
 
双子のライオン堂から届いた出版物2点
 
「しししし」vol.3は、双子のライオン堂の主、竹田信弥さんが「楽しみながら作った」という本屋発の文芸誌。
号を追うごとにむちゃくちゃティーパーティーふうの豊かさを増し続けておられるようだ。

室井光広追悼企画として、数名の方が追悼文を書かれている。
驚くのは、「ほんとに?」「そうだったの!」という類のことが思いのほか多いこと。
こんなふうに文章を寄せていただける庵主の果報を思いました。


『めんどくさい本屋』は、竹田信弥さんの著書。
いつも闊達で愉しげにしておられる竹田さんにも苦労がある、という当たり前の事実と、強靭な決意と努力にうたれます。







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