こゆるぎの浜 4.30 5:20
《1993年》
首をくくって死んだわたしの祖母は、たいして金にもならぬ目下の仕事を狂おしく朝から晩までつづけた。天寿を全うした祖父は、二十年後三十年後に「たいした財産」になるとふんで、やはり目下の収入にはつながらぬ山林仕事(暴落の事実をしらずに逝った彼は幸せだった)をたのしんでやった。先祖とまでいう必要がない――祖父母の代でやっていた仕事のなかみ……それが孫のわたしに近づいている。
部屋のドアをあけて中へ入ってくる妻がいることへのカフカの嫌悪感とアコガレ。わたしの場合どうなのか。妻にいてもらった状態から「自然に」孤立の場所へのびてゆく、雑草のように。長い時間をかけて、少しずつのびてゆく。
貧相なりともわたしなりの神曲(紙神狂騒曲)をつくれるかどうか――それはひとえに現実の没落機関にふみとどまれるか否かにかかっている。ダンテが呑み込んだ没落者の境涯。
S誌、B誌、そしてこのG誌。まがりなりにもわが国を代表するとされる三つの文芸誌のお声がかかりながらとうとうその期待にこたえるような産物を提出できなかった、といかにも野心家の傷心調で書いておくのも、無用の地獄篇にとってタシになるだろうか。いやわたしには学問研究の道がのこされている、という逃げもないのだと嘆いてみせることも。名声などつまらない、わたしにはまっとうな生活人の世界があるということもできないと崖の上にのぼりつめる演戯も型通りやる。さてその上で、静かな一人一党主義の綱領作りにとりかかる。
第一期の洞窟暮しで、あのとてつもなくおろかな長物『漆の歴史』をでっちあげた。あの頃と、こんどの二期目がちがうのはどういうところか。
二期の洞穴生活は、散文の風に通ってもらい、案内人たちにも自由に往来してもらう。この二期めの陥没方向の年季が明ける頃には、私の人生もとっぷりと暮れているだろう。正直いえば、第一期でサヨナラしたかった。
野に下る、森に入る……その覚悟がまだ徹底されていないという声や、いやこれ以上ゆけばただ崖から転落するだけという声。
『神曲』とほど遠い、やせ細った、トゲトゲしい声。
ワイ小なりとも「作品にすること」――それを他者が案内人がかって出てくれる。無用のものと分りきった堆肥の塔を三千部ほど作ってくれる案内人があらわれたという。F氏の涙ぐましい尽力で、私好みの弱小出版社がひきうけると。ウソかホントか知らぬが採算を度外視できる、とその案内人はいってくれているそうな。F氏は、じつは、大出版社にかけあってくれたのであろう、とうてい無理との反応があった気配は察知できる。私のウツは、そういうことの中にはまったくない。結婚しているくせに子供を産まないという非議にこたえるときと同様のウツ状態といえる。
三千部――ボルヘスの、あの三十七部に比して何という大部数であろう。私の仮設の「作品」の読者が三十七人いるとはとうてい信じられない。
それにしても、子を社会に出すにあたっては、多少なりとも親らしい配慮を示さねばならない、それがウツの源となっている。
桂離宮とうぬぼれたホッタテ小屋が俗波を受けてもろくもつぶれた!
小屋の切れハシ材をひろって、波打ち際をトボトボ歩く日々。
一人一小屋主義のダッテ。ダンテならぬダッテ。だって……だって……とグチと弁明で十余年すごしたダッテの末路。