もちろんオリジナルの方が読みやすいのですが、こちらにも。
『詩記列伝序説』と『多和田葉子ノート』は、作家・室井光 広(1955 〜 2019)のいわば双子の遺著として、その名も「双子のライオン堂」から刊行された。
室井光広は福島県南会津に生まれ、慶応大学倫理学専攻を卒業後、1988 年にボルヘス論「零の力」で文壇デビュー。1994 年、『おどるでく』で芥川賞を受賞した。2011年、東日本大震災を契機に文芸ジャーナリズムから身を引き、地方から世界文学を志向する文芸雑誌『てんでんこ』を独自に主宰。しかし 2019 年9月、悪性リンパ腫のため急逝、享年 64 歳だった。その最晩年、室井氏は本誌『グロー カル天理』の愛読者でもあった。
この双子の遺著では、室井光広はいずれも「読む人」に徹している。読むことは、 室井氏にとって独特な意味を持つ。セルバンテスの『ド ン・キホーテ』は、現代人にとってはおそらく途方もなく長大で、時に退屈な物語であろう。風車に突進するドン・キホーテは物語のごく初めに出てくる有名な挿話であるが、よく考えてみればこの話の一体どこが面白いのだろうか。安岡章太郎が『ドン・キホーテ』を評して、「捉えがたい滑稽さ」と評したのも宜なるかなである。
室井氏は『ドン・キホーテ』を3回通読したという。もうそれ自体がドン・キホーテ的な営みとも言うべきであるが、そんな室井氏が「読者教」の信者として讃仰して止まないのが、現代アルゼンチンの作家ボルヘスだった。ボルヘスは、17 世紀のこの作品をセルバンテスが書いた通りに書こうとしたピエー ル・メナールなる人物について描いている(「『ドン・キホーテ』 の著者、ピエール・メナール」)。ピエール・メナール(もちろん架空の人物である)が実際に書いた『ドン・キホーテ』は、 断片的なものにすぎないが、その断片はまさにセルバンテスの テクストとそっくりそのままであった。
ボルヘスのこの小説のどこが面白いのだろうか。それを理解するためには、例えば『キリストのまねび』が実はセリーヌかジョイスの作品だとした時(そんなことは有り得ないだろうが)の驚きを思ってみるとよい。必ずや衰えた宗教的教訓に活が入るはずだ。ボルヘスはそう述べるのである。
ある古典作品が、本当はこれと全く傾向の異なる現代作家の手になると想定した時、その作品世界と当該作家との間に途方もないイメージの「ずれ」が生じ、これが読者に精神的衝撃を与える。そしてその瞬間から、読者は作品を以前とはまるで違ったまなざしで受け取り直すことになる。テクストの手綱は今や読者に握られ、読みの運動はこのあと無限の振幅を持って進んでいくのである。それが可能なのは、まさに我々の想像力が無限の力を持つからである。室井氏はこれを「極詩的」とも表現する。そ してこの無限の想像力に依拠して、ボルヘス、メルヴィル、カ フカ、キルケゴール、宮沢賢治、中原中也、粕谷栄一を縦横に 読み込んでいく。『詩記列伝序説』は図らずも「白鳥の歌」となった室井氏の最終読書レポートである。
読みの運動は誤読を怖れない。いや、誤読こそがテクストに新しい意味を呼び起こし、作品世界に新しい生命を吹き込む。 そしてこの極詩的な運動は同時に「極私的」でもある。『詩記列伝序説』には、世界文学を若い頃から読み続けてきた室井光広でなければ、到底できない「繊細な荒技」が随所に見られる。室井氏自身の『おどるでく』は、カフカの掌編に登場する、手巻き車のような物言う物体オドラデクを一つの下敷きにして、 古今の様々な物語や伝承を絡ませて書かれた。この小説は、芥川賞受賞作品の中で史上最低の売れ行きだったそうだ(本人談)。それもそうであろう。この小説こそ、そうした「物=語り」 の隠し味を美味いと感じるような、読者の “ プロ ” を要求するからである。
室井光広のもう一つの白鳥の歌となった著作が『多和田葉子ノート』である。多和田葉子(1960 〜 )こ そ、 室井氏がひそかに師事ならぬ “ 妹事 ” していた作家である。 多和田氏は現在ドイツに在住、 日本語とドイツ語で作品を発表し、内外の数々の文学賞を 受賞している「グローカル」 な作家だ。病床の室井氏はドイツの多和田氏から、「病が癒えたら連詩をしませんか」という誘いを受けた。残念なことに、それは室井氏の死去により夢物語になってしまった。でも『多和田葉子ノート』は、形を変えた室井・多和田両氏の夢の連詩であると言えるかもしれない。
室井氏はこの著作の中で、『ゴットハルト鉄道』『献灯使』 『百年の散歩』『地球にちりばめられて』などの彼女の作品について、世界文学の諸作品を交錯させつつ論じている。そこに我々が見出すのは、「妹の力」(柳田国男)に引き寄せられるか のように多和田文学の磁力圏へと踊り入って、“ デヒター(詩人) 多和田 ” と対話する “ デンカー(思人)室井 ” の姿である。2人して時に多和田論の本線からカフカ論の支線に入り込み(多和田氏にもカフカの翻訳がある)、またそこからベンヤミン論の枝線へと “ 混線 ” していくこともある。どれが本線でどれが 支線・枝線なのかも大切かもしれないが、何よりも読者は「詩人=思人」の牽引するゴットハルト鉄道から折々の詩や思想の 風景を楽しめばよい。
この著作の読みどころは、巻末の室井・多和田両氏による現実の「対話篇」(1997 年、2017 年に対談を行った)であるが、 最晩年に記された冒頭の「ノート篇」(実際に室井氏のノート から取られた)も興味深い。それまで室井氏のボキャブラリー の中にはなかった「御筆先」とか「グローカル」という言葉が ここに散りばめられているのは、極私的な面白さではある。