幻塾庵 てんでんこ

大磯の山陰にひっそり佇むてんでんこじむしょ。 てんでんこじむしょのささやかな文学活動を、幻塾庵てんでんこが担っています。
 
2015/04/24 14:27:43|幻塾庵てんでんこ
幻塾庵記 その6
隠遁者にもかかわらず山野に身を隠すことをしない非僧非俗の無用者――。
芭蕉がドン・キホーテ的に魂を同一化させようとつとめた先師には、西行・鴨長明の他に兼好法師があげられる。
書くことが「あやしうこそものぐるほしけれ」の時空に連れてゆく……とはじまる『徒然草』を引き寄せる。

ボルヘスに似たスタンスを猿真似、いや猿が蓑を着るような身振りで引き寄せ、「書物がすでに存在すると見せかけて、要約や注釈を差しだす」ふうに、『徒然草』(岩波文庫版)をひらき、その解説(安良岡康作)を端折ってみる。

『徒然草』に広がる、「三つの広がり」について。
一方通行路のように見えても、この書は三つの場所に読者を連れてゆく――われわれの表現にホンヤクするとそうなる。

その一つは、兼好自身がその中に生活していた喧騒と煩雑と束縛とにみちた「世俗」。もう一つはそれらの煩悩を断ち、菩提を求め、安心を願う「仏道」。さらにもう一つは、兼好がかのモンテーニュのように中年以後、身を置いた「遁世」の世界。それは、「非僧非俗」という当時の言葉が示す通り、「世俗」とも「仏道」とも異なる、第三の境涯だった。

「幻住庵記」が広義の〈本歌取り〉をした対象は『方丈記』や西行の古歌、さらに杜甫・白楽天らの詩句とされる。しかし広く文業の全体に目をやれば、その核心部にすぐれて『徒然草』的な非僧非俗の境涯へのしなやかで強じんな志が脈うっていることは明らかである。

たとえば、かれが「あなたふと」の叫びを洩らさずにはおれなかった蓑と笠。
どうして「雪ふらぬ日も蓑とかさ」なのか……。
繰り返しになるが、簔と笠はつい最近に至るまで「世俗」生活に必須の実用品だったが、一方、おごそかな神仏の世界にもつながる「透明人間」のためのふしぎの衣でもあった。しかし、芭蕉が「たふとさ」を感得したのは、それら二つと関係が深いにもかかわらず、役に立たないもののたとえ「夏炉冬扇」に重なる何かだったという他ない。
蓑も笠も、もはや消滅寸前のものである。だが、ベンヤミンの言葉をかりて芭蕉的ポエジーをホンヤクするなら、それは「消滅しつつあるもの、おびやかされているものとしてのみ、現在に与えられている」のだ。

芭蕉が「あなたふと」の賛を寄せた画が、老いた小野小町を描いたものであったことにわれわれは深く心をうたれる。岩波文庫版編注者の労作によって句意を写せば――
「雪の降る日も降らない日も、破れ蓑に破れ笠の乞食姿で放浪している老小町のさまは、人の世の辛酸をなめ尽し、まことに大悟の境に達したものであり、気高く、崇高に見えることだ」
「卒塔婆小町」などに伝えられる小町伝説(虚)と小野小町の実像(実)との断層にかけ渡された芭蕉の〈虚実皮膜〉的俳文は、小町伝説を伝える謡曲、「尊」の字を三度重ねて書かれた『徒然草』第三十九段の表現をふまえたものである。

「晩年の小町の漂泊の乞食像を理想化し、己れの姿に重ねながら、賛仰」する芭蕉に、われわれはドン・キホーテの原像を垣間見る。
『徒然草』第三十九段は、アフォリズムふうに短い。庵主はこの原文をこれまで少なくとも三度はノートに書き写しているが、ここでは作家佐藤春夫の現代語訳(河出文庫)を掲げておく。

〈ある人が、法然上人に、「念仏の時に眠くなってしまって行ができませんが、どうしてこの障害を防いだらよろしゅうございましょうか」と言うと、「目が覚めたら念仏をなさい」と答えられた。じつに尊かった。また、往生は確実なものと思えば確実、不確かと思えば不確かであるとも仰せられた。これも尊い。また、疑いながらでも、念仏をすれば往生するとも仰せられた。これもまた尊い〉

 







2015/04/23 13:14:04|幻塾庵てんでんこ
幻塾庵記 その5
カフカの「雑種」というタイトルの原語はEine Kreuzung。クロイトゥングはクロイツ(十字)と関係があるだろう。クロイツだけで雑交、異種交配の意があり、動詞形のkreuzenは「交差する、交わらせる、ぶっちがいにする、横断する、じゃまする」といったニュアンス。
カフカ文学の本質を開示する含蓄深いひとかけらの語……。

ついでに、カフカのノートのどこでだったか、認知症患者予備軍の可能性が高い庵主は思い出せないのだが、もう一つ、カフカがこだわりを示したひとかけらの接続辞トロッツデム(にもかかわらず)をあげておきたい。
デムはソレ、トロッツはニモカカワラズ――日本語同様の、文字通りのソレニモカカワラズ。
われわれの視点でホンヤクし直すと、「にもかかわらず」という関わり方を暗示する実存的接続辞。

カフカのtrotzdem考はどこかにあったはずだが、正確な引用ができない。かわりにというのも変だけれど、『変身』や「雑種」と通底するモチーフの『山月記・李陵』を書いた作家中島敦の南洋への夢を紡いだ「環礁」なる連作から、ほんのひとかけらを引く。

〈よく手入れされた芋田と、美しい椰子林とを真昼の眩しい光の下に見ながら、この島の運命を考えた時、あらゆる重大なことは凡て「にもかかわらず」起る、といった誰かの言葉を思い出した。ものが亡びる時は、こんなものなのかと思った〉(岩波文庫版『山月記・李陵』所収)

中島敦は南洋の島にあって、いわばベンヤミン的「一方通行路」を求めて歩いていた作家だ。この「誰かの言葉」の出典を、われわれも知らない。東大大学院に進学した頃、カフカを英訳で読んだ中島は、「にもかかわらず」なる語に英語ではないトロッツデムというカナをふっている。
もちろんドイツ語談義もなされていないが、名詞形のTrotzは「反抗」の意であるから、トロッツデムの逐語訳ふうのイメージには「そのことへの反抗」が隠れている。

われわれの掟の門に刻まれた「夏炉冬扇」「非僧非俗」を特殊なホンヤク装置にかけると、やはりトロッツデムの原義が引き寄せられる気がする。

 夏ニモカカワラズ火ばちですか……
 冬ニモカカワラズおうぎですか……

われわれの夏炉冬扇ゼミナールから聴こえてくる呪文のような自問――。さらにこれはたちまち、「雑種」的なつぶやきに翻訳されるだろう。

一方通行路ニモカカワラズ三つの道=トリヴィアが交差するなどということがあるのか。

ベンヤミンのアフォリズム集「一方通行路」なるタイトルの原語について無知なわれわれは、すでに紹介した三種の日本語訳のうち、晶文社版も岩波文庫版も「一方通交路」となっている。ちくま学芸文庫版の「一方通行路」と並べる時、訳者の微妙なニュアンスへのこだわりが伝わってくる。
「通交」なる語は、国家または個人が親しく交際すること(福武国語辞典)であり、道を通って行く「通行」とはややズレる。たぶん、そのことをわきまえたうえであえて「一方通交路」が選択されたものと思われる。いずれが正しいかという話ではない。

一方通行路を夏炉冬扇のポエジーをさがしながら行く非僧非俗者の前に、たとえば三つの道が現れてくる。

またしてもホンヤク的跳躍。
江戸時代にあってドン・キホーテ的な旅をハンプクしたわれらの芭蕉は、すでにふれた幻住庵記のヴァリエーションで、こう書いた。キルケゴール『反復』に登場する青年よろしく、「この書を幾度もくり返して読みましたが、その言葉一つ一つがいつでも新しいのです」という思いを共有するわれわれは、「あるいはこの書体で、あるいはあの書体で、幾度でもくり返して残らず書き写すのが悦び」を口真似しつつ「いつでも新しい」言葉をハンプクする。

〈かくいへばとて、ひたぶるに閑寂をこのみ、山野に跡をかくさむとにはあらず。……何ぞや、法をも修せず、俗をもつとめず……〉
〈……ある時は仕官懸命の地をうらやみ、一たびは仏籬祖室の扉に入らむとせしも、たどりなき風雲に身をひそめ、花鳥に情を労じて、暫く生涯のはかり事とさへなれば、終に無能無才にして此一筋につながる……〉







2015/04/22 11:58:03|幻塾庵てんでんこ
幻塾庵記 その4
就任前は、見れば見るほど鼠のように思われたてんでんこじむしょ事務長だが、このところもしや犬では? と思われる言動が多く、猫の中でも最も犬に近い種類だと断言する人もいるくらいなので、「半分は犬」ということもあるらしいとわかった。

ちくま文庫版「カフカ・セレクション」(全3冊)を幻塾のテキストにあげたかどうか忘れてしまったが、そのV(浅井健二郎訳)所収の「雑種」を読み直したところ、次のような一節が目にとびこんできた。

〈子羊でもあり猫でもあるというだけでは十分でなくて、ほとんど、さらに犬でもありたいといった感じなのだ。そんな風に感じるのは、それに似たことを私が本気で信じているからである。つまり、この動物は両種の気掛かりを、互いにまったく別種のものではあれ猫の気掛かりと子羊の気掛かりを、心に抱えているのだ、と。しかしそれゆえに、一匹分の皮膚ではこいつには窮屈すぎるのだ〉

われわれの愛する超短篇なので、残りも書き写せぬことはないが、事務長が門番のようにたちふさがるので、中断する。

ベンヤミンとかけはなれているであろう「ホンヤク者の使命」にたちもどったつもりで、幻住庵記の定稿(?)が収められた「猿蓑」のイメージをよびよせる。

ああ、解説がわずらわしいという思いをかみしめて書かれた類の解説だけが、わずらわしくない。これも逆説の一種なのか。
前後関係がわからなくなる……これは認知症の徴候の一つだそうだけれど、前後関係を無視した見果てぬ夢の文をヨミカキしたいと願うのは庵主だけだろうか。

幸田露伴著『猿蓑』(岩波文庫 1937年刊)の1977年版をひらくと、のっけから、
「我翁行脚のころ伊賀越しける山中にて猿に小蓑を着せて俳諧の神を入たまひければ……」というような無教養の庵主にはいささか難しい「序」文が顔を出す。露伴曰く――この集の巻頭芭蕉の句に、初しぐれ猿も小蓑をほしげなり、とあり。其句を文にあやどりて、小蓑を着せてと面白く云取りたる也。

ネコがねこをかぶっている姿と、猿が小蓑を着ている姿と。
それは比較の対象になるようなことじゃないね、と事務長がいっているようだ。







2015/04/19 12:25:54|幻塾庵てんでんこ
幻塾庵記 その3
「夏炉冬扇」は通常の国語辞典に見つかるが、では「非僧非俗」というやはり芭蕉的風雅を貫く実存の標語はどうか。
管見の限りではどこにも見当らず、「非俗」なる語が辛うじて日本国語大辞典に顔を出していただけである。

幻住庵をもどいた笑うべき幻塾庵の不可視の門前――それも、あのカフカのおそろしくもユーモラスな超短篇「掟の門」をもどいたものだ――にも「非僧非俗」の掟が視えない文字で記されている。

「掟の門」の「田舎から出てきた男」は幾年もの間待ちつづけたものの門番にさえぎられ、ついに奥に入ることは許されなかったが、われわれの幻塾庵の場合、田舎者は門番を兼ねる。
内なる門番の役割は、夏炉冬扇と非僧非俗という身分証代りの覚悟をたえず確認しつづけることだけである。

幻塾庵の門にはまた、不可視の蓑笠が掛けられている。長い間、常民の仕事に無くてはならない「役に立つ」日用品だった蓑と笠。雪国などにあって防寒雨具として必須の蓑を、たとえば不世出の学匠折口信夫は「大嘗祭の本義」の中で、こう書く。
〈日本では、蓑は、人間でないしるしに着るものである。ところが、百姓は蓑を着るが、これは五月の神事の風習が便利だから、その神事を真似てしもうたのである〉
神道的な本義からズレてしまった事態を憂いているふうのムードが看取される。

幻塾庵の蓑笠がいかなる種類のものか、じつは庵主もよく知らない。参考までに—―「隠れ蓑」なる語を福武国語辞典でひく。@それを着ると姿が見えなくなるというふしぎなみの A本来の姿や目的をかくす手段。
この隠れ蓑についての参考文献として、さらに『柳宗悦民藝紀行』(岩波文庫)所収の「蓑のこと」(昭和12年発表)をあげておく。

おごそかな神道の本義にそくしたアカデミックな折口の説に耳をかたむけたい人は、『国文学の発生』(第三稿)の「蓑笠の信仰」を一読されたい。
学匠曰く、「大晦日・節分・小正月・立春などに、農村の家々を訪れたさまざまなまれびとは、みな蓑笠姿を原則としていた」。

さて、われわれの掟の門にもどりたいが、例によって道草がすぎたせいか、くたびれてきた。もどり道をさがすため、やはり祖師のうたを――

あなたふとあなたふと、
笠もたふとし、蓑もたふとし。いかなる人か語り伝え、いずれの人かうつしとどめて、千歳のまぼろし、今ここに現ず。其かたちある時は、たましゐまたここにあらむ。みのも貴し、かさもたふとし。

たふとさや雪ふらぬ日も蓑とかさ
(「卒塔婆小町賛」『芭蕉俳文集』下による)







2015/04/17 15:26:06|幻塾庵てんでんこ
幻塾庵記 その2
花寒の季節、ずっとネコを着てすごした。『福武国語辞典』をひくまでもなく、「ネコをかぶる」はあっても、「ネコを着る」という日本語はどの辞典にものっていないだろう。
信州南木曽町に古くから伝わる防寒着――なぎそねこ、通称ねこ。

大学卒業後、その地に近い読書(ヨミカキ)という土地、当ヨミカキ塾にとってにわかに信じ難い名の土地に住んで木こりをしながら創作をつづけて9年目に入る(今の住まいは読書村ではないが)幻塾生のKさんが、今春還暦を迎えた庵主に贈ってくれたものだ。作業のおり手元の邪魔にならないようにと、半纏の袖や前身ごろをなくし、冷える背中だけをあたためるように工夫されている。「ねこ」の名前の由来は「ねんねこ半纏」「猫のように温かい」など諸説あり。

わが幻塾の事務長も気に入っているようで、ねこを着るネコ、猫をかぶるネコを実践している。

末端冷え性で偏頭痛患者の庵主は、「一度ハマると着っぱなしになります」とKさんがいう通りの状態で花冷えをやりすごした。
ミシンを使わぬ手作り品を手縫いしたのは、83歳の志水さき子さんという方。彼の地でも手縫い人は「4人しかいない」とのこと。合掌。

過ぐる4月8日――雪と桜の両方が「ふり」ちった日なども、ネコを着ていた。俳聖のかのつぶやきを真似つつ、ここなる凡愚庵主は下ノ畑黒板におもむろにこう書きつけた。

夏炉冬扇

これは大方の小さな国語辞典にのっているが、念のため福武のものをひき写すと、(夏のいろり、冬の扇の意から)時節外れで役に立たないことや、もののたとえ、とある。
もう少し大きめの辞書をひけば、「予が風雅は夏炉冬扇のごとし」という芭蕉の用例に出会えるはずだ。

庵主への「役に立つ」還暦祝い品の話から夏炉冬扇をみちびくのは「ねこ」に失礼ではないかと事務長が表情をくもらせた気もしないではないが、真意はゆっくりと急いで伝わるだろう、と信じて、またしても中断――。

還暦を迎えて、いちだんと集中力が失われたようだ。