幻塾庵 てんでんこ

大磯の山陰にひっそり佇むてんでんこじむしょ。 てんでんこじむしょのささやかな文学活動を、幻塾庵てんでんこが担っています。
 
2015/05/31 14:08:33|雑記
歴史列伝 柳田国男
電車に乗ることもめったにない文学塾てんでんこの主催者が、
BS−TBSの「歴史列伝」にゲスト出演することになったという。

世界文学ゼミナールの第一回(5月9日)に不慣れな都会に出たためか、ゼミナールの開催に浮かれたせいなのか、珍しく風邪をひいて咳がとまらない。
咳で眠れない日が続いたあげく、病み窶れて掠れ声で収録に臨んだようだ。

問いかけに咳で答えることにはならずにすんだらしいが、どんな仕上がりになっているものだか、おそるおそる見てみるべき?

6月19日(22時)放送予定だそうです。

 







2015/05/31 13:41:00|幻塾庵てんでんこ
柳田国男小考 その2

岩波文庫『孤猿随筆』に寄せて
 
「なんて名前かね」
「オドラデク」
「どこに住んでるの」
「わからない」     (F・カフカ「父の気がかり」)
 
    1
 
 柳田国男の文章は、小さな話の集積物である。小さな話は、『孤猿随筆』自序にいう「小さな真実」を孕む。自序によれば、その真実は、「歴史の存在を無視せられていた者」らにまつわるものだ。柳田はいう――「記憶のない所にも歴史があるということ、文書がいささかも伝えようとしなかった生活にも、なお時代の重要なる変遷はあって、尋ね知ろうと思えばこれを知る途は確かにあるということ、この二つは日本民俗学の出発点であった。もし獣類にもそれが安全に断言し得られるとすれば、まして人をやという推論を下すことも容易であろう。そういう予想がある故に、実は私の話は一段と楽しいのである」と。
 楽しさの淵源は、小児の心にある。「たとえば泣いている子のために犬を喚び、猫を指さすとすぐに気を取られて、次にどういう話が出るかを待とうとする。猿や兎というような語を発して見ると、一度はだだをこねるのを中止して、それがどうしたかを聴こうとし、話が古臭かったりつまらなかったりすると、改めてまたあばれ出すのである」。
 柳田自身の幼年期には絵本が少なく、話題の動物も多くは平凡であったが、それでもこれを喜び聴こうとする念慮は小学校までも続いていたという。かかる「念慮」をめぐって、柳田は、「話術と相対する聴術とも名づくべきもの」の錬磨に言及する。

 すぐれて柳田的なネーミングと思える「聴術」の錬磨の内実は、しかし、容易につかめない、とまずは率直にみとめておいたほうがいいだろう。
 はたしてわれわれ自身、群れを外れる孤猿(まぐれ猿)や孤狼(独り狼)、お告げをし人に憑き飛脚をつとめる狐、復讎する狸、化ける猫、何代にもわたって庭に棲む野良猫や飼い犬の観察等々の「小さな話」から成る『孤猿随筆』を童の〈小さな心〉にかえって読みすすめれば、「歴史の存在を無視せられていた者」――忘却されたものらの歴史を復元することが可能であろうか、と問うのは保留し、大人の通念をとりあえずカッコに入れる態度それ自体の中に「聴術」の秘訣が隠れ潜むのではという予感を胸に、日本民俗学の父が「実は私の話は一段と楽しい」と語るがままを信じたいと思う。「話が古臭かったりつまらなかったりすると、改めてまたあばれ出す」かどうかも保留するとして、われわれはともかくも小児にもどり、日本民俗学の父の話に耳を傾けたいと念じる。
 じっさいの父の話は、児童なみのアタマではとうていついてゆけない……などともグチらず、「親々の談話には世上の風聞、事件の顚末や人の噂というような、新たな材料が際限もなく加わって、自然に子供の理解の外へ出ることになったが、以前の平明簡易なる人生においては、これが老幼共同のたった一つの話題であった時代があって、それ故にまた特に児童をして、こんなに深い興味を抱かしめるようになったのかと思う」といった言い草を素直に受け入れることからはじめる。
 ともすれば、だだをこねたくなる小児の心は、たとえば父のこんな言葉も聴きのがさない――「大きな生徒には勉強ということがあって、心に染まぬことでも骨を折って覚える。小さな子供はこの点は自由だから、気に入ったことでないと言おうともわかろうともしない。それだから何でも目を丸くし耳を尖らせるような話が必要だったのである」。
 柳田学が「小さな話」の集積物であるというささやかだけれど重要な事実の確認から出発したわれわれは、『野草雑記・野鳥雑記』の「雑記」や『孤猿随筆』の「随筆」なるタイトルにも〈小さな心〉の変種が込められているのを直覚する。本書に収録されているわけではないが、自序に言及されている『一目小僧その他』所収の一篇「熊谷弥惣左衛門の話」は、「私の小さな野心は、これまで余程の廻り路をしなければ、遊びに行くことの出来なかった不思議の園――この古く大きくまた美しい我々の公園に、新たに一つの入口をつけて見たいということであります」と語りはじめられる。
 心に染まぬことでも骨を折って覚えなければならない、大きな生徒のやる勉強――それと正反対のものが、ウサギを追って穴に飛び込んだあのアリスを待ち受けたワンダーランドに「遊びに行く」感覚である。
 「狩小屋以前から」人間と生活の隣を接し、友としてまた敵として互いに注意を喚起する存在でありつづける動物たちが人間といかに交渉したか、さらに人間生活と感情の内部でいかなる一の占め方をしてきたかを、各地の伝承・物語・記録と自身の見聞・記憶とを織り交ぜながら考察する『孤猿随筆』のなかみが、たちまち「子供の理解の外へ出ることに」なるニモカカワラズ、われわれはあくまで「気に入ったことでないと言おうともわかろうともしない」小児の自由を手離さずに、父の架けるニモカカワラズの橋を渡りたいと願う。
 父の説く「聴術」の何たるかはよくわからぬままだとしても、その術が、子どもの本来の遊びがそうだったように、〈何を〉ではなく〈いかに〉を問う自由に関わっているのでは、という予感につつまれる。たとえば、雑談・雑記・雑話といった記述を雑草のように愛惜したその方法自体に〈いかに〉が潜んでいるし、また柳田の歴史についての言い草などは、〈いかに〉を問う自由を引き寄せぬ限り理解することは困難であるように思える。
 「最初からの目的であった狐飛脚の話が、だんだんと遅くなるばかりだから、もういい加減に切上げよう」といったスペシャルな脱線咄の大家お得意のフィナーレを迎える「狐飛脚の話」の中の、次のような「歴史」観を、「不思議の園」に遊びに行くことをこい願うすべての読者が「必要」とするだろう。
 「狐の吐く息は夜陰にはやや光るとか、または牛馬の骨を口にくわえてあるくとかいう説を、批判して見ようというような気持は私にはない。そのようにしてまでもこの事実を、まことこの世の中に存在するものと、見なければ気が済まぬという所に歴史があるのである」。
 唐突を承知で付言すれば、ここで私は畏敬する文人J・L・ボルヘスの超短篇「『ドン・キホーテ』の著者、ピエール・メナール」の一節を想いおこす。――「メナールは歴史を、真実の探求ではなく、その源泉と規定する。歴史的真実は彼にとって、かつて起こったことではない。かつて起ったとわれわれが判断するところのものだ」(岩波文庫『伝奇集』鼓直訳)。
 
    2
 
 柳田学が拠った「小さな話」に宿る「小さな真実」は、「歴史の存在を無視せられていた者」らの歴史をあぶり出す。『孤猿随筆』は「何の動機もなく、何の下心もない文章の集」だといいながら、一方で、記憶の無い所に歴史を尋ね知る方途は「確かにある」と信じることが日本民俗学の出発点だという動機と下心をあらわにする柳田国男は、ゲーテがその自伝に冠した秀抜なタイトル――〈詩と真実〉を日本学のフィールドで追尋しつづけた類まれなる散文家であった。
 何の動機も何の下心ももたぬ書物はありえない。にもかかわらず〈何を〉よりも〈いかに〉を尋ね知る方途はあると信じること――その信仰を、ゲーテがそうよばれた「詩人哲学者」たちは共有する。私はボルヘスなどもその共有者に数えるのだけれど、柳田国男は、日本における数少ない詩人哲学者の一人だった。
 「我々が空想で描いて見る世界よりも、隠れた現実の方が遥かに物深い」(『山の人生』)とする出発当初からの柳田の視座はゆるぎないものだったが、しかし「隠れた現実」=真実を浮きぼりにするにあたって、柳田の文体の奥に隠れた詩(人)がどれほどの異能を発揮したかを、われわれは『遠野物語』によって体感できる。民俗学の最前線の情報に疎いわれわれの耳にも、『遠野物語』を、遠野の伝承として無自覚に扱えないという大方の見方は届いているけれど、われわれはここでも、「気に入ったことでないと言おうともわかろうともしない」小児の心にたちかえったあげく、「詩」のフィルターを通さない事実に真実を視ようとは思わぬとダダをこねさえする、とだけ書いておきたい。
 先の自序で「あるいは今はまだこれを空想だと評する人があるかも知れぬが、自分だけはこの小児が獣の話を愛する癖を、狩小屋以前からの遺物かと思っている」と語るその「空想」は、柳田の場合、忘却されたものらの歴史を明らかにするために必須の、詩と真実とに架け渡された虹の橋の役割を果した。詩(文学)との訣別を自らに宣言したにもかかわらず、事実に真実を見据える柳田の天性の詩人としての視力は死に至るまで衰弱することがなかったのである。
 隠れた現実のほうが「物深い」というときの日本語「モノ」に注意しよう。モノいいが気にくわない・モノもいわずに(言葉)、コネがモノをいった・モノ凄い(効力、効き目、威力)、モノのわかる人・だってそうなんだモノ(道理、筋道、理由)、モノに取り憑かれる・モノノケ・モノ狂い(人間の精神生活を支配する、人間以上の不可思議な存在)。
 右はごくありふれた「小さな」国語辞典にのっている程度のモノのいろいろだが、柳田国男こそ、モノ本来が孕む矛盾――道理・筋道を指すにもかかわらず反理性的でもある――を直視しつづけた本源的なモノカキとよぶべきだろう。種々の物狂いに寄せた本格的なモノカキの関心は『孤猿随筆』にもしるく浮き立っている。本書は単なる身近な動物の話ではなく、その忘却された歴史を、いわばケモノというモノの怪をつきつめんとするカキモノである。
 本書が世に出た時代、すでに人間とケモノのモノ深い交渉の歴史は闇に閉ざされつつあった。まして二十一世紀初頭に生きるわれわれにおいてをや。現在のわれわれが「コネがモノをいった」というような感覚で、以前の人々は「ネコがモノをいった」ことを信じていた。理性と非理性とのボーダー=不思議の国に棲むモノノケをモノにする根源的モノカキは、それを批判するのではなく、「まことこの世の中に存在するものと、見なければ気が済まぬという所に歴史がある」と信じた。
 多くの野の草が児童を名付親にしていたことを説く『野草雑記』などでも、柳田は、幼い人たちが〈ぜひとも……しなければ気がすまなかった〉というような書き方をしている。
 柳田のカキモノに学問的なものとは別種の満足を求めてしまいがちなわれわれは、読み終るたび、何か根源的な地平で、気が済んだ♀エ慨を覚える。それはまさしく、小児的な満足感に近い。「人間が泣くということの歴史。こんな頓狂な問題」について書かれた「涕泣史談」の中で柳田は、今日大人はいうまでもなく子供でさえ「泣くということが一種の表現手段であったのを、忘れかかっている」と語り、われわれに気が済むまで泣いた小児の頃に味わった感動としての慟哭を思い出させる。
「涕泣史談」は「歴史は私などの見るところでは、単なる記憶の学ではなくて、必ずまた反省の学でなければならぬのである」としめくくられる。反省は、われわれをどこやらへ遡行させる。ボルヘスが捜索した作家メナールがこだわった歴史の源泉にも重なるそのどこかは、どこにもないどこかというにひとしい曖昧な場所である。
たとえば「坂川彦左衛門」という一篇で、「拒み難き霊の力によって、身の恥になることをも語る」とされる物狂いをめぐって、柳田は「人が物狂いの言葉を謹み聴いて、単なる健康の故障とは視なかった以前の習わし」と書く。この「以前」がいったいどれくらい前の事なのか、明確にその歴史が記されることはまずない。それどころか、ごく普通の意味の歴史を問いただそうとする者をあらかじめ牽制するかのように、「歴史としてこれを研究しようとする人々は、多過ぎるほどいるにかかわらず、いつでも作者に寄り年代に別けて、似たような解説ばかりをくり返しているのは、誠に気の利かない分類法であった」とのたまう。
ここで「気の利かない分類法」とされているものと、先の「……と、見なければ気が済まぬという所に歴史がある」という断言は、〈何を〉ではなく〈いかに〉を重視する詩と真実の架橋法によって、どこにもないどこか、すなわちユートピアの地平で対峙するだろう。
柳田国男は、心に染まぬことは理解しないという小児の気が済む≠ワで、話を展開した。気が利かない大人の常識をやんわりしりぞけながら、柳田は、「これまで余程の廻り路をしなければ、遊びに行くことの出来なかった不思議の園」への入口をさし示す身ぶりをやめなかった。
われわれはその不思議の園への入口あたりで、カフカの超短篇「父の気がかり」に登場するモノノケ「オドラデク」を思わせる物深いモノに出逢うのである。廻り路をせず、よくよく眼をこらしつつ、変化がヘンカにとどまらず妖怪変化のヘンゲであることを見据えれば、柳田の文体の片隅の暗がりに、小児の心の化身ともいうべきザシキワラシに似たモノノケは容易にみつけられるはずだ。ただし、「先ずざっとこういう話をぽつぽつとしたのを、目を円くして彼等は聴いていた」(「対州の猪」)とある個所の「彼等」と同じ態度を保持すれば、の話である。
詳細な祖述はできないけれど、本書に収められた「旅二題」のような文章に、民俗学的な前提など何ひとつないまま接した無心の読者であればあるほど、驚きのため「目を円く」する度合いは高まるだろう。それは、文壇=文芸のお座敷に背を向けたザシキワラシ作家が書かずにはおれなかった「小さな話」のヘンゲ――特異な小説とよぶ他ないものである。
『遠野物語』で有名になったザシキワラシは東北地方のみに伝承される小児の姿をしたモノノケだが、われわれの知るところでは、富貴の家の奥座敷に棲みつく云々の話とは逆に――これにとり憑かれたものには衰滅が到来するとのいい伝えもある。われわれ好みのいい方で極言すれば、柳田国男にとり憑いたこのモノノケは、閑古鳥が「憂き我」である芭蕉をそうさせた如く、あらゆるお座敷を根源的に淋しくさせる――ザシキアラシと記してもよいような存在なのだ。詩人哲学者という柳田に敬遠されるおそれのある呼称をあらため、苦しまぎれにザシキワラシ作家などとよんだ所以である。
 
   3
 
「旅二題」のかわりに、「どら猫観察記」の物深いフィナーレを引いてみる。
「差当り自分の疑問としている点はもう述べ尽したと思うが、最後になお一つ附添えたいのは、日本の各地方の方言の不可解なる変化と一致とである。猫をヨモという県があり狐をヨモという県がある。鼠を「嫁が君」というのも、あるいはヨモの転訛かも知れぬ。雀をヨム鳥という処もある。南の方の島々、殊に沖縄においてはヨーモといえば猿である。言葉の感じはいずれも霊物または魔物というにあるらしいが確かでない。そうして琉球にはもうそのヨーモ猿はいないのである」。
「ある犬の探究」や「ヨゼフィーネという歌手、または、ねずみ族物語」、それに前生を猿として生きた者の講演「ある学士院への報告」といった興趣尽きぬカフカの動物寓話を愛読する私などは、右の一節に、「父の気がかり」の書き出し――「一説によるとオドラデクはスラヴ語だそうだ。ことばのかたちが証拠だという。別の説によるとドイツ語から派生したものであって、スラヴ語の影響を受けただけだという。どちらの説も頼りなさそうなのは、どちらが正しいというのでもないからだろう。だいいち、どちらの説に従っても意味がさっぱりわからない。もしオドラデクなどがこの世にいなければ、誰もこんなことに頭を痛めたりしないはずだ」(岩波文庫『カフカ短篇集』池内紀編訳)を重ねてしまったりするのだけれど、もちろん、柳田学をれっきとした学問として「勉強」する志をもつ者がきけば、あまりよろしくない意味で「目を円く」することだろう。移行、通路、一つのキレハシをあらわす〈パサージュ〉なるキーワードにユートピアへの架橋を夢見た思想家W・ベンヤミンは「フランツ・カフカ」の中で、オドラデクを「忘却された物たちがとる形態」だと喝破したが、私は柳田のいう「歴史の存在を無視せられていた者」をオドラデクの同類・仲間とみなしたいのである。
「どら猫観察記」フィナーレの直前には、まるで噺家のような口吻のオチ≠ェある。尻尾のない猫をめぐり柳田は、「これも日本の文化史において、相応に重要なる一史蹟であるかと思う」などと、いったん、おごそかな歴史家ふうのものいいをしたうえで、「狐飛脚の話」に顔を出す語をかりるなら「道化味」ある断定をおこなう。「外国人の珍しがる話としては、日本の猫には尾がないということだ。あってもなくてもよいという譬に、猫の尻尾の諺があると聴いて、舌を巻かなかった白人は稀なのである」と書いた後、「私の長話も実はこの猫の尻尾だ」と落すのである。
いやしくも日本の文化史の相応に重要なる一史蹟について語る者の話が、「あってもなくてもよい」とは! 学者研究者でなくとも、ヤレヤレのつぶやきが洩れ出るだろう。だが、小児の心の化身たるザシキワラシの幻影を見る者にとって、そのヤレヤレは近現代の意味――「疲労した時、またあきれはてた時などにいう語」から、たとえば『日葡辞書』にあるふうの――「安心したり深く感じたりした時にいう語」(『広辞苑』)に遡行せねば気が済まない≠フだ。なぜなら、柳田国男という根源的モノカキの、「日本の各地方の方言の不可解なる変化と一致」を見据えつづけたそのモノの見方が、一貫して、日本をめぐる「小さな真実」を告げしらしめるモノノケへの気づかいにみちていたことを知っているからである。
私はかつて柳田の「地名考説」を読んでいて、「近江甲賀郡などは元は鹿深野とも書き、カウガではなくカフカであるが、地理的状況から判断して、これも同じく古語の別種の表わしかたではなかったかと思う」というような一節に出くわした際、小児的にたわいもないヤレヤレを発し、「カウガではなくカフカである」と、「あってもなくてもよい」モノいいを繰り返したりした。そのカフカはあるノートに、――ハウスゴット(家の神)ほどすばらしいモノはない、と謎めいたことを書き記しているが、このハウスゴットが、オドラデクがそうであるように、世界の大宗教が語りあきぬ大いなる神と異質の、ささやかな謎めいたかそけき存在であることに、近代以降の文人で柳田ほど深い思いを寄せたものはいないとわれわれはみている。今ここで柳田の〈家の神〉をめぐる諸論考を精読するのはかなわぬことだが、日本の父たらんとした柳田国男の文業ににじんでいるものの正体をつかめずとも、それが物深い「父の気がかり」によって支えられていることだけは、どの一篇にもみてとれるのである。
「先生の学問」というエッセーで、折口信夫は、柳田が「随筆的喜びをもって書いた」と、その文業の本質を的確にのべたことがある。『孤猿随筆』と名づけられた本書の源流に、たとえば、柳田が親しんだ蕉風俳諧の一つの到達点とされる『猿蓑』、さらにはその芭蕉も愛読した『徒然草』のようなカキモノのポエジーが位置していることは明らかだ。「狐飛脚の話」に『徒然草』中の「土大根」のエピソードがさりげなく登場するが、その登場のさせ方一つからも、柳田が同書をいかに深いところで自家薬籠中のモノとしていたかが窺われる。「つれづれなるままに、日ぐらしすずりにむかひて、心にうつりゆくよしなしごとを、そこはかとなく書きつくれば、あやしうこそものぐるほしけれ」という序段に顔を出す「つれづれ」や「ものぐるほし」なども、柳田的に遡行したうえで受取り直しておく必要があるだろう。『孤猿随筆』において柳田が何度かふれている「物狂い」の形容詞化が「ものぐるほし」(物=魔性のモノに取り憑かれて正気を失っている)であるが、あらゆるモノカキが経験する――いや、経験しないでは気が済まぬ「ものぐるほし」いとは、実存の旅の道づれとして狂気を、振り分け荷物のように心身に帯びた状態だ。「つれづれ」をめぐっても、鬱屈や暇を含みながら、やはり『日葡辞書』が「徒然。または、徒然な」という表記であげているもっとも原始的な意味――「ひもじい」=満たされずに、何かを求めている切ない状態――を引き寄せておきたい。
柳田自身の文例を引けば、『野鳥雑記』所収の「初鳥のことなど」で、かつての家々の正月がいかに晴々と心の改まるものであったかについてふれた一節――「自分たちの年始状と初刷との中に、ごろんと寝ころんでいるような新年の、徒然なものであることに始めて心づくのである」。「方言は我々の眼前の事実」と説く『蝸牛考』の初版序にはやはり『徒然草』の人物への言及が見出されるが、さらにその中核部分の「東北と西南と」にこうある――「トゼンという語は徒然の音というよりほかに、別の起原を想像し得ないものだが、北九州ではやや弘い区域にわたって、これを単に退屈というだけでなく、淋しいまたは腹がへったという意味に用いて、トゼネエなどという形容詞が出来ている。南秋田の海近くの地においても、自分は直接にその同じ語の同じ意味に使われるのを耳にした」。
「単に退屈というだけでなく、淋しいまたは腹がへったという意味」の「徒然」が、「眼前の事実」として――芭蕉にとっての閑古鳥のように柳田の耳を衝ったこの現場にも、ザシキワ〔ア〕ラシ作家の生涯を呪縛した言葉というモノノケが躍動していたといっていいだろう。
多くの著作において柳田が常用した「原の力」探索の見地から、『徒然草』の兼好法師と柳田をつなぐ芭蕉の自画像についても瞥見しておきたい。岩波文庫『芭蕉俳文集』(堀切実編注)の上巻をひらくと、「閑居ノ箴」の冒頭部は「あら物ぐさの翁や」、これに呼応させたとおぼしき「あら物ぐるおしの翁や」や『徒然草』序段をふまえたものとわかる。
根源的に「淋しい」閑居者になきかける閑古鳥――に象徴されるモノノケに感応する物狂いの資質に恵まれた事実を柳田は自伝的文章で自らみとめている。『徒然草』第二百三十五段は、そうした物狂いの器について記された稀有な文である。主のいる家に何の関係もない人間が勝手気ままに入ってくることはない、と書きだされるそれは、通行人や狐や梟や木霊に棲みつかれてしまう主人のいない屋敷をめぐる記述の後、無常思想を反転させたうえで簡潔にいい切る――「虚空よく物を容る」と。鏡は色形がないからこそ一切の者が来て映るし、大空(虚空)は一切を包容する。ちょうどそれと同じようにわれわれ人間の心もまた主体がない状態であってはじめて様々な思いが自由にやってきて映るのであり、もし心に主があるならそう多くのことどもは入りこみはしないであろう。
兼好から芭蕉へ、そして柳田へとうけ継がれた多種多彩なモノを受け入れる心は広大なものというより、ケモノに関する話を聞くことに貪欲な好奇心をあらわにしないでは気が済まぬ童の無心に重なる〈小さな心〉と思われる。かかる主なき心映えの持主は、『徒然草』第七段にある通り、「世は定めなきこそいみじけれ」……この世は無常だからこそ妙味があり、もしそうでなければ「もののあはれもなからん」と感ずるイデーを共有する。つれづれは時にポジティヴに求められるべきモノでもあり、だからこそ第七十五段には「つれづれわぶる人は、いかなる心ならん」(つれづれの境遇を苦にする人は、どのような気持なのだろうか)とも書かれるのである。
折口信夫は先述のエッセーで、柳田学の基礎を「先生すら無駄読みをしたと思うていられたかも知れぬ文学書」だと断じたが、柳田国男の文業に、われわれは本源的なつれづれ(退屈)を、その満たされずに、何かを求めている切ない状態の背後に、兼好法師や芭蕉につらなる詩人として出発した柳田の詩と真実が封印されていると見て取る。『野辺のゆきゝ』と題された柳田の新体詩集の巻頭にある「夕ぐれに眼のさめし時」は、こうつづく。――「うたて此世はをぐらきを/何しにわれはさめつらむ、/いざ今いち度かへらばや、/うつくしかりし夢の世に、」。
この、メランコリックなメロディーは、われわれのみるところ、本人が封印したにもかかわらず、柳田の全生涯全文業の「をぐらき」片隅に、通奏低音として流れている。『孤猿随筆』にも読者はその音を聴取するだろう。
柳田は折にふれ、つれづれなる境遇の読者自身をして「いざ今いち度かへらばや、/うつくしかりし夢の世に、」とつぶやかしめる。たとえ「うつくしかりし夢の世」がユートピアの代名詞だとわかっていても、われわれは、疲労と落胆のヤレヤレを、「ヤレヤレメデタイ」(『日葡辞書』)とつかえるような夢の世をこい求めてやまない。
折口信夫の言葉をさらにかりるなら「学者ぶった事をするのは恥がましいという、謙虚な心持ちから」柳田学は「ヂレッタントだという風な形をとられた」。随筆の身辺雑記という外観をもつにもかかわらず、柳田的雑記の〈私性〉は〈われわれ〉のつれづれを満たす普遍的なユートピア=不思議の園への架橋を志向する。この性格は柳田学という名の〈エセー〉=〈試み〉の書全体にあてはまる。日本の文芸に深く浸透していた笑いの起源を探る、「涕泣史談」の姉妹篇ともいうべき「笑の本願」には、たとえばこんな不思議なモノいいが見出される――「文学の予言というものが我々にならばできる。私にできるとまでは無論言わぬが、試みることだけは許されている」。
柳田のいう「我々」と「私」の差異がどんなものなのか、ここで深く問うつもりはない。ただ、柳田的に「試みること」のささやかな実践として、当方も本稿において「われわれ」なる語を小児がおもちゃをふり廻すように使ってきた、とでも弁明しておけば気が済むのである。個と集団の理想のあり方について、本書が明確な答えを出しているわけではないけれど、群れを離れた孤猿や孤狼にふれる時の語り方に、民俗学的集団性から外れて久しい近現代人の孤独を重ねるような読み方――少なくともそれを「試みることだけは」われわれに許されているだろう。『野鳥雑記』所収の「村の鳥」には、こんな一節がある――「私たちはまた余りにも孤立的で、たった一人で出来もせぬことを考えているから、むだをするのである。天然も実は人類がその管理者だ。これから多くの習合の力で、計画してこれをもっと好いものに改めることにしなければならぬ」。
スペシャルな噺家がかもしだす道化味と淋しさがこもごもの『孤猿随筆』は、昭和十四年十二月に刊行された。太平洋戦争勃発の二年前だが、日中戦争の泥沼化一つとっても、すでに日本は「気がかり」だらけの状態に突き進んでいた。同年に発表された「坂川彦左衛門」には、こう書かれる。「今は幸いにして昔を粗末にしない世の中にはなっているが、それへ出て来るのはただかみしもを着たような人ばかりで、多数の純朴な者の心を捉えていた、悠々たる美しい夢は既に皆、こなごなに砕けてしまった後なのだから淋しい」。
霊によって「かみしもを着たような人」がどんな輩を指すのか、また、「多数の純朴な者」が、具体的にいつの時代の誰をいうのか、ほとんど明らかにはされていない。
にもかかわらず、われわれの気が済むのは、「あら物ぐさの翁や」「あら物ぐるおしの翁や」という芭蕉的自嘲に重なる「実は私の話は一段と楽しい」という口上と裏合わせの淋しさの背後に、日本近代における最も物深いドン・キホーテ的見果てぬ夢を見出すからであろう。
少なくともこの私などは、本書を何度か通読するうち、たとえば「松島の狐」のフィナーレで披露される――「小学校の休み日の日中に、宿直室に寝転んでいた人がふいと起きて見ると、窓の外に窓いっぱいの顔をした大猫が来てうずくまっていたという」柳田の子供ですら「笑って信じなかったほどの話」――後出の一篇「猫の島」で「窓一ぱいの猫の顔」として追記される「奇抜な新鮮味のある空想」を、素直に信じ受け入れる自分を見出して驚いたのだった。
(2011年3月 岩波書店刊〈文庫〉解説)

 







2015/05/31 13:36:03|幻塾庵てんでんこ
柳田国男小考 その1
岩波文庫『野草雑記・野鳥雑記』に寄せて
 

 
ノンセンスの如くに野草花咲けり
事典めくらず名は無きままに
 
    1
 
 柳田国男の類まれなる散文を前にするたび、想い出す言葉がある。
「この作品のどこにも、論理の仕組み、あるいは諸理念と素材との弁証法的な戦い、といったものは姿を現わしていない。ゲーテの散文は、演劇のパースペクティヴをもったものであり、思慮深い、習得された、創造的な思考構造に小声で耳打ちされた作品である。ゲーテにあっては事物や事柄がみずから語るのではなく、それらのものが言葉に至るには詩人を頼らねばならないのだ。それゆえにこの言語は、明瞭でありながらやはり控えめであり、澄みきっていてしかも目立つことはなく、極端なもののうちにあってなお如才ない。」
 以前に、W・ベンヤミンにまつわる文章を書いた折に作成したノートにも写されていた右の言葉を、私はてっきりベンヤミン自身のものと思い込んでしまったようで、今般、当方が拠ったちくま学芸文庫版『ベンヤミン・コレクション 2』(浅井健二郎編訳)所収の「ゲーテ」を確認したところ、誰やらの(前後関係からしてシラーか)著作からの引用文だった。
 のっけから曖昧な話になってしまったが、柳田国男の語り方に免じてゆるしてもらおうと思う。もともと外国語で書かれた著作を翻訳で受取るしかない凡庸な読書人であるわれわれにとって、翻訳文は常に誤読の危険と隣り合わせの難所を孕む。にもかかわらずわれわれは、どうせ誤読が避けられぬのなら、せめてそれが創造的誤読につながるものであってほしいと念じながら、隔靴掻痒の感を一種マゾヒスティックに愉しむ他ないなどと悲愴にして滑稽な決意に身をゆだねたりもする。
 ベンヤミンのゲーテ論の中にハリツケられた先の引用文は、ゲーテの代表的教養小説『ヴィルヘルム・マイスターの修業時代』に関するものだが、「論理の仕組み、あるいは諸理念と素材との弁証法的な戦い、といったようなもの」のような言葉づかいにさっそく難所を見出す思いのわれわれは、ここではただ、散文というルビ付きの語に眼をこらす。それが、「創造的な思考構造に小声で耳打ちされた」ものであるという一点にだ。

 ゲーテの散文において、事物や事柄がみずから語るのではなく、「それらのものが言葉に至るには詩人を頼らねばならない」――われわれの創造的誤読がこの一行にかかっている。ゲーテの根源的詩人性と匹敵しうる散文を書きえた柳田国男の言語は、「明瞭でありながらやはり控え目であり、澄みきっていてしかも目立つことはなく、極端なもののうちにあってなお如才ない」のである。
 今、われわれの前に置かれている『野草雑記・野鳥雑記』も、詩人頼みの言葉、つまりは詩的言語によってつづられた――「明瞭でありながらはやり控え目であり、澄みきっていてしかも目立つことはなく……」の特徴をもつ散文の典型だ、とまずはいっておく他ない。
 原語を確認できない身の上であるにもかかわらず、われわれは先の引文を韻文の如くに思いみなして舌頭に千転させたあげく、「……でありながらやはり」「……ていてしかも」「……のうちにあってなお」といった訳語に共通するイデーのようなものを深読みする。孤独よろしく誤読をおそれず、さらにたたみかけると、このイデーは、ゲーテを尊崇した西欧名うての文人たちをとらえた――〈ニモカカワラズというカカワリ方〉にゆき着くはずだ。柳田国男は、そのすぐれて世界文学思想的なカカワリ方をわれわれに教えてくれる、この国にあって稀有な存在である。
 一国民俗学という言葉に象徴される、一見閉じられた世界ニモカカワラズ、柳田の散文は、欠け端でありながらやはり……欠け橋を扱っていてしかも……欠け端のうちにあってなお……いつのまにか欠け端が架け橋に変化するかもしれぬという詩的な予感をわれわれに与えずにはおかない。野への限りない郷愁を誘う『野草雑記・野鳥雑記』のいたるところで、読者は控え目で澄みきった詩的予感の風に吹かれることになるだろう。
 たとえば「九州の鳥」に、こうある。
 「しかも自分などの驚いているのは、そういう思い思いの咄嗟の趣向かと思う昔話に、なお見遁し得ない共通の動機のようなものがあって、それが殆と日本の全国に一貫している事である。単に頑是ない聴衆の好奇心を充すためならば、入って行く必要もなかったろうと思う説明に入っていることである。これには何か隠れたる約束があるのではないか。即ち天然はむしろ各地の鳥の言葉を、ちがった聴きように誘おうとしているにかかわらず、歴史はいつも根強い暗示を以て、我々の解釈を一方に引付けているのではないか。」
 プラトンは、驚異の情こそ智を愛し求める者すなわち哲学するものの情だ(『テアイテトス』)と書き、その弟子アリストテレスも、驚く人は今も昔もまず哲学することを強いられる(『形而上学』)と書いた。出典を明記できないが、ゲーテはたしか詩篇において、驚くために私は存在する、とうたっているはずだ。
 哲学などという言葉をひきあいに出せば、柳田は苦笑するかもしれないが、しかしわれわれは日本の近・現代を通し、柳田ほど徹底した根源性・総合性をもって智を愛し求めたフィロソフィアの人≠見出すことはできないのである。詩人として出発した柳田は、シェイクスピア『ロミオとジュリエット』にいう「不幸に泣くものの甘いミルクとしての哲学」を苛烈に追い求めたニモカカワラズ、ハムレットのセリフ――「この天地のあいだには、人間の学問などの夢にも思いおよばぬことが、たくさんあるのだ」という「隠れたる約束」への驚きの念を、終始心に刻んで民俗学の畑を拓いたのだった。
「自分などの驚いているのは……」とはじまる先の一節にみられる柳田の驚きは、一見世界文学思想から遠く離れた、極東の列島内部の、しかも、月並みにしてありふれた鳥の昔話をめぐるものである。
 九州の鳥の言葉が、少しばかり東国とちがっているように思う柳田を友人の多くが「笑って信じなかった」とあるが、私なども、その友人の笑いと同種の感慨を初読時に抱かされた。ウグイスやホトトギスに代表される野鳥の世界について「土地土地の、彼らの方言が出来ているらしい」と推測をのべた後、ついには「鳥の言葉にも地理があり歴史があることは、我々はつとに家々の鶏においてこれを経験している」というほとんど断言に近い言い廻しに、独特のユーモアを看取しつつ、われわれは驚く。
 切れ端、欠け端として掲げた先の引用文が、いかに柳田的に物深い♂ヒけ橋たりうるかに、われわれはもっと驚かねばなるまいが、今はまず、「天然はむしろ各地の鳥の言葉をちがった聴きように誘おうとしているにかかわらず、歴史はいつも根強い暗示を以て、われわれの解釈を一方に引付けているのではないか」というくだりに顔を出す物深い℃タ存的接続辞――「にかかわらず」に注意しておく。
 
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 柳田の散文を特徴づける、ニモカカワラズという実存的接続辞が、なぜ物深い≠フか。そもそも「物深」とはいかなる状態を指す言葉なのかについて知りたい。数千年来の常民の習慣・俗信・俗説には隠された深い人間的意味があるはずとの信念によって編まれた『遠野物語』のオープニンブ部に「国内の山村にして遠野よりさらに物深き所にはまた無数の山神山人の伝説あるべし」と、そして『山の人生』にも「我々が空想で描いて見る世界よりも、隠れた現実の方が遥かに物深い」と登場するこの「物深」なる語を、いくつかの小さな国語辞典で引いてみたがのっていなかった。『広辞苑』によれば、「奥ふかい」「趣が深い、おくゆかしい」「縁故がふかい」の意だそうである。
 ついでに「奥行かし」に重なる「おくゆかしい」を『広辞苑』で引いておくと――「知りたい、見たい、聞きたい」「奥深くて慕わしい、深い心づかいがあって引きつけられる」。
 柳田国男は、日本民俗学という外観をもつ物深くおくゆかしい――控え目で澄みきった膨大な著作をわれわれに残した。どれも日本民俗学の創始者・確立者の名に恥じないが、驚くべきことに、その大半が、学問的な専門分化を嫌う身ぶりもあらわな、ジャンル不明の〈話〉の体裁をとっているものなのである。
 中野重治は、多岐に渉る柳田学について「学問の領域がその特殊性をきびしく保ったまま、文学の読者にも開放されていると思う」と語ったが、ここにも、「……でありながらやはり」「……ていてしかも」「……のうちにあってなお」といった実存的接続辞による表現と同質の、詩人を頼る散文≠ヨの驚きの念をみてとることができよう。
 表現されたものなどが単調で、気分の高揚やしみじみとして情感が感じられない……考え方が即物的で、高い精神性や現実からの飛躍がみられない様子を指す「散文的」なる日本語は、大方の国語辞典に「詩的」の反対語としてのっている。
 われわれが冒頭でふれたゲーテのプローザ(散文)は英語でprose、その形容詞形のprosaicは「ありのままの、率直な」の他に「単調な、平凡な、ありふれた、つまらない」の意もある。ドイツ語のprosaischもフランス語のprosaiqueもほぼ同意である。もしかしたら、日本語の「散文的」はこれらの翻訳語に由来するのかもしれない。
 急いで付け加えたいが、私のこうした談義は語学的関心にではなく、柳田のいう「思い思いの」言葉の背後にある「なお見通し得ない共通の動機のようなもの」に基づいている。
 「ありのままの、率直な」回想をすれば、四半世紀以上も前、本書や『蝸牛考』といった柳田の著作にちりばめられた種々の方言の変化についての言説にはじめて接した時、私はそこに「単調な、平凡な、つまらない」感じを抱かぬわけにはいかなかった。変化をヘンカではなく妖怪変化のヘンゲとみるような視座が案内する、ニモカカワラズの架け橋を渡り損ねたのであるという他ないが、しかし、私の受取り損ねは、柳田学に隠れ潜む本源的パラドックスと無縁ではなかったと今にして思うのである。
 「平凡と非凡」なる一篇で柳田は、自分は平凡人の歴史を専門に研究している者だと語る。おびただしい柳田学の著作におけるメイン・テーマともいうべきこうした宣言はたしかに、平凡人たるわれわれを悦ばせるものなのだけれど、平凡を追尋する柳田の散文が単調で平凡な地平にとどまることはただの一度もないのである。
 『野鳥雑記』所収の「須走から」の中で、「今度の旅行」で体験した「神秘」にふれ、柳田は、「これは既に散文の領域でない。私たちの役割に残されたものは何があるかと思うようだが、幸いに因縁があったからコカワラヒワの一些事を記録して置こう」というような語り方をする。われわれの視点から裏返せば、詩的な「因縁」があれば、「些事」をめぐる散文的記録も「神秘」に肉薄できる、となるのだけれど、ここで柳田が「私たちの」つまり民俗学を志向する者らの「役割」が「散文の領域」にあるとみなしていることを踏まえて、たとえば『野草雑記』の表題作に眼を転じると、次のような言い草――通常「言い種」の借字とされるこの日本語もなにやら柳田的だ――に出くわす。
「日本に佳い単語を増加して行こうという努力には、動植物学者もたしかに参与しているが、幸か不幸か彼等は散文家であるために、少しでも歌よみの苦労を察してくれない。どこの国でも学名は本名でないのだが、我邦では精細を旨とするの余り、二階三階を積重ね穴蔵をほり下げて、時には三十一文字と背競べをしようという長い名が作られている。」
 「どこの国でも学名は本名でないのだが……」という一行に、私はまた、ファーブル『昆虫記』の中の一章「幼年時代の思い出」のひとくだりを思いおこす――「こんな風にして語彙が生れて来たのだ。この語彙のお蔭で、他日私は野の舞台で踊る幾千もの俳優、道の縁で我々に微笑みかける幾千もの花に、その本名で挨拶出来るようになったのだ。別に何の気なしに助祭が口にした言葉は、私に一つの世界を、本名で呼ばれる草と動物の世界を示現してくれた。膨大な学名辞典をいくらか調べることは、いつかまたの日に譲って、今日のところはのびたきの思い出話をしておくことにしよう。(山田吉彦・林達夫訳、岩波文庫)
 『野草雑記』の表題作の初出は『短歌研究』昭和十一年四月である。前年に日本民俗学講習会を開催し、全国的な組織として「民間伝承の会」の設立と、機関誌『民間伝承』の刊行を決定といった年譜的事項を参照するまでもなく、還暦をすぎたこの時期の柳田は、動植物学者が散文家であるために歌よみの苦労を察してくれない、というような嘆きを共有する立場にはなかった。うたのわかれ=文学との決別は、もはや遠い青春の出来事だったはずだ。あるいは、『短歌研究』誌の読者に寄り添ったものいいをしたにすぎないのかもしれないが、われわれの驚きは、神秘を見据える真正の詩と、ある種の平凡と退屈さを見据える散文との間に柳田学が架け渡しつづけたニモカカワラズの虹の橋に向けられている。その虹の橋は、限りなく二律背反の外観を呈するのである。
 ゲーテが好んだ言葉を使えば、柳田学の二律背反は、終始生きいきした≠烽フだった。小林秀雄は「信ずることと知ること」の中で、「柳田さんには沢山の弟子があり、その学問の実証的方法は受継いだであろうが、このような柳田さんが持って生れた感受性を受継ぐわけには参らなかったであろう。それなら、柳田さんの学問には、柳田さんの死とともに死ななければならぬものがあったに違いない」と語っているが、欠け端を架け橋に変える――詩的言語を散文に接ぎ木させる柳田の生きいきした♀エ受性は、最晩年に「沢山の弟子」をつき離す行動に出た。長い歳月にわたり手塩にかけて作りあげた民俗学研究所を、八十二歳の折、一年後に解散または閉鎖することを決定し、そして八十五歳に至っては、「日本民俗学の頽廃を悲しむ」という題目の講演によって後進に抗議する行動に出たのである。この間の詳細な事情をわれわれは知らない。おそらく、〈親鸞は弟子一人も持たず候〉と同質の、虹のようにたわむ逆説的構造をもつ感受性がなさしめたものだったろう。
 縁故がふかい「奥」に行ってみたい、深い心づかいがあって引きつけられる――ソレを知りたい、見たい、聞きたい……が原意のオクユカシキ文人柳田国男を、私はゲンシ(原始・原詩)人などと命名したことがある。逆説のない思想家は情熱のない恋人のようなもの、といいはなった北欧のオクユカシキゲンシ人キルケゴールが想い出される。「奥」につながる「原」(柳田自身の言葉では「原の力」)への探究心の烈しさにおいて、柳田は、ゲーテやキルケゴールやベンヤミンやファーブルにまさるとも劣らぬゲンシ人だった。根源的な物深さに呪縛されたゲンシ人の失望・絶望を、民具という単なる物の収集が民俗学者の仕事だと信じて疑わぬような弟子たちが理解できなかったのも無理はない。生きいきした%律背反は、われわれのみるところ、柳田学が出発当初より抱えていた旅の道づれだった。
 
    3
 
 光り輝く逆説ともいうべき二律背反病をひきおこすモノノケは『野草雑記・野鳥雑記』でも、随所に出没する。注意深い読者はいたるところで「思慮深い、習得された、創造的な思考構造に小声で耳打ちされ」、「本名で呼ばれる草と動物の世界」が開示されるのを実感するだろう。
 たとえば『野草雑記』のオープニング「記念の言葉」で、「身の老い心の鎮まって行くとともに、久しく憶い出さなかった少年の日が蘇って来る」と語られるファーブル的な一節――「人も草取りを日課にする年になると、もはや少年の日の情愛を以てこの物に対することが出来ない」。この変化を「寂しい」と感じるニモカカワラズ、憂き我を寂しがらせよ、と閑古鳥(郭公)に向けてうたったオクユカシキ俳聖芭蕉を畏敬する柳田のペンはすぐに生きいきした%]位をとげる。「よい草いやな草」のもろもろについて「自身庭に降りて直接の交渉に当るまでは、眼の前にいながら丸で知らずにいた」――ゆえに、子どもでなくなったということもそう悪いものではない……「私は今も草取りによって少しずつ学んでいるのである」と。
 こうしたモノとの生きいきした「交渉」談義は、野草や野鳥、そして本書の姉妹編というべき『孤猿随筆』における、永い間われわれの友だちでありながら敵でもありつづけてきた――犬や猫を含む、近くて遠い、遠くて近い獣たちをめぐる話にもそのまま架橋される。
 芭蕉が呼びかけた閑古鳥すなわち郭公をめぐる『野鳥雑記』の表題作には、憂いある者はことにこの鳥の声に耳をそばだてざるをえなかった、とある。柳田が著作において「寂しい」と洩らす時は嫌悪の情や批判の意を込めていることも多いが、「嫌いという感情は不毛である。侮蔑の行く先は袋小路だ」という小林秀雄の言葉を引くまでもなく、モノとの生きいきした交渉につながる道は一義的な寂しさの奥にある。その奥行カシキ道は次のような文の中に隠れているだろう。
 「畠に耕す人々の、朝にはまだ蕾と見て通った雑草が、夕方には咲き切って蝶の来ているのを見出すように、時は幾かえりも同じ処を、眺めている者にのみ神秘を説くのであった。静かに聴いていると我々の雀の声は、毎日のように成長し変化して行く。ある日はけたたましい啼声を立てて、彼等の大事件を報じ合おうとしている。これが人間でいえば物語であって、集めまたは編纂して歴史となるべきものであろうが、あれを構成して行くめいめいの悩みと歓びとの交渉配合が、こんなに人生の片寄った一小部分であったことを、今までは頓と心付かずにいた。」
 昭和三年発表の『野鳥雑記』の表題作の「二」全文を引いてみた。
 このプルーストを思わせる一節にほんの少し顔を出すありふれた鳥の代表格の雀――柳田によれば、スズメという語は本来、小鳥の総称だそうである――は、『野鳥雑記』のトリをつとめる一篇だ。昭和初年にあって、ありふれた小鳥のシンボルである雀を野鳥にかぞえあげること自体稀有な視点だったのではと私などは思うが、最近の知見では、この十数年の間に、われわれの列島における愛すべき雀の数は激減しているという。この変化はただ一義的にわれわれを寂しくさせるが、そうした現代のわれわれに「談雀」は真のオクユカシサを伴った慈しみの情を与えてくれる。雀一羽一羽の貌を見分け、その啼声を聴き分けるゲンシ人は、「人間でいえば物語であって、集めまたは編纂して歴史となるべきもの」を夢想したあげく、ついにこう宣言するのだ――「立派に雀和辞典は活版になし得る」と。
 欠け端を架け橋に変えるゲンシ人の方法の柱に、〈何を〉ではなく〈いかに〉を重視するゲーテ的なモノの見方がある。〈何を〉を気にかけずにいるのはむずかしい。われわれもそうだが、にもかかわらず、〈いかに〉の視点でこの一節に、既出の「野草雑記」からの一節を重ねると、見事なまでに符合するモノが浮かび上ってくる。卑近なモノの代表格の野草のたたずまいや野鳥の啼き声の成長・変化といった欠け端に注意していれば、やがてそれが「歴史」に架橋される。われわれに要求されるのは、それを「学ぶ」というより、「今までは頓と心付かずにいた」というあの『徒然草』的語り方が暗示するふうの物深いありように「心付く」態度である。
 本書を手にとったわれわれは、柳田のいう動植物学者の「参与」による手引きがほしくなったりもするだろうけれど、オクユカシキ道に「心付く」態度にとってそれよりはるかに大切なのは、――「道は小鳥の翼の中、星の篝火の中、移りゆく季節の花の中に隠されている」(タゴール「道ができている場所では」山室静訳)といった詩的直観だ。この直観は、「膨大な学名辞典をいくらか調べることはいつかまたの日に譲って、今日のところは……」のような語り口を愛惜する。
 「詩の発展はすなわち無限であろうが、それは今少しく未知の自然の方に、眼を向けかえなければならぬように考えられる」(「野草雑記」)と、ゲーテの『形態学論集』の中にあってもおかしくないことをさらりといってのける柳田は、人間にややもすれば疎外され敵視もされる雑草タケニ草をめぐる物深い言い草――「しかしタケニ草の世もまた開けた。人と交渉する言葉は多くなり、それがまた追々と耳に快いものとなろうとしている。この落莫たる生活があわれを認められ、終に人間の詩の中に入って来るのも、そう遠い未来ではないように思われる」をもって『野草雑記』の表題作をしめくくる。
 はたして二十一世紀初頭の現在、「人間の詩の中に」この雑草が位置をしめるに至っているかどうかは問わずにおく。『野草雑記・野鳥雑記』は昭和十五年に、柳田自身の装丁によって世に出たものであるが、柳田が逝去した昭和三十七年の九月に初版が刊行された角川文庫版の解説に「抗議するすべも持たぬ野鳥や野草の生活は容赦なくふみにじられ、追いたてられて、間もなく地上から姿を消す運命にあるものも多いとききます。……もうすこし自然を愛し生命をいたわる心持を多くの人々が持たないと、二十年三十年の後には、日本の国土は大変なことになりそうな気がして来ます」(丸山久子)とある。だが現実に三十年以上の歳月が経過した現今の列島の惨状についてつぶさに語る資格を私はもちあわせていない。
 モノが真に生きいきとするキワミに現われるモノノアワレを感受できるゲンシ人だけが、無限の「詩の発展」と「未知の自然」探究との間に虹の橋を架ける、という信仰を共有する民俗学徒ではないわれわれ門外漢は、ほんとうにほんとうの物深さとモノノアワレを「知りたい、見たい、聞きたい」と念じるオクユカシイ思いの深さにかけて人後に落ちぬ、と申したてて柳田学に入門する。だが、ありふれた欠け端を歴史に架橋する力量をもたぬわれわれ平凡人が、ある種の鳥よろしく師父の常套的言い草を民草の一人となったつもりで真似れば、それは文字通りのお笑い草にしかならないのである。にもかかわらず『野草雑記・野鳥雑記』の中にわれわれは、いやこの私は、悲愴にして滑稽なくさぐさの慰みグサとなる言い草を見出して感動する。
 お笑い草が慰みグサにヘンゲする『徒然草』的一節を一つだけあげてみると、『野草雑記』オープニングの「記念の言葉」の――「おかしい経験は人とこの話をして見たいと思うのに、大抵の場合は草の名を知らない」。
 この言い草のオカシサに、われわれは、現代日本語の「変だ、いぶかしい、怪しい」の一義性に収まりきれぬニュアンスを感じとる。同じくだりに「思いがけぬ滑稽」とある通りの可笑しさを加えてもなお足りない気がする。モノノアワレと並ぶ日本語文学に貫流する情緒的アーキタイプの一つであるオカシ――「興をそそられる」という根源にさかのぼってはじめてわれわれの気が済む。野草や野鳥について人と話をしてみたいと願うにもかかわらず、その当のものの名を知らないのでどうすることもできない。このありふれた二律背反的もどかしさを共有する者は誰でも、根源的なオカシサに包まれるはずだ。
 『木綿以前の事』中の芭蕉を賛美した一節で、柳田は俳聖が「人生の片隅の寂しさをも、見落さなかった」と記すが、こうしたモノノアワレに通底する慰みグサに付きモノの「寂しさ」とわれわれが凡人として感じる一義的な寂しさとの間に、オカシサの場合同様、あえかな差異線を引いておく必要があろう。
 『源氏物語』「鈴虫」の巻で、光源氏が、月を見るといつも「物あはれ」を催すけれど、中でも今夜の新鮮に輝き出した月の景色にはいろいろなことが心に浮んでくると語るくだりがある。故人となったにつけいっそう恋しく思い出される柏木なる人物について、光源氏は「花・鳥の色にも音にも、思ひわきまへ、いふかひある方の、いと、うるさかりし物を」(花の色、鳥の音など、その情趣をめぐって、語りがいのある点が、じつに行き届き優れていた人でしたのに)と形容している。
 『野草雑記・野鳥雑記』の著者柳田は、われわれにとってまさしく「花・鳥の色にも音にも、思ひわきまへ、いふかひある方」である。光はまた、柏木亡きあとは、「おほやけ・わたくし、物の折節の匂ひ失せたる心地こそすれ」(公私ともにその催し事の風情が失せたような気がする)とも語っているが、柳田学こそは、皇室さえもそれに含まれると柳田が断言した日本常民の「おほやけ・わたくし、物の折節の匂ひ」を、われわれに思いおこさせる散文世界といっていいだろう。
 学問に背を向けた姿勢をそれとなく暗示させる「雑記」なる語にこもるオカシくもオクユカシイ「物あはれ」に注意しながら、「花鳥」にまつわる絵画を語った切れ端をまた引用してみる。『野鳥雑記』所収の「絵になる鳥」の、「私の話は前置きが長くて、本文はかえって僅かしかないが……」とはじまる一節。
 「即ち画は人間の美しいという尺度が定まって後に、それを自然にあてはめて合格したのを採ったものと、多くの歴史家は説明するのであるが、もう自分等はそれを信じなくてもよいと思った。夢で見たもの幻しで感動したことが、強く残っていなければ神の像は描かれぬ如く、かつてある日の物の哀れというものが、自然に我手を役してその面影を再現させようとしたのが、言わば我々の技芸の始であった。写生の真に迫るということは、恐らくは単に心の鏡の澄みきっていたことを意味する以上に、更にそれ自身の光というものがあって、特に力強くある物を照そうとした結果であろうと思った。鳥が人間の魂の兄弟であることを信じていた者は前代には多かった。」
 ニモカカワラズのカカワリ方を暗示する柳田の語り――「前置きが長くて、本文はかえって僅かしかない……」といったオカシク、アワレな語りにみちたあべこべ・逆さま祭に参画するわれわれ凡人は、あのベンヤミンの〈アウラ〉論を思わせるイデーへの理解は不可能だとあきらめるとしても、「写生の真に迫るということは、恐らくは単に心の鏡の澄みきっていたことを意味する以上に、更にそれ自身の光というものがあって……」という箇所の、「単に……する以上に、更に」の言い草をも、ニモカカワラズ性の一つとみなす。
 柳田学は、総じて、根源的なオカシサの探究に熱心だった。柳田自身が、バカやボクの源にあたるとされる中世日本語にいうオコ(烏滸)なる道化の語りを志向することさえあった。オカシサをさがし求めたにもかかわらずカナシク、アワレなその語りに宿るモノを、生きいきした二律背反とか光り輝く逆説とか形容した所以だ。
 もう自分等は、多くの歴史家をハジメとする学者の説明を信じなくてもよい……と、あさましくも口真似をするわれわれ「烏滸」なる者の末裔が、最も大切にしたいのは、「夢で見たもの幻しで感動したことが、強く残って」いるもの、すなわち「物の哀れ」を根底に据える技芸の始源にかえれという――「明瞭でありながらやはり控え目であり、澄みきっていてしかも目立つことはなく……」の特徴をもつゲンシ人の教えである。
 現代日本語のオカシサやカナシやアワレは、いずれも、人間の全円的な喜怒哀楽すなわち感動をあらわしえた「原の力」を失い、一義的な明瞭さをもつものになりはてている。柳田の散文が「明瞭でありながらやはり控え目」な印象を与えるのは、オカシとアワレが曖昧とさえいえる独特の仕方で統合されているところからやってくると思われる。柳田の文業をていねいにたどる読者は、オカシ・アワレ・カナシというような現代のありふれた重要語の用法が「原の力」からすれば、『野鳥雑記』表題作に記された――「片寄った一小部分であったことを、今までは頓と心付かずにいた」心持ちに一度ならず染まることだろう。
 柳田国男は、野草や野鳥のような身近な存在を通して、近・現代的な「一小部分」を「原の力」に架橋させるすべを、数多くの欠け端を架け橋にヘンゲさせる機縁を、風のようにわれわれに告知してやまない。だが、誰が風の姿を見たでしょうという高名な詩の切れ端も思い起こされる。柳田学がさし招く起源の風景には『徒然草』にいう「虚空」の風、おそらくはこの世のどこにも無いユートピアに特有の、控え目で澄みきった詩的な風、帰属する場所を持たぬまま諸ジャンルを横断する風が静かに流れている。
(2011年1月 岩波書店刊〈文庫〉解説)
 







2015/05/31 12:52:00|文芸誌てんでんこ
てんでんこ 第7号
「てんでんこ」第7号ができました


中味は……
 
 
句帖から……………………………………………………………………井口 時男
戦後文学と世界文学のあいだ――戦後文学の構造分析(最終回)
           ……………………………………………田中 和生 
春子 ………………………………………………………………………平田 詩織 

夏の子供 …………………………………………………………………村松 真理
光部美千代さんを悼む………………………………………………井口   時男 
ムカシトカゲ…………………………………………………………田中 さとみ


ヘマを踏む(1)………………………………………………………綱島 啓介 
『岩』の合唱(後半)…………………T・S・エリオット/佐藤 亨訳 
エセ物語 ……………………………………………………………エセ物語編纂人
 

てんでんこらむ     浅草のおなみ(寺田幹太)
            アリギリスの歌 
            草二本だけ生えてゐる(井口時男)
            小径(森禮子)
            七月堂って何屋さん?(知念明子)
            TORU写真館(佐藤亨)
            ニョロニョロ観察記(田中さとみ)

              分校の頃(渡部純夫)
            またたく(平田詩織)
            夕空晴れて(松川好孝)
            ヨミカキコリカ(綱島啓介)


*頒価1000円(送料込)




 







2015/04/25 15:27:13|幻塾庵てんでんこ
幻塾庵記 その7
カフカはミレナへの手紙の中で、こう書いた――「それにもかかわらずに感謝します。じかにこの血の中に入って来る呪文のような言葉です」

非A非Bという実存の態度と切りはなせぬニモカカワラズというかかわり方″は、現実的には、曖昧であるとの批判を免れえない。
ベンヤミン論の中で、H・アーレントは、〈こうした方法が「ある種の曖昧さの原因」にならざるをえないことも、かれには同様に明らかだった〉と書いた後、「翻訳者の使命」の次のような一行を引く。

「どの詩も読者のために書かれたものではなく、どの絵も鑑賞者のために描かれたものではなく、どの交響曲も聴衆のために作られたものではない〉

アーレントは、初期に書かれたこの文こそベンヤミンの文芸批評全体のモットーたりうつものとつけ加えている。これはダダイストふうの嘲弄ではなく、「思想の問題、特に言語学的性格の問題を論じ」たものであり、「ベンヤミンはのちにこうした神学的背景を放棄したが、その理論および引用文の形態で本質的なものに達するべく穿孔する方法を棄てはしなかった。この方法は穿孔することによって地底深く隠された水源から水を得るようなものである」(H・アーレント『暗い時代の人々』)

「儀式的祈祷の現代版」ともいいかえられるこの方法に肉薄するアーレントの文をさらに引用したい誘惑にかられるが、あえて中断する。

キルケゴール『反復』(枡田啓三郎訳)の青年はこう語る――〈まるで子供が父の着物を着ているのを見るとおかしくて笑わずにいられぬように、ぼく自身をあざわらいます。ぼくが読んだ恐るべきことがすでにぼくをうかがっているのではないか、病気の話を読んで病気にかかる人のように、ヨブ記を読んだために彼の運命を自分の上に招くことになるのではあるまいか、という不安がぼくを襲ってきます」

思想的天才たちが編んだテキストの断片を次々と「乞食」のように身にまとうわれわれもまた子供が大人の着物を着ている姿に似るだろう。

「……を読んだために」その運命を自分の上に招くことになるのではという不安――それは、夏炉冬扇のポエジーにとり憑かれた者が従事する見果てぬ夢の手仕事=「希望という手仕事」に伴う恍惚と裏合わせのものだ。

当時の作家の中で、ベンヤミンはプルーストについでカフカに対し「個人的親近感を強く感じていた」というベンヤミンの親友ショーレムの言葉を、アーレントは「それはまったく正しい」と断言し、カフカの作品理解で最も重要なのは「かれが失敗者であったこと」だというベンヤミンの手紙を引く。
……とまたしても、われわれの引用癖がぶりかえす。アーレントが引いたベンヤミンのゲーテ『親和力』論の一行を、われわれは小野小町画に賛を寄せる時の芭蕉の心で掲げ、われわれが近くヒラク(にもかかわらず)たちまちおヒラキになるであろう「友なきを友とする」幻の集まりに参加してくれるかもしれないマイノリティに贈る。

〈希望なき人々のためにのみ、われわれには希望が与えられている〉