カフカはミレナへの手紙の中で、こう書いた――「それにもかかわらずに感謝します。じかにこの血の中に入って来る呪文のような言葉です」
非A非Bという実存の態度と切りはなせぬニモカカワラズというかかわり方″は、現実的には、曖昧であるとの批判を免れえない。 ベンヤミン論の中で、H・アーレントは、〈こうした方法が「ある種の曖昧さの原因」にならざるをえないことも、かれには同様に明らかだった〉と書いた後、「翻訳者の使命」の次のような一行を引く。
「どの詩も読者のために書かれたものではなく、どの絵も鑑賞者のために描かれたものではなく、どの交響曲も聴衆のために作られたものではない〉
アーレントは、初期に書かれたこの文こそベンヤミンの文芸批評全体のモットーたりうつものとつけ加えている。これはダダイストふうの嘲弄ではなく、「思想の問題、特に言語学的性格の問題を論じ」たものであり、「ベンヤミンはのちにこうした神学的背景を放棄したが、その理論および引用文の形態で本質的なものに達するべく穿孔する方法を棄てはしなかった。この方法は穿孔することによって地底深く隠された水源から水を得るようなものである」(H・アーレント『暗い時代の人々』)
「儀式的祈祷の現代版」ともいいかえられるこの方法に肉薄するアーレントの文をさらに引用したい誘惑にかられるが、あえて中断する。
キルケゴール『反復』(枡田啓三郎訳)の青年はこう語る――〈まるで子供が父の着物を着ているのを見るとおかしくて笑わずにいられぬように、ぼく自身をあざわらいます。ぼくが読んだ恐るべきことがすでにぼくをうかがっているのではないか、病気の話を読んで病気にかかる人のように、ヨブ記を読んだために彼の運命を自分の上に招くことになるのではあるまいか、という不安がぼくを襲ってきます」
思想的天才たちが編んだテキストの断片を次々と「乞食」のように身にまとうわれわれもまた子供が大人の着物を着ている姿に似るだろう。
「……を読んだために」その運命を自分の上に招くことになるのではという不安――それは、夏炉冬扇のポエジーにとり憑かれた者が従事する見果てぬ夢の手仕事=「希望という手仕事」に伴う恍惚と裏合わせのものだ。
当時の作家の中で、ベンヤミンはプルーストについでカフカに対し「個人的親近感を強く感じていた」というベンヤミンの親友ショーレムの言葉を、アーレントは「それはまったく正しい」と断言し、カフカの作品理解で最も重要なのは「かれが失敗者であったこと」だというベンヤミンの手紙を引く。 ……とまたしても、われわれの引用癖がぶりかえす。アーレントが引いたベンヤミンのゲーテ『親和力』論の一行を、われわれは小野小町画に賛を寄せる時の芭蕉の心で掲げ、われわれが近くヒラク(にもかかわらず)たちまちおヒラキになるであろう「友なきを友とする」幻の集まりに参加してくれるかもしれないマイノリティに贈る。
〈希望なき人々のためにのみ、われわれには希望が与えられている〉 |