幻塾庵 てんでんこ

大磯の山陰にひっそり佇むてんでんこじむしょ。 てんでんこじむしょのささやかな文学活動を、幻塾庵てんでんこが担っています。
 
2015/04/15 12:37:36|幻塾庵てんでんこ
幻塾庵記 その1
幻塾庵主は、「瓢箪から駒」という事態が好きだ。

写し好きなので、手元の「福武国語辞典」をひらくと、「思いもかけない所から意外なものが現れることのたとえ。特に、冗談に言ったことが現実となることをいう」とあった。

幻塾生諸氏の課題文としたベンヤミンの「翻訳者の使命」を曲解して勝手にホンヤクすると、われわれのウワゴトと化している〈見果てぬ夢の〉ニュアンスが、この「瓢箪から駒」にほとんど重なる。特に、冗談が現実化するのを夢見るというところが……。

先だって、しづごころなく花が散りはじめたのと軌を一にして季節外れの雪がふった。幻住庵主の戯歌のかけら〈雪の降る日は寒くこそあれ、花のふる日は浮かれこそすれ〉の光景――が、オナジ日に重なって到来した感にうたれ、反復唱和せずにはおれなかった。

捨てはてた身にはあれど、瓢箪から駒が出るのを眼のあたりにして浮かれることはある。幾度もかき直された「幻住庵記」には、おそらく完成形はなかった。少なくとも、ここなる幻塾庵主の眼には、いずれの草稿も駒を出す変幻自在な瓢箪のように映る。

〈……このむとせむかしより、たびごころ常となりて、むさしのに草室もとく破り捨て、無庵を庵とし、無住を住とす。……〉

また別のところには、キルケゴールやカフカやベンヤミンのアフォリズムにもホンヤク可能と思われる次のような実存の標語が見出される。

〈友なきを友とし、貧しさを富めりとして……〉

われわれの見果てぬ夢の友は、この標語を共有する者に他ならないが、それを現実に求めるのは、ほとんど冗談としかいえぬ振舞いだろう。

その冗談が現実化した。「無庵を庵とし、無住を住とす」るわれわれの幻塾庵を現実に立ち上げるという知らせが舞い込んだ。

詳細は
http://tanakasan.blog.so-net.ne.jp/を参照されたい。







2015/04/06 12:35:22|雑記
公開講座のこと


11月に予定されている、文学塾てんでんこ公開講座の開催には、
予想に違わず様々な困難が生じつつあり、
自然消滅の四文字が点滅しはじめ……

どうなることか、と思っていたら、
<世界文学ゼミ>なるものが新たに開講されることになりました。
これぞ公開講座の発展型、ということで、お知らせしておきます。

詳細は 
http://tanakasan.blog.so-net.ne.jp/ に。







2015/04/01 12:08:45|幻塾庵てんでんこ
見果てぬ夢の…… その2
アフォリズム形式の文を愛惜したベンヤミンは、自らも、ゲーテ、ニーチェ、キルケゴール、カフカ等世界文学思想に永遠の輝きを放ちつづける箴言の名手たちに優るとも劣らぬ断章を残した。
念のため手元の「福武国語辞典」で「アフォリズム」を引くと、「深い人生観や体験的な真理などをいいきった断片的な短章」とある。

「深い人生観や体験的な真理などをいいきった」ものとは一見似て非なるベンヤミンの文の中でも、すでに引いた「一方通行路」は比類のないアウラを孕む、反復読書に値するアフォリズムである。

タイトルの「一方通行路」にどんな意図が託されているのか、例によってよくわからない。アフォリズムと言う形式がもつ、さらには一種のひとりよがり”性へのアイロニーがこめられたものなのだろうか。

キルケゴールの偽名著者による最初の大著『あれか、これか』(白水社版著作集1所収)の巻頭に位置する「ディアプサルマータ」は、筆者がはじめての出会い以来40年近い歳月にあって、文字通り読書百遍”を体験しえた最愛のアフォリズムである。その次に繰り返し読んできたのがF・カフカのノート群に含まれるもの(特に自撰アフォリズムや〈彼〉シリーズなど)だ。(新潮社版カフカ全集参照。てっとり早いものとして、吉田仙太郎編訳『夢・アフォリズム・詩』(平凡社ライブラリー)をあげておく。既述のサンチョ・パンサをめぐる真実考の断章も同書に収められている)

われわれの断章ふう板書がアフォリズムの名に値しないことは棚に上げたうえで、あえていわせてもらうなら、アフォリズムは、〈見果てぬ夢の……〉思念を吐露するのにふさわしい形式だと思う。

一方通行路ふうの道をつきすすむ一級のアフォリズムは、いたるところで「深い人生観や体験的な真理」とはたぶんにズレた、非俗性=トリヴィアリティの化身を目撃する。この卑俗さから目をそらさずに「真理」をのべるのに必須のものが「逆説」である。

学問は虚像であり、真理は逆説によってしかとらえられない、とキルケゴールはいいきった。逆説と無縁の思想家とは情熱のない恋人のようなものだ、と。

そこで(というこのツナガリもおかしいが)――先回、課題文としたベンヤミンの「翻訳者の使命」を思い出した。

といっても、晦渋な逆説にみちた一篇を詳細に読みほどきつつ講義するのは手に余るし、何よりわれわれの幻塾の黒板はその種の作業に重きをおいていない。

一方通行路を歩むつもりで、筆者はこの一篇を読み直した。三種の一方通行路を歩んだような気がするのは、「ベンヤミン・コレクション」A(ちくま学芸文庫)、岩波文庫版(野村修編訳ベンヤミンの仕事1所収)、晶文社版「ベンヤミン著作集6」所収(円子修平訳)――を、間をおかずに読みすすめたせいだろうか。

たちまち今回分の板書の気力が尽きた。できれば幻塾生諸氏は、同じ翻訳文を三度か、三種の翻訳文を一時にか、次回まで読んでおいてほしい。解釈するわけでもないのに、なぜ――? この一篇の中に、筆者がイメージする〈見果てぬ夢の〉言語が隠されているような気がするから、ととりあえず書いておく。







2015/03/26 12:33:19|幻塾庵てんでんこ
見果てぬ夢の……
人がほとんど出入りしないわれわれのヨミカキ塾が幽霊塾とか幻塾とかよばれて久しい。
特に後者の呼び名を好むある塾員の脳裡には、芭蕉の幻住庵のイメージが去来するという。

「もちろんおこがましいのですが、先人を範として見果てぬ夢を追うという構図は天才も凡才も同じですから、そのことはあまり気に病まぬほうが……」と慰めてくれた。

講師を兼ねるこの塾員が「日本語文学サイコーの達成」のサンプルとして寄贈された『芭蕉俳文集』(上下 堀切実編注 岩波文庫2006)をひらく。
筆者の愛唱句の一つとなっていた「なし得たり、風情つひに薦をかぶらんとは!」も本書の中にあった。ここでは、付箋のついた箇所(「幻住庵記」)のひとかけら
〈かくいへばとて、ひたぶるに閑寂をこのみ、山野に跡をかくさむとにはあらず。ただ病身人に倦で、世をいとひし人に似たり。何ぞや、法をも修せず、俗をもつとめず、いとわかき時よりよこざまにすける事侍りて、しばらく生涯のはかりごととさへなれば、終に此一すぢにつながれて、無能無才を恥るのみ。労じて功むなしく、たましゐつかれ、まゆをしかめて、初秋半に過行風景、朝暮の変化も、また是幻の栖なるべしと、やがて立出てさりぬ〉(上74ページ)

幻住庵記は世に三通あるとされる。ここに引いたのは、富山県下新川郡入善町米沢家蔵のものだが、最もよく知られるのは、芭蕉七部集の一つ『猿蓑』中に収められたそれだろう。
幾度も推敲を重ねて成った「芭蕉俳文中の最高峰を示すもの」の詳細については、編注者(堀切実)の労作を精読されたい。

板書した一節を味読するためにも、しばしの時間が必要だろう。
われわれの幻塾では、ベンヤミンが力説した断片性を尊ぶ。断片性は、必然的に、中間休止=ツェズーアをよびよせる。
「日々の生活をつらぬいて作業が続く、あの断章群に比べれば、完成した作品など、たいした重みをもたない」(「一方通行路」)というベンヤミン節を口ずさみながら「教師の権能」をもたぬ講師は、さっそくツェズーアする。

次回までに、幻塾生諸氏は、ベンヤミン的「断章群」の典型と思われる幻住庵記の全ヴァリアントに眼を通しておいてください。いや、できれば、ノートに書き写してほしい。

「書き写す」行為は、断片性と不可分のわれわれの必修の――文字通りエンドレスの行である。
その理由をめぐっても、ベンヤミン節の「書き写し」で――。

筆者は先の幻住庵記も含めベンヤミンのパッセージ全体をノートしたものをそのまま転写したかったが、どうやら手書きとこのブログなるもの(これに対するわれわれの信頼度は低い)の相性がよくないようなので、ここでは一篇のさらにひとくだりを引く。

〈……書き写されたテクストだけが、それに取り組む者の魂に号令をかけるのであり、それに対し、単なる読者は、自分の内面の新しい眺めを決して知ることがない。……〉(「一方通行路」『ベンヤミン・コレクション』Bより)

無くもがなのPS……できれば次回(はもう無いかもしれないが)まで、ベンヤミンの「翻訳者の使命」も精読していただきたい。

では、ほんとうに再見。


 







2015/03/14 14:13:02|幻塾庵てんでんこ
<見果てぬ夢の手仕事>をめぐる断章、再び
昨年の盛夏に長期休暇に入って以来、そのまま冬眠に突入したわれわれのヨミカキ塾。地中の虫たちも這い出る時節をすぎ、彼岸をむかえる今、誰もいない下ノ畑の黒板をみると、〈見果てぬ夢の……〉の字がまだ消えずに残っていた。
幻塾には中断がよく似合う?

板書したことを後悔しているわけでもないのだけれど、誰かが古めかしい黒板消しで消してくれているのでは……とぼんやり考えたりした。
現在、筆者は大まかに三種類のヨミカキ作業をおこなっている。トリヴィアルな作業。
trivial(取るに足りない、つまらない、当たり前の、平凡な)の原義は、トリ(三つの)ヴィア(道)だそうだ。なぜ三つの道=三叉路からこのようなふくみの語が生れたのかよくはわからないことにしておく。

先頃〈耳順〉の年齢に達した当方の三種の作業のうちの一つは、〈キルケゴール・パピーア〉のツメのアカをせんじてのむべくスタートしてまだ十年余りにしかならない日録を装った雑記で、大学ノートが100冊をこえた。二つ目は、やはり同じ頃にはじまったいつはてるともしれぬ長い虚構作品で、できれば死に至るまで作業がつづけばいいと願っている。

以上の二種のエンドレスの作業以外のものを三つ目に位置づけるしかないだろう。たとえばこの幻塾のそれなども。

『序文ばかり』という喜劇的精神にみちあふれた愉快な書をものしたキルケゴールは、一方でキリスト教的「講話」を数多く刊行しつづけた。その「小さい書物」は事実上、キリスト教の説教なのであるが、「教化的講話」と呼ばれて、教化のための講話と区別される。その理由は、「講話者が教師たることをけっして要求しないから」だという。
「ありのままのもの、つまり余計なもの、でありたいと願うだけであり、ひそかに出来上ったように、いつまでも隠れていてくれるように熱望するばかり……」と、「二つの教化的講話」(1843)にはある。

筆者は正直にいって、宗教にまつわる本をまともに読み通せたためしがない。まして「説教」の類となればどの宗教のものであっても困難は大きい。
制度的な説教と一線を画す、キルケゴールの「権能無し」の講話にも、難儀を覚えることしばしばである事実を隠そうとは思わない。

それにもかかわらず、かれの講話を筆者は〈トリ・ヴィア〉の一つと位置づけたあげく、長い歳月にわたって断片的に、あまりに断片的に受取り直してきた。

「講話者が教師たることをけっして要求しない」――われわれの幻塾においても、何者かに語りかけているにもかかわらず、語る者(発信する者)は、「余計なものでありたい」……語られた内容が「いつまでも隠れていてくれるように熱望」してやまない。この矛盾の背後に、われわれの〈見果てぬ夢……〉がある、と思われるのだが、まだ冬眠から完全にめざめておらず、〈再び〉の発声練習をこのあたりでとどめる。