アフォリズム形式の文を愛惜したベンヤミンは、自らも、ゲーテ、ニーチェ、キルケゴール、カフカ等世界文学思想に永遠の輝きを放ちつづける箴言の名手たちに優るとも劣らぬ断章を残した。 念のため手元の「福武国語辞典」で「アフォリズム」を引くと、「深い人生観や体験的な真理などをいいきった断片的な短章」とある。
「深い人生観や体験的な真理などをいいきった」ものとは一見似て非なるベンヤミンの文の中でも、すでに引いた「一方通行路」は比類のないアウラを孕む、反復読書に値するアフォリズムである。
タイトルの「一方通行路」にどんな意図が託されているのか、例によってよくわからない。アフォリズムと言う形式がもつ、さらには一種のひとりよがり”性へのアイロニーがこめられたものなのだろうか。
キルケゴールの偽名著者による最初の大著『あれか、これか』(白水社版著作集1所収)の巻頭に位置する「ディアプサルマータ」は、筆者がはじめての出会い以来40年近い歳月にあって、文字通り読書百遍”を体験しえた最愛のアフォリズムである。その次に繰り返し読んできたのがF・カフカのノート群に含まれるもの(特に自撰アフォリズムや〈彼〉シリーズなど)だ。(新潮社版カフカ全集参照。てっとり早いものとして、吉田仙太郎編訳『夢・アフォリズム・詩』(平凡社ライブラリー)をあげておく。既述のサンチョ・パンサをめぐる真実考の断章も同書に収められている)
われわれの断章ふう板書がアフォリズムの名に値しないことは棚に上げたうえで、あえていわせてもらうなら、アフォリズムは、〈見果てぬ夢の……〉思念を吐露するのにふさわしい形式だと思う。
一方通行路ふうの道をつきすすむ一級のアフォリズムは、いたるところで「深い人生観や体験的な真理」とはたぶんにズレた、非俗性=トリヴィアリティの化身を目撃する。この卑俗さから目をそらさずに「真理」をのべるのに必須のものが「逆説」である。
学問は虚像であり、真理は逆説によってしかとらえられない、とキルケゴールはいいきった。逆説と無縁の思想家とは情熱のない恋人のようなものだ、と。
そこで(というこのツナガリもおかしいが)――先回、課題文としたベンヤミンの「翻訳者の使命」を思い出した。
といっても、晦渋な逆説にみちた一篇を詳細に読みほどきつつ講義するのは手に余るし、何よりわれわれの幻塾の黒板はその種の作業に重きをおいていない。
一方通行路を歩むつもりで、筆者はこの一篇を読み直した。三種の一方通行路を歩んだような気がするのは、「ベンヤミン・コレクション」A(ちくま学芸文庫)、岩波文庫版(野村修編訳ベンヤミンの仕事1所収)、晶文社版「ベンヤミン著作集6」所収(円子修平訳)――を、間をおかずに読みすすめたせいだろうか。
たちまち今回分の板書の気力が尽きた。できれば幻塾生諸氏は、同じ翻訳文を三度か、三種の翻訳文を一時にか、次回まで読んでおいてほしい。解釈するわけでもないのに、なぜ――? この一篇の中に、筆者がイメージする〈見果てぬ夢の〉言語が隠されているような気がするから、ととりあえず書いておく。 |