幻塾庵 てんでんこ

大磯の山陰にひっそり佇むてんでんこじむしょ。 てんでんこじむしょのささやかな文学活動を、幻塾庵てんでんこが担っています。
 
2021/04/09 6:23:38|雑記
祝 練習生 3
 

静岡県川根本町のてんでんこ図書館から、「練習生3」が届いた
 
めでたくも、喜ばしい


 







2021/03/08 13:58:47|雑記
キルケゴールで読み解く21世紀
 


金子昭さんの「キルケゴールで読み解く21世紀」

全30回(2018年10月〜2021年3月)が、
 
キェルケゴール協会のホームページに掲載されました。
 
 


わが霊的な幻友も、スマホではなく、ガラケーだったとは!
ガラパゴス島みたいな反時代的なキルケゴール思想を牙城にして……独自の「進化」を遂げた我々は、シュヴァイッツァとか、キルコゲールとかいう他の地域には生息しない奇妙な生きものに(笑)……この絶海の「孤島」にあって、我々は「ひとりぼっち」ではない。


という一節が「ゲンテルセン通信スムーレ篇」9月6日9:27のメールにある。
ガラパゴス島のゾウガメ、ロンサムジョージなどを思い浮かべてのこと、と単純に受け止めていたが、金子さんの連載の第12回「『ひとりぼっちのテーマソング』単独者とは」を読んでのコメントでもあったことを知らされた。


http://www.tenri-u.ac.jp/topics/oyaken/q3tncs00001rj7hq-att/GT237-HP-page5.pdf


どんなに小さな文章でも、注文を受けたり、書こうと思い決めたりすると、頭の中のおんぼろコンピュータがカタカタと動き出してやまず、そうなってしまうと眠りの質は常以上に悪化して頭痛もひどくなり、食べ物の味もわからなくなってしまうのだった。

強い薬や高熱や頭痛で、脳内コンピュータも息切れしていただろうし、そもそもまともに物を読むこともできなかったのに、「ひとりぼっちのテーマソング」は脳内コンピュータに取り込まれて、このメールを生み出していたものらしい。

幾層にも塗りこめられた文章の〈漆塗り方式〉は最後まで保持されていた。

ひとりきりの病室の長い夜、カタカタと動く頭の中のコンピュータは子守歌になっていただろうか。

 







2021/03/04 13:37:00|雑記
大波小波 2021.3.1
 

3月1日の東京新聞夕刊に掲載されたコラム

 
「半僧半俗の文芸隠者」だなんて!
 
庵主の摩訶不思議な舞姿が思い起される







2021/02/04 0:00:08|雑記
立春
佐藤亨『北アイルランドを目撃する』(水声社):左
てんでんこ図書館「練習生2」:中
井口時男『金子兜太』(藤原書店):右


 
それでも、春はやってくる

じむしょにも、春の便り

「希望はある!」という呟きもエコーする






『北アイルランドを目撃する』に寄せた庵主の文章

 



正しく不安になるということ
――佐藤亨『北アイルランドを目撃する』に寄せて


 流行「外れ」となって久しい反時代的思想家キルケゴール(の操る偽名著者)は、『不安の概念』の最終章を、不安な気分の何たるかを知りたいと思って冒険の旅に出かけたグリム童話の若者のことから説きおこしている。その冒険家が旅先でどんなおそろしい目に会ったかについてはおあずけにしたうえで、キルケゴールの偽名著者はこうつづける――不安な気持ちになることを学ぶというのはあらゆる人間がくぐりぬけなければならない冒険であり、正しく不安になることを学んだものは、最高のものを学んだものである。

 グリム童話では「恐い思い(をさせられること)を知りたくて……」だが、キルケゴールの表現でははじめから「不安を学ぶ」となっている。この微妙な差異も胸にたたんで、私は佐藤亨の長い年月にわたる仕事について、思いの一端を語ってみたい。

 佐藤がアイルランド、ひいては「紛争」を抱えて苦しみつづける北アイルランドにそもそもどんな機縁でどっぷりとつかることになったかをめぐって詳細を知るためには、二〇〇五年刊の佐藤の著書『異邦のふるさと「アイルランド」』をひもとく必要があるが、ここでは紙幅の余裕もないので、「南をもとに形成されてきたこれまでのアイルランド像を問い直したい」(「はしがき」)というモチーフのみ引くにとどめる。

 この問い直しをキルケゴール思想でいいかえるなら〈受取り直し=反復〉となろう。牧歌的風景や素朴な生活といったアイルランドの光の部分に「北」の影を二重うつしにする〈反復〉の冒険において、佐藤が「旅の道づれ」としたのが、長年の付き合いで身体感覚ふうの操り方が可能となった――佐藤の偽名著者ともいうべきカメラである。

 木島始の訳詩集タイトルからかりたという異邦に「ふるさと」をみる旅は、佐藤亨をして冒頭にふれたグリム童話の若者に変身させたと私は推測する。そう、佐藤こそは「ゾッとする味を知りたいと思って」、ヨーロッパの「外れ」に出かけていった永遠の青年なのである。

 今度で三冊目になる北アイルランドの写文集のいたる所に見出される「恐ろしいもの」について考える時、私はいつだったか「なぜ北アイルランドなのか」という自問に、佐藤が「臆病だから」だといい、写真は「怖い場所」で獲た一種のエモノなのかもしれないと語ったことを思い出す。キルケゴールの偽名著者のいう「不安が深ければ深いほど人間は偉大なのである」を、写文集を眺めながらかみしめた所以である。

 グリムが用いたドイツ語 gruseln は「ゾッとする」意味だが、キルケゴールのいい方では、「不安を学ぶ」となっている一事を再度引き寄せたうえで、私は、世界に数多い危険な地域に出かけてゆくギリギリのスタンスを垣間見る。

『異邦のふるさと「アイルランド」』の終章で佐藤が言及したフロイトのホフマン論に顔を出すドイツ語ハイムリッヒ(秘密の、わが家のような、居心地のよい)は忘れ難い。フロイトによれば、同語はときにその反対語であるウンハイムリッヒ(不気味な、ゾッとする、不吉な、縁起の悪い)と同義になりうるというのだ。フロイトはグリムの辞典を引用しつつ、「故郷のような」ものが「秘密の、人目に隠されている」ものへと、さらに「無気味なもの」につながっていくことを例証したのだった。

 佐藤亨が、異郷の地で反復して正しく学んだ「ふるさと」の二重イメージがいかなるアウラにつつまれているか、読者は、本書がみちびく〈見ることは信じること〉の体験の中でありありと目撃するだろう。







2021/01/28 11:25:30|雑記
下郷便り
2020年2月にT.Sさんが撮られた下郷町志源行集落
雪のない冬で、ようやくうっすら積もった日
今年は大雪に埋もれてしまっているらしい




11月下旬に鬼怒川へ旅された帰り、会津が近いことに気づいて下郷へ回ってくださったというN・Aさんからお便りが届いた。
 

下郷の里の秋の燃えるような紅葉に言葉を失い、しばしたたずむと日が暮れていきました。

先生のお家の近くの神社で、そっとゲンテルセン通信の先生の言葉を唱えて、言葉のおみやげを置いてきました。

やがてやって来たバスの、行きと同じ運転手さんが、下郷の駅で電車が来るまで寒いからと、バスの車内で休ませてくださったのも良い思い出となりました。

平日のみ1日4便の戸赤行のバスで、行きは15時半に乗りましたが、中学生の送迎を兼ねているらしく、駅を出てすぐ中学校に寄ります。

バスは他にそれぞれ行先が異なる3便があって、20〜30人の中学生が待っていましたが、室井先生のお家方向のバスに乗車したのは、男の子1人でした。バス停を通りすぎて長い煙突のある家の前でバスが止まり、その子はその家に帰っていきました。

バスの運転手さんも学校の先生も、子供たちも、みんなが顔見知りで、もし風邪でもひけばすぐに知れわたってしまうとのこと。
そんな話を、懐かしい、室井先生と同じ会津弁で話してくださったのでした。

帰りの17時のバスには私一人しか乗っておらず、運転手さんが特別に廃校になった小学校分校跡へバスを止めてくれました(バスの本数が少ないので寄るのをあきらめていたのです)。真っ暗ではありましたが、校舎の影をながめ、扉に手をあてて、室井先生の昔を思うことができました。

 

四十年行き通った会津の情景が一気によみがえり、しばし時空をさまよいました。

庵主不在の、しかし遍在を感じる一年が閉じられる。