幻塾庵 てんでんこ

大磯の山陰にひっそり佇むてんでんこじむしょ。 てんでんこじむしょのささやかな文学活動を、幻塾庵てんでんこが担っています。
 
2021/06/09 4:50:51|庵主録録
庵主録録 その4
こゆるぎの浜 3.18 5:55


《1992年冬》
 
こんじょうがひんまがってしまうほどひどい偏頭痛におそわれてえんえんくらやみのなかでくるしみつづけている――そんなときにもモーツァルトオペラは天上の音楽としてひびいてくる。(モーツァルト)オ(ッ)ペラときたらたいしたもんだ。地獄篇を創る素地・素材。ほんとうの病気にかかれば、もちろんそんな事態さえありえない。地獄と地獄篇とはまるで異なるものだ。貧乏をたのしむという文学をかくことはできる、しかしたのしめる貧乏などは土台存在しえないのだ。
 
私は、あたかも、(比喩が十分でない――と、カフカふうにつぶやく)海を泳いでいたはずのイカがスルメの形で乾燥され、人の眼にふれる――ようなプロセスを経てしまっている。
山国育ちの人は、生イカがスルメの姿で海を泳いでいるとサッカクする。
スルメになった私に、生き生きした作品を提出しろというのは、スルメをつかってイカの刺身を作れというにひとしい。
 
「サボタージュ通信」「あんにゃ通信」「TOKИO通信」「さみなし通信」
洞穴暮らしに突入する前に、私はあわただしく通信記者に身をやつす事態をでっちあげた。『木霊集 雑録篇』なるこのノートもその一つだ。要するに、今、従軍記者たらんとする緊張が必要なのである。ただのレポーターではなく、凝縮と集中と選択、そして正確さが要求される従軍記者のような位置。
 
いつか、よどみなく書ける状態が、かりにきても、それはそれで、僕の場合、解放にはつながらないだろう。それはただ「商売人」になったアカシにすぎないのだから。僕のシジフォスぶりを思いおこす。詩量産時代の僕。俳句に絶句するまで二千句をよまなくてはならず、首をおとし、おとされる短歌の戦場で、定型の主体のいかがわしさを痛感するために、ただそのためにおびただしい和歌を、かの「ワカ」のように呻きこぼした歳月。そして、現代詩の‶ゆくところまでゆくんだ″という定型的前衛を制度の書法としてかくぎまんぶりにも、長い手続きをへて、愛想を‶つかされる″ことになった。
十ヶ国語の外国語レッスン時代の、あの、徒労ぶり。これからの散文修業のゆきつく先も、うすうすわかりかけている。
 
Sh.への、のめり込みがはじまる予感。それもオペラ憑きによって、みちびかれた地平。〈音のちからをみちびきとして、私達は進みます〉と『魔笛』の主人公たちは宣言している。私たちはコトダマの力にすがるしかなく、Sh.は〈外〉に位置する最愛の存在である。
私達は、そっと、しのび込む――ヨーロッパ文学の真髄へ。その舞踏会へ。
 
つねにコトバをひきずった音の世界であるオペラ。そして、美術的まなざしの現代的化身である映画。いずれもモダニズムの申し子である。〈私小説〉のリアリティを、これら二つのモダニズムの海中で泳がせる歳月。「人間、おもしろおかしく暮らすほかになにがある?」というハムレットのセリフもこの歳月にはゆるされよう。
外観としてはどうでもかまわぬ。ただ、やはり、「趣味のオペラ・映画」では、紙神への弁解にすらならない。
 
『源氏』も『ユリシーズ』も、遠い山脈のように、かすんでみえる。視力低下、体力一般の劣化。不二なる剣山霊峰がみえなくなり、手持ちの雑木山を売りにだして小銭にかえる僕。
突入するまえから、へきえきしている洞穴暮らしを少しでも快適(あるいは怪敵?)にするために、遠山への遥拝信仰だけはうしなってなるまい。これだけは何の資格もなしにつづけられることなのだから。
熱にとりつかれるのが一歩で、モーツァルト音楽がその最大のトリガーになった。もしもモーツァルトが神の子だとする宗教が在るのなら、すぐにでも入信すると確信――その磁場から、あらためて遠山を望見する。すると、「神の次に」多くを創造した文人Sh.が姿をあらわす。これも直接的快楽にみちているからムリしなくてもよい。しかし作品世界を愉しんだあと、山の中のエコーに耳をかたむける。
たとえば『ユリシーズ』のなかでなされるSh.論を読む。After God Shakespeare has created most.

 







2021/06/02 11:45:00|庵主録録
庵主録録 その3
こゆるぎの浜 3.24 5:47



《1992年秋〜冬》
 
身分を証明するものが無いために不便を生じている状態をあわれんで、F氏が、忙しい中、毎日、かりてきて僕に又がししてくれた映像群。
 
1992年11月24日@「生れてはみたけれど」(小津安二郎・昭7)
     11月25日A「赤西蛎太」(伊丹万作・昭11)
           B「狂った果実」(中平康・昭31)
              11月26日C「東京物語」(小津・昭28)
           D「カルメン故郷に帰る」(木下恵介・昭26)
              12月2日E「二十四の瞳」(木下・昭30)
          F「おとうと」(市川崑・昭35)
              12月8日G「日本の夜と霧」(大島渚・昭35)
          H「けんかえれじい」(鈴木清順・昭45)
              12月9日I「キューポラのある街」(浦山桐郎・昭37)
          J「にっぽん昆虫記(今村昌平・昭38)
              12月10日K「裸の島」(新藤兼人・昭38)
           L「ゆきゆきて神軍」(原一男・昭62)
 
そして12月11日には自ら所蔵のビデオ6本を貸してくれた。正月明けに返せばよいという。
 
M「人情紙風船」(山中貞男・昭12)
N「悲しき口笛」(家城巳代治・昭24)
O「青い山脈」(今井正・昭24)
P「早春」(小津・昭31)
Q「女中っこ」(田坂倶隆・昭30)
R「下町の太陽」(山田洋二・昭38)
 
番号を付したのは、氏がこの順番で視るべしと強調したからである。オペラとともに、映像作品にこれほど集中してのめり込んだ経験は、はじめてのことだ。これは事件である。めざめである。これまで高をくくっていたものに、「今頃になって」衝撃をあびせられる極私的ルネッサンス。まず、あのクールなF氏が、これほど「熱中」して僕を、このイナカの田吾作を「教育」しようとした事件の意味。僕も、これをいいことに、「ショックで、書く気が無くなった」などと宣言して、小説から逃げる。
 
MからRまでの〈大衆もたのしめる作品〉の古くて新しいテーマ。
ショックで、本当にカナシバリ状態になり、不眠の原因にもつながったLのルポ。
Fの質の高さはヨーロッパ作品にもじゅうぶんキッコウしうる。
Aのモダニズムの驚異の表出。
C今さら何をいうまでもないとしても、何かいわずにおれぬ雅度の高さ。小津はいったそうな……〈じぶんは豆腐屋監督だからトンカツはとても作れそうになく、できるのはせいぜいガンモドキくらいのものだ〉と。日本人が畳にすわった目線に合わせたロー・アングルに静かに淡々とこだわりつづけた情熱を、『木霊集』モドキにも我田引熱せねばなるまい。
ともあれ、F氏に感謝、F氏の背後霊に深謝。ピエール・メナールにすべては一任だとしても、それ以前に前近代的なふろしき包みのなかみに「感動」するという原始人的単純さが在らねば何事もはじまらない。このなかみさえ在ればあとはメナールがぜんぶやってくれる。
 
38歳をむかえる日の前後、長い長い風邪による病臥。シンボル。正月そうそう、F氏の信じ難い親切。映画学校、さらに半年間の延長。「仕事のつきあい」に終始するつもりだったのが、いつのまにやら、かれの顔が、「あんにゃ」に映ってしまう。ふしぎなカタチのミイラ取りが、また、ここに一つ。誰が、何が、ミイラなのか、すらもわからなくなりつつあるが。とにかく、どんな形のものでも、‶熱っぽさ″の風景は悪くないのだ。そのすぐとなりに感動がひかえているのだから。

 







2021/05/26 11:34:25|庵主録録
庵主録録 その2



《1992年夏〜》
 
この夏にマスターした精米機械作動法。七月に参加した古式ワラ屋根ふき儀式。このようにして、カラダが丈夫なうち、一つ一つ、祖霊をなぐさめる行為″をつみ重ねられればよいと思う。どんなちいさなものでもよいのだ。たとえばこの次は、母の指導による切り干し大根製作、といったように。
水田コース(メインコース)にばかり気がとられて、畑作コースはどうしてもなおざりになりがちだ。そしてそれはシンボリックなことでもある。小説中心意識=米作り中心主義。
雑穀のよさを見直し、大麦、小麦、カラス麦も作り、ソバもまき、野草も収穫するという態度。わたしの祖霊のその基本態度が規範である。
 
終日オペラ。日々、オペラばかり……。これしかないといったような溺れぶり。無趣味男にしては珍しい現象。ジョイスの狂い気が痛いほど。ついには、四囲の雑音も、低い低いオペラ・アリアにきこえてくる病理に転落するしまつ。
 
オペラ狂い。病膏肓。オペラとアルコールにいかれたジョイスのキモチが体でわかる、血でわかる。
痛風の危険信号ありとの診断がくだって以来、アルコールは遠のく傾向。そのぶんオペラへののめり方がひどい。飯もくえない分際でという声もきこえてくるが、かまわず、antをわらいとばすgrasshopper意気さかんなり。
 
世界史と同じようにわたしの歴史にも古代・中世があり、そして何事かの‶めざめ″の時期がある。今は、ルネサンス時代なのだ、わたしの歴史の。官能的実証主義の嵐。シュトルム・ウント・ドランク。わたしの貧しい歴史舞台においてもモーツァルトが登場する。一方、わたしのなかの民衆も、日銭とりにあえぐ。これらふたつは矛盾することなくわたしの中で同時進行する。日々の音楽と日々のパン。グラスホッパーとアントの共存。
 
書かなければ、眼が良い映像や文学作品を視すぎて耳がすぐれたオペラを聴きすぎて……あるいは情欲がオカシな生理をまきおこしすぎて――ビョーキになるだろう。私はそのために、病気にならないために書く。
書けばスイミン薬も効かなくなるほど覚醒する――つまり書くことはいかんともしがたい覚醒剤だが、しかし先の意味ではやはりトランキライザー、ヨクセイ剤なのである
内面と外面――のような構造の書くこと。仕事であり、快楽でありゆううつのタネであり、病気のモトでありクスリであり、火付犯人であり消防隊員であるこの書き魔!
 
クリスチャンが聖書をひらくように、ときおり手にとってどこでもよいから一ページをみつめる、すると心が洗われる。カフカの「手紙」や「日記」は僕にとって、そうした数少ない書でありつづけている。
 
ノートを書く意味はおそらく一つしかない。たとえ雑録であってもこういうものを書きつづけるには、不断に孤独が創られなければならぬというそのこと。
 
僕がこれから、何を書こうと、そして、書けなくなろうと、僕のペンにはピエール・メナールという作家がすみついているということ、これだけは動かし難い。おそらく、僕がゼロのちからを思いしったとき、細菌のように僕の中に入り込んできた魔の作家なのであるが、僕が操作する「登場人物」の中で、もっとも支配しにくい存在である。この作家は、J・ジョイスよりおそろしい。
 
〈この正月が越せる資金を出してやろう〉と師父に本気で言ってもらえたこともメナール的にうれしい。洋書店で、ジョイスとパウンドの書簡集で高くて手が出せなかったものをぜんぶ買ってくれたこともとびあがるほど(二重三重に)うれしい。

 







2021/05/19 6:20:19|庵主録録
庵主録録
こゆるぎの浜 3.19 5:58



庵主の日録には、「執行猶予」「終末亭日録」「野簿」などとタイトルが付されていたりする。
2019年2月までの、最後の14冊は「残生記」。
 
変調の何か月か前に、本人が落ち着き先を決めていたので、いずれ手放すことになる150〜160冊の大学ノートを開けば、庵主の姿が立ちあらわれ、声が響いてくるに違いないと思うと、なかなか近づけずにいたが、ようやく手にとれそうな気もしてきた。
 
手元にあるうちに抄録でも作ってみようかと着手したものの、全文書写ふうになって断念。
何の役に立つでもないが、折にふれ心のままに抄出してみることにした。

 
 
《1992年夏〜秋》

多和田葉子女史の短篇「光とゼラチンのライプチヒ」なるワープロ草稿をくり返して読む。めずらしい事件。素直にファン心理におちることなどまずありえぬことである。才能はキモチのいいものだ。巨きな存在になるたしかな予感。単行本に収録しても、とH氏に伝えようと思うなどと、いわゆる日記ふう記述をしてしまったほどおどろいた事件であったことよ(という詠嘆)
こういう作家に心からブラボーと拍手・声援をおくりつつ、さてこの貧男は、さらに貧しい道をセンタクしようと手ぐすねひいて″岐道に待ちうけている紙神を追わんとしている。わが紙神は王道ではなく岐道、八岐の園道に塞神・道祖神の如く待っている。その巨きな予感だけが、病気になるまえの心細い不安のように在る。
 
さらにノートを改名。「木霊集 雑録篇」。私は生涯にわたって一冊の空大″なる書物をかく。
 
多和田氏の草稿「ライプチヒ」はなんとドイツ語で発表されたもののよし。ますますもってインテレサント! 彼女をなんとかわが国の文壇″にオシダス方途を担当編集者氏としんけんにギロンした本日はじつに心地よい日であった、と日付のある文もかきしるしたくなるほどだが、内面の私はそれとまったくかんけいなくよろこばしい気ウツともいうべき境におちている。
 
多和田氏が文壇的地位を得られるように私もまじめに戦略を練ったりする。そのことにイツワリはない。しかし、私は、話者のマルセルと書き手のマルセルのように分裂している。そして分裂する私は逆説的に正しい。政治的にうごく私とH氏から遠く離れんとする私が健在でありますように。
 
声が聴えてくる磁場創りだけはまじめにやった。これからは、ようやっとかすかにきこえてくるようになった声に忠実であること。注意していないと、雑音にかき消されてしまう。
 
ボーダーといえばきこえはいいが、世間的にはどっちつかずの場所である。三十代の歳月を費して私がやったことは積極的にこのどっちつかずのボーダイライン引き係をつとめたことにつきる。詩も批評も小説もみごとにどっちつかずのハンパボーダーにはまった。第一回ボーダー文学賞をみずからさずけよう。はじめから文壇小説家たらんとすることも前衛作家たらんとすることもヨロシクない。正統的な職人作家の稽古おこたりなく歳月をサラリーマンのようにすごしているうちに、気づいてみるとあらゆるワクグミの外に位置していたというあり方が理想である。
それにしてもこうしたヤセタ方法論をかきしるすときにだけイキイキしているこの男の救いがたさ。
泰山鳴動ネズミ一匹みたいなこの男の作品。
 
H氏よりきいた多和田氏のボーダー的位置。日本語とドイツ語との境界で、どっちつかずになってしまうのでは、とのH氏の危惧。私は、コーフンしながらきいた。おそらく生涯、この島国の内部にひりついていくしかない者には、まったくうらやましい限りのボーダー戦を演じている多和田氏。衣食住の表面的国際化のサル芝居を演じることにもアキてしまっているこの国に、こういう作家があらわれたということ自体、ブラボーをさけんでいい。H氏とともにこの作家の援護射撃をせいいっぱいやりたいと思う。
だが、この私は、あいもかわらず、詩と批評と物語の、三叉の共通ボーダーで、ウズに呑まれておぼれつつある。
 

 







2021/04/10 6:41:09|雑記
図書紹介『柳田国男の話』


金子昭さんの「キルケゴールで読み解く21世紀」は、12回目までがじむしょに届いている。
初回からのものを整理していたら、3回目の号(2018年12月発行)の図書紹介で、『柳田国男の話』(東海教育研究所 2014年)を取り上げておられるのを見つけた。
これも何かの促しかと思われ、ここに採録する。

 


 お座敷ワラシ列車に乗って、スイッチバックを繰り返し、柳田国男の世界を行きつ戻りつしていこう。そういう当方は、柳田民俗学の田畑を耕す小作人の柳田耕作。別名柳田吾作(やなぎ・たごさく)、またの名をスミッコワラシとも言う。おっと、これはいけない。本書を通じて柳田民俗学の世界に分け入るつもりが、本書の著者の室井ワールドのほうに入り込んでしまいそうだ。そこで再びスイッチバック、柳田民俗学の停車場に「そ」を聞きにいくべく、奥ゆかしき旅にもう一度出発しなおさなければ。いや、これではもっといけない。文体まで室井光広流になってしまった。

 でも、せっかくだから読者もこの際、単独者ならぬ耽読者になって、お座敷ワラシ列車の一乗客(スミッコワラシ)として便乗させてもらうのも悪くはない。そうすれば、長閑な列車にガタゴトと揺られながら、本書の36の章(駅)に各駅停車しては、当地の景色をあれこれと楽しみ、気に入れば途中下車して散策することができる。「今ハ山中、今ハ浜」、そして気がついたら、あっという間に最終駅の「柳多留」。柳田国男の樽酒を一杯飲んで、ほうと声が出て、もう一度気に入った頁を繰り直す。宇宙を天翔ける銀河鉄道のような爽快さはないが、近代百年の急斜面を上り下りの柳田耕作列車もまた面白い。今のご時世、こんなスペシャルな旅はなかなか出来ないものだ。

 室井ワールドにはまると(まさに耽読者)、こちらまでそのタマシイが乗り移ってしまいそうである。それだけ室井光広の語りは独特なものだが、本書の魅力は何と言っても、柳田国男を世界文学レベルの饗宴において語り、その中で彼の著作を読み解こうとするところにある。第1章「極私的民俗学入門」から第36章「柳多留」まで、柳田民俗学が単独で論じられる章は一つもなく、世界文学、日本文学、他の民俗学の有りようとも交錯させながら、その特質を浮かび上がらせようとする。

 世界文学で取り上げられるのは、モンテーニュ、セルバンテス、ゲーテ、キルケゴール、カフカ、プルースト、ボルヘスといった人々だ。日本文学で引き合いに出されるのは、石川啄木、宮沢賢治、太宰治、寺山修司といった「東北思想詩人」たちである。民俗学者では、折口信夫と宮本常一が主な比較対象となっている。こうした人々との星座的位置関係(コンステレーション)の中で、柳田国男の姿はどう現れてくるだろうか。

 問題が雲をつかむような場合、よく補助線を引いて考えよということが言われるが、柳田国男という巨人を理解しようとするとき、室井はこれらの錚々たる学問芸術の巨人を縦横無尽に引いてくる。そのため、補助線がからまりあってますます混沌としてしまう。しかし不思議なことに、そうしていくと実はますます柳田の巨大な姿が浮かび上がってくるという仕掛けになっている。室井自身、この姿を「『共同の飲食』を伴う全人間的な魂のシュンポシオンのための巨大な酒樽――柳田国男樽」(350頁)に喩えたのだった(この柳田国男樽こそ「柳多留」なのである)。

 私は、本書『柳田国男の話』を2回通読した。1回目は読書の楽しみとして、2回目はこの「図書紹介」を書くために。それでいよいよもって思ったのは、私がもう十数年以上も前に青森市のR堂古書店で格安(たしか
2万円もしなかったように思う)で購入したまま、積読状態になっている筑摩書房の『定本柳田國男集』全31巻及び別巻をきちんと読み直してみたい、ということだった。そうすれば柳田自身の作品こそ、世界文学の魂のシュンポシオン(饗宴)とは何なのかを理解する最大の補助線になるのではないか。

 室井の柳田国男論を読んで、再度柳田を読み直す幾つかのポイントに気が付いた。そこから2点だけ書いておく。1点目は、上記『定本』の総索引によれば、柳田がその膨大な著作群の中で、「ふるさと」という言葉を一度も使っていないことである(故郷という文字は使用している)。これは意外なことではないだろうか。

 我々は、日本人の魂のふるさとの原風景を知ろうと、『遠野物語』や『山の人生』『海上の道』などを繙くのであるが、そこには「ふるさと」なる語はどこにも姿を現わさない。どこにも現れない「ふるさと」の心象風景が、実は柳田民俗学における文字通りのユートピア(どこにもない場所)的世界であり、それだからこそ柳田が文学的ともいえる書き方で彼の民俗学を形作っていったのである。

 しかし、それは文学的と言い切るにしては、柳田の文体の「低い」調子が気になるところである。これが2点目。室井はそこにも着目して、本書の中で繰り返しこの点を指摘している。柳田国男に世界文学思想レベルの強度をもし認めるとしたら、実はその「低い」調子こそ肝心要の点なのだ。この強度は、「声高で硬質の主義主張から限りなく遠く離れた、柳の枝の如くしなやかにたわむ柔らかく低いトーンをもつ文体の強靭さ」(241頁)にほかならない。

 柳田国男の文体の強靭さは、モンテーニュ、ボルヘス、プルーストの散文に通じる「エセー」のそれである。ここでいうエセーとは、書物経由の「空想」を一つ一つねばり強く現実と照応させる振る舞いとしての「試み(エセー)」を指す(245頁)。そうした視座から、「『すべてがわかった』という気にさせるあらゆる通念を根源的に疑うデカルト的懐疑を日本学に徹底させた日本近代最大最良のユマニストが柳田国男だ」(243頁)という室井流柳田論の輪郭が現われてくるのである。

 なお、この柳田国男論では、読者は途中(第13章「身捨つるほどの祖国はありや」)から、未曾有の大災害「3.11」の大きな影が差してくることにも気が付くであろう。このあたりから議論もぐっと深化してくるようにも思われる。

 これに関連して最後に付記すれば、この3.11をはさんで相次いで刊行された柳田国男著『野草雑記・野鳥雑記』『孤猿随筆』(いずれも岩波文庫)の解説も、室井光広の筆になるものである。あわせてお勧めしたい。