幻塾庵 てんでんこ

大磯の山陰にひっそり佇むてんでんこじむしょ。 てんでんこじむしょのささやかな文学活動を、幻塾庵てんでんこが担っています。
 
2020/12/31 15:02:12|雑記
逆説へのしなやかな感性
 
「現代詩手帖」10月号に
『詩記列伝序説』『多和田葉子ノート』の書評が掲載されました

 

逆説へのしなやかな感性                 須藤岳史

 
『詩記列伝序説』は室井光広氏が〈読者教〉の教祖と呼ぶボルヘスよろしく、読むことの喜びについて語った書で、本誌連載が元となっている。著者が長年親しんだボルヘス、ベンヤミン、キルケゴールらの言葉を拠り所に、カフカ、シェイクスピア、粕谷栄市らの言葉を引用し「読みの世界劇場」を披露する。

「読みの世界劇場」は、たんにグローバルな文学を指して使われる「世界文学」とは一線を画す。著者は世界中の文学の星座を見出すことにとどまらず、そこに「極私的・場当たり的、そしてローカル」という要素を加え、時代や場所を超越し、通常は出会うはずのない言葉を時にはオリジナルの文脈からも切り離し、縦横無尽に引用する。異なる書き手の言葉の呼応が横同士をつなぐ星座だとすると、「極私的」なひらめきと「ローカル」な身体性はある種の「深み」であり、星座と深みが一体となったとき、ひとつの思考の伽藍が姿を現す。

「読み」の世界においてローカルな身体性を解放することは、様々な言語で書かれた世界の言葉と自分自身を一直線につなぐ技術だ。そして、著者に倣って言葉の音による「転じ」で遊ぶならば、「読む」(ヨム)ことは、古今東西の言葉を「呼ぶ」(ヨブ)ことであり、また、ヨミは過去の書き手が住まう黄泉にも通じる。そう考えると、「読みの世界劇場」の役者たちは者たちは「ヨム」ことにより命を吹き込まれ、今ここに呼ばれた言葉たちであり、演目は「詩情」であり、著者はその座長だ。室井座の公演はこういうふうに続く。


「少なくない公刊著作をはるかに上まわる分量の日誌を含む「パピーア」を遺したキルケゴールを、当方は特異な〈ノート作家〉の元祖とみなしてきた。その非商業系文業の志を受け継いだのがカフカであるが、今試みに英語の note を少しずらして、カフカが使用したドイツ語で、Not 作家と表記すれば、当方好みの重層的なイメージが広がる。ドイツ語の Not はキルケゴールのデンマーク語で nød、英語で need を指す。この英語が「必要」を意味するのは広く知られているが、同時に「貧窮、困苦、難局、緊急事態」を孕むのはドイツ語、デンマーク語と同じだ。「心配、不安、心労」があるゆえに「保護、世話、介護」が必要になる含みの care と似ている。〈ノート作家〉とは、つまり「苦難」に対処する「必要」のために著作活動を営む者のことである」

 室井氏はこんな大胆な「極私的」な転じをもって、様々な言葉をユーモアあふれる作法でつなぎ合わせる。この文体は、第三者が簡単に引用できてしまうキメ言葉やアフォリズムを必要としない。それは、かつてボルヘスがあんじたように生が「一行に要約されてしまうこと」を回避したかったためではないか? というのは筆者の極私的な読みである。


『多和田葉子ノート』は室井氏がドイツ語で詩人・作家を意味する「ディヒター」と呼び、敬愛する二十年来の友人・多和田葉子氏への手紙のような本だ。本書には、著者が「誰に頼まれたわけでもなく」書いた多和田葉子論のノートを中心に、書評、対談の様子などが収められている。

「多和田葉子の〈詩という仕事〉のほとんどが、様々な種類の「交差点」でなされたとわれわれはみているのだけれど」と指摘する室井氏もまた、多和田氏の作品を私的な「交差点」で読み解く。その交差点には柳田国男、ベンヤミンをはじめとし、「忘れさられた物のとるべきかたち」としてのオドラデク、郷里の方言である「オンゾコネ」やら「カカシのレキシ」までもが乱入し、室井座長による私的で詩的な多和田文学の世界劇場の辻公演を盛り上げる。

「この二つの言い方は、蝶番によってつながっている。「もう」いつでも――と、「まだ」。この領域には、掛詞や縁語や枕詞や対句のように「あはれ」で「をかし」い蝶が飛びかっているのではあるまいか」という言葉からも見てとれるように、中間領域とでもいうべき「交差点」に溢れているのは蝶に喩えられた「詩情」とでも呼ぶべきものだ。室井氏はこの蝶たちを捕まえて固定することなく自由に飛びまわらさせ、ただただ蝶の乱舞を見ることを楽しむ。手折ることなく桜を眺めるように、あるいはブレイクよろしく、喜びに縛りつけられることがないように。この読みの技術こそが「原則誰でもなれるはず」の〈読者教〉信者がもつべき資格である「逆説へのしなやかな感受性のアンテナ」(『詩記列伝序説』)のように思う。あるがままに受け入れること、矛盾を恐れないこと、偶然の出会いを慈しむこと。

『詩記列伝序説』と『多和田葉子ノート』は惜しくも室井氏の遺著となってしまった。しかし、この二冊に遺著につきものの重苦しさはなく、むしろ〈読者教〉信者としての〈読み〉の軽やかな喜びと驚きに溢れている。そして、本に纏められた室井氏の極私的で極詩的な思考の軌跡は、いつまでも僕たちを惹きつけ、導きつづけるだろう。最後に、室井氏の文章のイメージを代弁するかのような言葉を引用しておく。

「ミズスマシっていう虫がいるでしょう。あれがぼくの好きなイメージ。柳田国男も書いているけど、ツツーツツーって動いて、圧がかかっていないように見える、ああいう移動の仕方というか、文章。軽い言葉が舞っているんじゃなくて、ちゃんと実質的なことを言いながらミズスマシのように移動する。ミズスマシって言葉の響きもいい。ぼくは古い人間なので詩的な言葉というのは、結局は美しくなくちゃいけないっていうのがある。心が澄んでくるというかね」



*『多和田葉子ノート』『詩記列伝序説』を枕に眠っているのは、
メゾソプラノの声楽家、山口尚子さん宅をとりしきる桃太郎くん。







2020/10/19 6:16:38|雑記
「てんでんこ」 室井光広追悼号と「練習生」
 

秋が勢いよく深まって

寒冷地出自(?)の身に喜ばしい季節になったともいうが、

日々の業務は暑くても寒くても同じ

邪魔が入らない限りは眠り続ける
 
突然モノが降ってくればこんな顔になるのは当然のこと!







2020/10/05 5:20:00|オッキリのように
オッキリのように T


奥会津作家協会から2001年に刊行された「河岸段丘」第六号に掲載された「オッキリのように あるいは縁側での対話」は、室井光広が「独り同人誌時代の精神にたち帰り、自らの発願によって書いた」エッセイである。
「てんでんこ」室井光広追悼号に角田伊一氏が寄せた文章「オッキリの人、室井光広」に言及があり、ここに全文を載せる。
「てんでんこ」室井光広追悼号では「驚愕の数珠」(長内芳子)でもこのエッセイが引用されている。



 
 
オッキリのように あるいは縁側での対話



 著作家の看板を掲げて十年余りになるが、それ以前からの短からぬ歳月にわたり、私は独り同人誌をやっていた。といっても、本誌『河岸段丘』の主宰者角田伊一氏のような労苦を体験したのではなく、またいわゆる個人誌の発行者だったわけでもない。

 要するに、発表を意図せぬ多ジャンルの文を非在の同人誌にせっせと書きつづけていただけのことである。

 モノカキを志向するモノ心がついた時、私の中には幾人かの同人がいた。創作する男すなわち作男”が文芸ジャンルを代表する数ほどに増え、互いに対話してやまなかったのだ。

 創作畑は大きく韻文(詩・短歌・俳句)と散文(批評・小説)に分かれた。棟割長屋状の作男部屋を詩人・歌人・俳人・批評家・小説家が棲み分け、作業を競い合う年月が少なくとも十年はつづいただろう。独奏者が集まって即興的にジャズを演奏するジャム・セッションのような競演を愉しんだのだけれど、一方でジャンル間の安易な越境を批判的に視る作男も私の中にはいた。

 膨大な詩歌句の五分の一、いや十分の一ほどを幾年もかけて精選し、私家版の韻文集『漆の歴史――The history of japan』をまとめた時点で、作男は〈うたのわかれ〉を宣言した。しかしもちろん「原詩=ウルシ」掻き仕事でしぼり集めたモノをひっさげて散文の畑へ身を投じた後も、散文VS韻文の間の溝を凝視する対話的思考はつづいた。

 散文畑での耕作においてはフィクションVSノンフィクションというもう一つの縁(エン・ヘリ・エニシ・ユカリ・ヨスガ・フチ)をめぐる対話がよりいっそう複雑多様なものとなって、現在に至っている。
 
 
 
 VSなる記号は、訴訟や競技などで「向き合った」状態を指す英語   versus の略だ。原告「対」被告、海軍「対」陸軍といった用い方からもわかるように対峙し対決するイメージが強い言葉である。語源的には、畑の畝、およびそこを耕す人が向きをかえることに由来するという。
 
 畑の畝の端と端に立って向い合う――そこから対峙するVSが生れたのかどうか確かではないけれど、そういえば韻文を指す英語は verse だ。私の勝手な語源学でも、畑と詩は強い縁の糸でむすばれている。畑の畝こそは、詩の行にそっくりではないか。
 
 この国を例にとるなら、田んぼは種々の意味で――あえて大げさな表現をすれば存在論的に散文のありように似ている。田という字は、条坊制のアミの目のように視える。隅々まで植えつけられた言葉の苗は、整合性を誇る。余白があるにはあるが、畑の畝と畝との間の溝とはたたずまいが違う。行と行間に起伏がないため、いわゆる〈行間を読む〉のが至難となる。
 
 ……と、抽象的・文学的にすぎるイメージを並べてみたが、私自身の実感に即しても、ナツカシサの点で、畑は田んぼをはるかにしのぐ。畑が縄文時代までさかのぼる圧倒的に古い起源をもつ存在だからであろう。
 
 英語のカルチャー(文化・教養)はもともと耕作もしくは栽培を意味する言葉だった。また種々のジャンルで用いられるフィールドワークの第一義は畑(野良)仕事である。「耕作する人、種をまく人のように、知恵を育て、忍耐強くよい実りを待て」と旧約聖書にはある。
 
 われわれが何げなく口にする言葉の使い方に根源的存在はあらわになる。たとえば、選挙で、ある候補者や政党への投票が大量に期待できる地域を田地に見立てる「票田」、また、米の収穫量ひいては俸禄をあらわす「石高」――こうした言葉の中に、金になりそうもない畑仕事のイメージと正反対のコクダカ(経済効率)至上主義=売れれば官軍式の考え方をみてとるのはたやすい。
 
 一方、畑という言葉の使い方はどうか。「入社以来ずっと技術畑を歩いてきた……」「営業畑が長かったので突然の異動命令に面くらった」云々。畑=フィールドが生をいとなむ固有の領域をあらわす人生論的な、つまりは原詩的言葉として今も息づいていることがわかるのである。「畑」も「畠」もじつは漢字ではなくいわゆる「国字」だという。その理由の一端がこうした使い方の中に潜んでいる気がする。







2020/10/05 5:15:00|オッキリのように
オッキリのように U

 
 
オッキリのように あるいは縁側での対話



 畑の畝にも似たナツカシキ文、行間に原詩=ウルシをにじませた対話的思考のサンプルを紹介しておきたいと思い、作男はここに縁辺という名のペンを取った。

 私の郷里では耕すことを「うなう」という。おそらく「畝」と有縁の音であろう。うねうねとつづく畝をつくること、それが畑仕事だ。独り同人誌をうなって”いた男にふさわしい集いの名称――これを縁辺クラブと名づけよう。

 古い大和言葉でエンペンは主に婚姻による親族をあらわす。キリシタン版『日葡辞書』にも「エンペンヲムスブ」という用例が載っている。しかし、ここなるルンペンが代表幹事(?)をつとめるエンペンクラブは狭い意味での地縁・血縁を超脱した――うねうねとつづく魂の畝をむすぶネットワークを夢見る。このペンクラブは、必要とあらば大いなる死者に記念講演を依頼したりもする。故人と根源的縁故関係を結ぶことをよろこぶのである。

 さてこのほど、複数の同人から成る作男の独断と偏見により、奥会津縁辺クラブ賞なるものを出すことになった。非在の同人たちの合同審査の結果であるから、当然ながら賞金も賞状も式もない。受賞者は二人いる。一人は本誌主宰の角田伊一氏、もう一人は故遠藤太禅老師。本稿はその受賞理由にもなるはずである。

 私は、奥会津地方には入れてもらえないことも多い南会津の下郷町出身だが、長いこと文字通り奥の深いディープ会津”に魂のワラジを脱ぎたいものだと願っていた。魂のワラジは魂の縁側でしか脱げない。通り一遍の観光旅行や講演旅行でこのエニシサイドを見出すのは至難のワザだ。

私が角田伊一氏を知ったのは『君はギフチョウの園を見たか――蝶に魅せられた或る男の人生』(第五十回福島県文学賞受賞『県文学集』45=50周年記念特集号及び『河岸段丘』第三号所収)というノンフィクション作品によってである。おこがましくも審査員の一人として読み、たちまち角田氏の繰りだす文の捕虫網にとり込まれた虫と化したのだった。

 私は今でもこの作品から受けた感動と衝撃を忘れていない。農林高校卒業後、会津の山野を白いリンゴの花で埋めたいという夢を抱いた氏は、当時青森県にあった東北農業試験場園芸部に入って果樹病理昆虫学を修めた。帰郷後、1.5ヘクタールのリンゴ園を開設し、同時にチョウ類の採集や飼育に熱中する……とは氏自身によるプロフィールの一節だが、この「同時に」というところに、感動を誘う「悩み」のVS畑が潜み隠れていた。

 商品としてのリンゴに傷をつける害虫を駆除すべく、氏はリンゴ園の一角に研究室”を設置する。後年、野火に類焼して姿を消すまで、このフィールドが氏の「安住の地」「蝶類研究のメッカ」となるのであるが、当初は「同時に」の悩み――「食うか食われるか」というイノチの瀬戸際を実感させられる究極のVS畑に立った者にしか訪れない葛藤に呪縛される。

 VS畑の縁=ナワバリで、真の対話をうながされた決定的瞬間を描写したくだりを端折って引いておこう。
 
 或る朝、いつものように剪定鋸などの道具類を取りに、番小屋に足を踏み込んだ私は一瞬息を呑み棒立ちになった。窓辺から差し込む早春のやわらかな陽光の中を敏捷に飛び回っているシジミチョウの大集団を目にしたからである。見れば奥の日当りの好い研究室の窓辺にも忙しく飛び跳ねている同じ蝶の姿があった。
 ……私の手にしている蝶はギフチョウと同じく、早春一度だけ姿を現すコツバメという名の可憐で美しいシジミチョウであった。……
 コツバメは同じバラ科のノイバラよりリンゴの方がよっぽど美味しかったに相違なく、突如奥会津の山中に咲き出したリンゴの花に全員集合したため、私の果樹園が大きな被害を蒙ってしまったのであろう。
 何のことはない、被害の元凶は蝶ではなく、彼女たちの食文化を破綻せしめたこの私自身だったのである!
 かの奇妙な幼虫の身元が判明した今は、東北農試で学んだ知識と技術をもってすれば防御は可能であり、幼虫を壊滅させることも困難ではなかった。
 しかし、それはこの可憐な蝶を滅ぼす行為でもあり、食うか食われるか、そんな非情な闘いをしてまで果樹園経営を続ける必要があるだろうか?
 私は、この時ふと、疑義を覚えたのである。

 かくして氏は転位する。それは単なる中絶や転向ではない。ほとんど宗教的な回心に近いものだった。〈立つ瀬ありやなしや〉の対話的思考をつきつめたあげく、ぎりぎりの縁で、氏は「害虫の命を尊厳した結果」果樹園経営を放棄し、蝶と大の仲良しになってしまう。まさしく蝶にしかできないメタモルフォーゼ(変態)をとげたのだ。害虫が取りも直さず美の女神の使いに変身するとは!

 ファーブルをもちだすまでもなく、われわれ人間が昆虫に学ぶべきことは多い。昆虫は霊長類などよりもはるかに優れた生存バランス感覚の持ち主なのだと第一線の生物学者もいっている。

「たかが虫けら、されど虫けら」と題したエッセイ(奥会津書房『自然からの伝言』所収)の中で、角田氏は書く。「昆虫は『地球の耕耘機』であり、地力維持の根源なのである。……地球の緑化を維持しているのは、実は虫であることを再認識していただきたい」と。

 氏の提唱する昆虫民俗学に私は多大の興味を抱くが、それは学術論文の形ではうまく表現できない性質のモノのようだ。事実、氏はそれを小説の中にとかし込もうと努力してきたのである。

 私が氏と縁辺をむすぶに至った最大の理由は、フィクションとノンフィクションの境界(氏の言葉をかりれば「学術、文学の結界」)を見きわめる作業の中に対話的思考のための研究室”を設置するモノカキ同士=同志をみてとったことによる。

 氏の昆虫民俗学はアカデミズムとは一線を画すVSフィールドで生れた。果樹病理昆虫学と苛烈に対峙する磁場において誕生した。たとえ論文の形で大成されずとも、私にはそれだけで十分に衝撃的なのである。
 


 







2020/10/05 5:10:00|オッキリのように
オッキリのように V


オッキリのように あるいは縁側での対話


 モノカキ同士=同志として、私は虫愛づる男――角田氏と出遭った。出遭いの場は、縁(エン・ヘリ・エニシ・ユカリ・ヨスガ・フチ)なるところというしかない。特殊な縁側での対話は生きいきとつづけられてきたが、すでにのべたように、時には縁の下の力持ち”すなわち死者の声に耳を澄ましながらおこなう必要がある。〈生〉にもまして〈死〉こそは、微妙な絆で私たちをしばしば捉える(ボードレール『悪の華』)。

 縁の下の畑では死者が耕作をつづけている。その微妙なうなり声にわれわれは鼓舞される。三島町の古刹西隆寺の故住職遠藤太禅のカキモノこそは、縁の下の力”の何たるかを如実に告げ知らせてくれる存在だ。

 私は故意にモノカキとかカキモノとか表記したが、これらの言葉にいうモノとはいったい何か。特異な縁の下=下の畑から湧き出る声を鋭敏にキャッチする真のモノカキが見据えるモノは単なる物=タダモノではありえない。

 原日本言のモノが、言葉(例――モノが言えない……)や、道理・筋道・理由(モノのよくわかる人……)の他に、威力・効力(コネがモノをいう……)、そしてさらに人間の精神生活を支配する、人間以上の不可思議な存在(モノに取り憑かれる……)を指すことは、小さな国語辞典にものっている。

 歌人馬場あき子の著作『鬼の研究』(ちくま文庫)には適切な定義が記されている。「はっきりとは目にも手にも触れ得ない底深い存在感としての力であり、きわめて感覚的に感受されている実体である。畏るべきものであり、慎むべき不安でもあった根元の力を〈もの〉とよんでいるのである」。深層心理に眠る原始的な不安や畏怖感にみちびき出された幻影をめぐって、歌人は鬼の探求をおこなったのであるが、このモノはかつてモノノケともよばれた存在と通じる。

 私の定義では、モノカキのモノもまた同種の存在なのだ。モノカキとはすなわち原詩(ウルシ)カキ、根元を描く者のことである。仏教の世界での成仏をモノカキにあっては成物と表記してかまわぬと私は考えている。成物とは(ホン)モノに成る、もしくは(ホン)モノにすることを指す。

 単なる物であると同時に言葉や精霊でもあるような根元のモノを見据えるモノカキは昆虫のそれにも似た特殊な複眼をもたねばならない。

 ある西欧の文人は「私は信ずる……私の魂を。大事な物のように」と書いた。稀有の詩人学者折口信夫は、よるべない魂を〈もの〉であるとした。VSの畑で角田氏が出遭いを果した虫の変幻=蝶は、よるべない魂を封じ込めた「根元の力」の象徴なのではなかったろうか。

 角田氏が注視する虫を、私はやはりムシと表記してみる。私のコトダマ学にあって、ムシはモノと同様の変幻の言葉だ。といっても、これまた難しい語源学の話ではなく、ごく普通の国語辞典にある程度のムシ談義にすぎない。

 角田氏と対話する縁側で、私は遠藤太禅なる故人のカキモノに出遭った。当然、生前の老師を知らないわけだが、にもかかわらず、私はいわばムシ(無私)の世界でこの生活詩人の人柄をしのぶことができた。その理由を問われれば、ただ合縁奇縁”もしくはムシが好いた”からと答える他ないだろう。

 ムシが知らせる、とは何かがおこりそうな予感をあらわす言葉として今も多くの人が用いる。この場合のムシはずばり潜在意識のことで、深層心理に眠るモノと縁戚関係にあると私は考えている。

 ある考えや感情を起すモトになるもの――この場合の用例は「ふさぎのムシ」。また、あることに熱中する人を指すムシ――「本のムシ」など――も身近だ。古くから人々は、心の中に考えや感情をひきおこすムシがいると考えていたらしい。ふさぎや熱中の人(ムシ)とモノに取り憑かれた者とを縁戚関係にあるとみなしたユエンである。

 ルンペンモノカキの中にうごめくモノやムシが、縁側での対話を活性化させる。

 たとえば、私は縄文のムシ――いいかえれば縄文というモノに取り憑かれた人間である。先だって、ある家の本物の縁側で坂口安吾の小品「土の中からの話」を読んだ。そこにはモノやムシをうごめかせる対話的思考が見出された。

「農民というものはやっぱり我々同様、作者なのではあるが、我々の原稿用紙に当るのがつまりあの人々では土に当るわけで、然し原稿用紙自体は思索することも推敲することもないのに比べると、土自体には発育の力も具わっているので、我々の原稿用紙に更に頭脳や心臓の一かけらを交えた程度にこれは親密度の深いものであるらしい。その上に年々の歴史まであり、否、自分の年々の歴史のみではなく、父母の、その又父母の、遠い祖先の歴史まで同じ土にこもっているのであるから、土と農民というものは原稿用紙と私との関係などよりはるかに深刻なものに相違ない。尤も、我々の原稿用紙もいったんこれに小説が書き綴られたときには、これは又農民の土にもまさるいのちが籠るのであるが、我々の小説は一応無限であり、又明日の又来年の小説が有りうるのに比べて土はもっとかけがえのない意味があり、軽妙なところがなくて鈍重な重量がこもっている」。

 私もまた安吾のいう「我々」すなわちモノカキの一人だが、農民いや百姓の家に生れ育った自分が「鈍重な重量がこもっている」縄文土器にどうしてかくも強烈に魅入られてしまったのかを解き明してくれる文章に出合った思いがした。

 安吾の文章には断絶・ズレもしくは転位が多い。この小篇もきれいごとの農民賛美などではない。たとえば「土は我々の原稿用紙のようにかけがえのある物ではないので、世界の大地がどれほど広くても、農民の大地は自分の耕す寸土だけで、喜びも悲しみもただこの寸土とだけ一緒なのだ。ただこの寸土とそれをめぐる関係以上に精神が届かないので、人間だか、土の虫だか、分らぬような奇妙な生活感情からぬけだせない」といった調子である。

「喜びも悲しみもただこの寸土とだけ一緒」をそのまま形にしたような縄文土器に魅入られた自分のことをいわれた気がしてならないのだけれど、安吾のいう「人間よりも土の虫に近いもの」でいいではないか……と、モノに取り憑かれたムシは居直りもする。