緑が丘通信「新しい二宮の風」

「二宮と湘南」の自然と 「オープンな二宮町議会をめざす会」を「美しい街・緑が丘」から新しい風にのせて発信します
 
「原発を作った」からいえること]後藤政志氏 講演会

「原発を作った」からいえること
元原子力プラント設計技術者後藤政志氏講演会が約80名の参加で開かれました。
 
 2012年7月1日(日)13時30分〜16時
ひらつか市民活動センターA・B会議室
 
後藤政志による原発の基礎知識講座原発の智識 
きほんのき
露呈した、原子力安全のウソ
いのちを第一に! 技術のあり方ストレステスト委員として、伝えたいこと等







「内部被ばくを生き抜く」上映会& 鎌仲ひとみ監督トーク
2012年7月1日(日)聖スパノ学園海の見えるホール(大磯駅前)で「内部被ばくを生き抜く」上映会& 鎌仲ひとみ監督トークが開かれました。
 
大飯原発再稼働のこの日、定員200名の会場は午前、午後とも超満員で原発や放射能汚染の関心の高さを示しました。







大飯原発現場で起こっている事

 野田政権は大飯原発3号機の再稼動に踏み切りました。
これに対して全国から数百人の人々が大飯原発ゲート前に駆け付け、 再稼動反対の大きな声を上げています。
 1日 警官隊は午後6時ごろより強制排除を開始しました。幾度かの攻防が行われたようですが午後10時現在、50 人の方たちが、ゲートの原発側に入り、鎖でゲートに体をくくりつけ、太鼓をならしながら抵抗を続けたそうです。
 
 首相官邸を20万人で包囲しても「少し騒がしいな。」と気にも止めなかったという野田首相、国民の8〜9割が反対なのに民の声が反映されない政治、国会議員。
 大飯原発現場で体を張って闘っている仲間達からの「拡散してください!」のメールやツイッターがじゃんじゃん流れて来ています。転載です。
 
精一杯、拡散して下さい。 蒔田です。
 今朝5時に友人6人で京都を発ち、7時頃大飯ゲート前に到着しました
 昨夜も雨の中で、真夜中に車を鎖でつなぎバリケードが築かれ 夜を徹して抗議行動が続けられていました。 私たちの車もバリケードの最前列で頑張ってくれました。
 
 雨でずぶ濡れになりながら、徹夜組の若い人たちが声を挙げ続け、持ち込んだドラムや打楽器を打ち鳴らして、 休むことなく、しかもお祭りのように楽しく!気持ちを奮い立たせてくれました。
 8時前に反戦老人クラブをはじめ(こちらは平均年齢70歳位?)連日宿泊のデモ隊が拍手の中到着。ゲート前は300人以上になり、雨が強まる中でドラムと抗議の声が膨れ上がりました。
 
 機動隊がさっそく登場し、何度か緊迫感が漂いましたが、 一時間ごとにメンバー交代して徹底無表情で立っているだけ。 並んだ機動隊の盾をコツコツと叩きながら、何時間も静かに隊員の顔を見つめ続ける若い女性たちには胸を打たれました。
私は、あなたたち顔を見て話をしようよ、いい身体してるんだからこんな因果な仕事はやめなさい!ひたすらしつこくオバサン話しかけ作戦を展開、いやだったと思う。
 
 女性や子ども、老人が多い時間に手は出さない、疲れるのを待つのだと見て取れました。 Uストリーム配信などで多くの人が見ているのは、随分心強いものですね。来たくても来れない膨大な仲間が背後にいるのですから。 現場の弾圧の目撃者がいるのは、暴力の抑止になるのを実感しました。
雨で消耗する中、神輿をかついだオトコたちも登場し、みんなの気持ちを奮い立たせました。 激しい雨の中でドラムを叩き続ける若い女性、意気軒昂な老人たち、 仮面の機動隊員と対照的な美しい表情の顔ばかりです。
 
 上がるかとみえた雨が激しく降り出し、どしゃ降りになった昼過ぎに体力限界で引き上げました。 バリケードから抜けるとき、うちの車も泣いて・・ 帰り道、他県の装甲車が何十台も待機しているのを、たまらない思いで睨みながら、夕暮れ以降に起こることに悔し涙でした。悔しいけれど、できることをそれぞれが長〜い時間軸で、 がんばらない、あきらめないで続けていくってことですね。
 
緊迫しながらも非暴力に徹したお祭り空間、今もあらたに現場に向かう人たちがいます。 彼らを孤立させないで! これはひとつの始まり、ジブンたちの力を信じたい。
 
 
 Sです。 ゲート前より
 大飯原発3号機、再稼働したようですね。 ここからはまったくわかりません。
こちらの状況は、実力行使に警察が入ってから3時間余り。一番外側の座り込みのバリケードは暴力的に引き抜かれ、その次の自動車のバリケードを警察は突破。ゲートに鎖でくくりつけた仲間たちと対峙。 そのゲートの原発側に約50人の仲間が、ドラム隊のリズムに乗って、完全武装の機動隊に押し返されないように頑張っています。
 
残った仲間たちは、座り込みのラインからかなり押し出され機動隊と対峙して、ゲート内側に孤立した仲間を励ますように抗議を続けています。
警察は解散しなければ実力で排除すると指揮車から再三通告していますが、 中に孤立している仲間たちを勇気づけるためにも続けるしかありません。
中で頑張っている仲間がこれからどうなるのか、非常に心配です。
今のところは、逮捕者は出ていません。みんな非暴力を徹底しています。







校舎の屋上に避難、ここにも奇跡の生還中浜小学校

 私達が依頼されたSさん宅、もともとは、ご自宅から海は見えなかったそうですが震災後、目前の林や住宅が消え、海が見えるようになった。
 Sさん宅の前の道路から海側は、住むことを禁止されたエリアになる「自分たちが戻ることで、元近所の人も戻ろうと考えるかもしれない」と話をしされていました。
 
  Sさんには小学生と4歳のお子さんがおられリフォームが終わったら(7月中には)仮設から引っ越す予定とのことで「子どもたちが、まだ小さいので、できるだけ危ないものは撤去しておきたい。できれば畑として使いたい。」とのご要望で庭、畑の再生へ向けてのがれき撤去作業をしました。
 
 写真(2)にある山元町中浜小学校、ここも大津波の直撃を受けた。中浜小学校は地震直後の情報をもとに二次避難所までたどり着く時間がないと判断し、二階建て校舎の屋上に避難した。
児童、教職員、保護者、町職員、地域住民の総勢90名は幸運にも全員が生還した。
当時の在籍児童59名は全員無事であったが、学区内の家屋はほぼ全滅、当時の様子がそのまま「震災を乗り越えて」(山元町立中浜小学校のケース)という文章で出ています。(校舎の前に並んでいる車は被災し壊れたポンコツ車をかさねてあるそうです。)
 
また、その時の事を毎日新聞を引用しながらブログ「買い物日記」で残している人がいました。 http://plaza.rakuten.co.jp/sy1103/diary/







まだ程遠い復興・・山元町支援ボランティア
 29日夜行日帰りの宮城108便(山元町便)で16回目の被災地支援ボランティアに行って来ました。私が山元町に行くのは2回目です。
 
 山元町は原発から60キロでガレキもそのままの所が多く復興から取り残されたような感じの風景が広がっています。(写真中)山元町は重機で一度、被災し壊れた家を土台ごと全部、片付けた所で そこが何だったのか(住宅地だったのか畑だったのか)わからなくなっています。
 
 写真下のように(バスの中から撮影)流されなかった立派なしっかりした家が(被災しても柱や屋根が残っていいる) 所々にポッポッと点在して残っています。
 
その一人で家をリーフォーム中のSさん、工事が終われば小学2年のお子さんも帰って来てここに住むそうで子供さんが帰っても外で遊べるように庭、畑の瓦礫撤去、ガラス拾いをしました。