60代 なるようになるさ!なんとかなるさ!なんとかするさ!

70代になったけど タイトルはそのままで
 
2025/05/26 13:36:00|日々の出来事
田舎では車は必要だな

まだまだ続く 徳島の話(最後)

徳島市は 24万人の県庁所在地で 平塚市より人口小

街自体は 徳島の方が 当然上だよ

しかし 徳島の駅前とか 街の活気はゼロ

とにかく歩いてる人が 少なすぎ

駅前の賑わいはゼロで ショッピングは無理だ

駅を利用するのは 高校生ばかり 

社会人は車で 職場に直行だな

そんな高校生が 遊べるようなショップはないよ


明らかに 街全体が 廃墟化し始めてる

お店と言えば 居酒屋風の店が多い

ファミレスは 駅周辺にはない スーパーも

大型のお店 ニトリ ヤマダ電器 などは

郊外に Openしてる


田舎では 高齢でも 車の運転が必須だよ

生きていくためには 車なしでは無理

こんな状況で 高校生はどんな将来を 描こうと

20年ぐらいをかけて 街の再生が必要だな

その前に 政治家が必要だ



眉山という 山があるのだが

吾輩的には 60年ぶりぐらいに 登ったよ

頂上の景色は 何も変わってない

本当に 変化というか 進歩がない

過去半世紀 何をやっているのかね 自治体は


それは お城があった城山にも 現れていて

山の上は ただの原っぱ

眺望もなにもない 景色だった

空いた口が 塞がらない


ガッカリ感を持って 京都へ向かう



イスラエル大使館員が 射殺された

こういう事件が 世界で起こるかもしれない

イスラエルという国に対する 反感が

世界に渦巻いている

ちょっと やり過ぎなんだよ イスラエルは



写真
両国橋にある踊りの像
 (橋の向こうに友達の家があった)
 新町川
  朝6時に開く風呂屋
阿波城の下馬橋
 階段
  頂上の原っぱ
眉山が見える
 パゴダ(小学校以来だよ)
  徳島市街
徳島駅前の高速バス乗り場
 乗ったバス
 (愛媛からのバスも徳島経由で京阪神へ)
 バスの車内(定員40名中乗客11名だった)

 







2025/05/25 13:56:00|日々の出来事
60年経ってもちゃん付けで

徳島の話を 続けてる

実家に帰った時 姪が木の剪定とかやってて

よく働いていた

その傍にいたのが お隣のKちゃんで

60年も前の感覚で Kちゃんと呼んだ

吾輩よりも 年上で 今年80歳だと

それでも 吾輩も姪も Kちゃんと呼ぶ

旦那さんは 86歳で ボランティアなどで

忙しくしてる

15年のご無沙汰を 詫びて

姪が お世話になってます とお礼を


Kちゃんは 姪のことを 私どもの子供ですと

言ってくれて 仲良くして頂いていて安心


そのKちゃんから 近所の話を聞いた

紺xxというお宅なんだが 商売がうまくいかなくて

家を売って どこかへ行ったようだ

だれも その消息をしらないと

同年配の娘さんがふたりいた 吾輩も遊びに行ってた

電気に感電したのも この家だった(遊びで)


隣には 同級生(歯医者)が居て 15年前おばさんから

脳梗塞で 体が不自由になったと聞いた

今は 施設に入っていて 次男坊が継いで歯医者に

同級生同士で 結婚したはずだ

おばさんも 施設に入っているみたい


近所のお寺は 住職が体調を崩していると

子供さんが 跡を継いでいるらしい

ここは 吾輩の遊び場だったよ

木に登って 足がはさまり 宙つりになったり

ハチにお腹を刺されたのも ここ

本堂の中を走ったり 縁側で将棋を指したのもここ

それと チャンバラはここだよ


目の前の2軒は 1軒が空き家になった

その隣には 大きな家が建ってて 子供の声が

響いてる

そんなこんなの 近所の変化だ 全てではないけど



弟には いとこのことを聞いてみた

祖母実家の 県会議員をやってた はとこは

亡くなったと ガソリンスタンドからコンビニに

商売が変わってた

父親系のいとことは 最近やりとりが無いようで

どうしているのか 分らないと

母親系のいとこは ゴルフ仲間と言うこともあって

知っていたが 脳梗塞を起こしたと

そこは どうも家庭内が落ち着かないようだ

母親の妹が まだ生きていると

さらの しょうちゃんと言ういとこは 亡くなったと

このいとこには 非常にお世話になった

我輩ではなく 母親が

こんな感じで 色んな事が起きている

それに比べると 我が家はきわめて普通だ


我輩 外食の選び方が 大変なんだ

基本的には 塩分が少ない食事の一択

ただ 今回も選択を 間違えてる

丼物は NGらしい




写真
ホテルでの朝食
 ガツガツ食べてる中年の日本人がいた
辺境の地 徳島にも外国人の観光客
 台湾から来た 中年のチャリダー
 台湾と香港から 飛行機が飛んでる
2日目の夕食を 同じ食堂で

小学生の頃 泳いでた防火槽
 60年経っても 変わらない
遊び場のお寺本堂
ハチに刺されたのが この付近



 







2025/05/24 14:16:00|日々の出来事
墓じまいと先祖の墓参り

両親を含めた 先祖のお墓詣りへ行った

7年前に 姉が墓じまいをやっていて

今回 初めて 菩提寺の永代供養の納骨堂へ

吾輩 ここは2度目で 15年前に来た

父親の27回忌の法事


弟とふたりで 手を合わせてきたよ

この納骨堂には 隣の家も収められている

やはり 墓の面倒をみる人が いないことが要因

隣のおばさんと 吾輩の母親で 話が弾むだろう


我が家は 姉の娘が結婚して 名前を引き継げない

ことと 墓の守りが大変なので 姉が決断した



お寺には 檀家別過去帳があって

位牌の文字を読み取って お寺が作ってた

ただ 文字が読み取れたのは 少しだけ

しかし 変なんだよね

吾輩 弟 姉が知らないし 両親から聞いたこともない

そんな人が 過去帳に書かれてた

矢野孫吉 明治33年3月14日逝去

我が家の 名前ではない

それと 昭和21年7月1日に亡くなった 童女

まったく聞かされてない


先祖の遺骨は 50ぐらいあったのかな

中学生の当時 旧菩提寺から お墓を移す時 

一時家に お骨を置いてあったから 分る

その時 一番古い位牌に 寛文xxと書いてあったのは

記憶してる 1670年ぐらい?

我が家 途中で血筋が絶えて 広島の方を 

養子にしたというのは 母親から聞いていた

江戸時代の話なので 真偽は不明


その当時 新菩提寺から 五十回忌 百回忌の法要を

言われて 法事をやったよ

その時の記録が お寺に残っていると思うが

世代が変わっているからか 資料は残ってない

今なら 百五十回忌の法事だな


今読んでる本に

月日は百代の過客にして 行き交う年も・・・

ここ数日で 実感した



写真
部落の神社(吾輩の遊び場だった)
 神社の境内(祖父の映った写真がここ 紙芝居の場所)
  樹齢数百年のクスノ木
60年以上前のスベリ台と廃屋(ここで習字を習った)
 神社の階段
  神社の本殿(壊れているが 解体費用が高くて)
上から見た町並み
 神社の横手にある 部落の墓地
  我が家のお墓の跡
菩提寺
 お寺の本堂
  その横手に 納骨堂



 







2025/05/23 13:36:00|日々の出来事
急遽3人で会議になった

そんなつもりは なかったのだが

吾輩は 弟から話を聞きたかっただけ

弟は 姉の娘(姪)に頼みたいことがあった

姪も 弟に相談したいことが あったみたい

ここ1年間 互いに顔を会すこともなかったとか

3人だけの 親族会議が 実家で始まった



まずは 弟の現況を話すと

弟は 子供がいない

急死した奥さんの兄弟は 兄2人がいるが

1人はすでに亡くなって 横浜に長男はいるのだが

脳梗塞で 施設に入ってる

つまり 奥さん家系の縁者は 徳島にゼロ


そこで 弟が頼みたかったのは

弟に何かあったときは 姪に後始末を頼むと

お墓は 奥さんの実家近くの寺に 永代供養のお墓を

準備してあるのでそこにと すでに奥さんはそこに

遺言を書いて 姪に遺産(家お金)はすべて相続する

状況により 吾輩または吾輩の子供にも 相続権利が

発生するが 相続放棄をしてと頼まれた

それは OKなんだが

姪は分った!  弟の家の鍵を渡して 預かっておくから

これで 弟の心配はなくなった


姪の相談事は 現在住んでる実家と畑の名義変更してと

実家の土地は 弟と姪の共同名義

畑は 弟と姉の共同名義 すべて姉がやったようだな

名義変更は 弟ー>姪に 贈与したことになるのかな

こちらは 弟が 名義変更を了解して やり方を

考えてみるという結論になった


さらに 3人の合意としては

吾輩が死んでも 弟は葬儀に行けないからと

今 住んでる場所で 各々でしっかり生きていこうと

いうことになった

互いに 亡くなっても 葬儀などは参加しない

ただ 生きてる間 年に一度ぐらいはやりとりを

ということになった 生存確認だな!

LINEでも良かったが 一応gmailのアドレスを渡した

徳島で 3人が仲良く暮らしてくれれば 我輩はOKだよ



板野の旧道の町並みは ゴーストタウンだよ

新陳代謝が 出来ないんだね

同級生の家も 変わらなく古い



写真
徳島からのディゼル電車
 お遍路さんの外国人カップル
  駅に着いた
向こうに実家がある
 駅舎2枚
中学時代 塾があった住宅
 (1Fで焼き芋を売っていた)
 お世話になった 柴田医院があった場所
サカタの散髪屋
 この橋を渡ると 実家のある地区
  この川でよく遊んだ 小学生時代



 







2025/05/22 13:42:00|日々の出来事
15年ぶりでした

田舎に帰ってきました たった3日間ですが

15年ぶりに 徳島の空気をいっぱい吸ってきましたよ


でも 15年というものは 長い時間で

いろんなことが 起きてた

そのひとつは 吾輩には弟がいるのだが

奥さんが 2年前に亡くなっていた

大動脈解離で 突然に起きたようだ

朝 元気に社交ダンスの練習に 出かけて

昼休憩の後 突然倒れた

ダンス仲間に医者がいて 救急処置を施して

救急車で病院に運ばれたが ダメだった

吾輩 聞いてビックリだよ

まさかの まさかだよ 未だに信じがたい



徳島へ 行きはJALに乗った

実に 17年振りかな

タッチ&ゴー って便利だね(ANAで経験済だった)

おみやげを とらやで2個買った

土産は 店の名前で決めてたので 悩むことはなかったね

さらに 弁当を買い JALのラウンジで 昼飯に

このラウンジ 飲み物しかサービスがないけどね

カウンター席で 飛行機を眺めながら食事

多くの方が パン サンドイッチを食べてた


徳島では どこで 夕食を食べようかと

ポッポ街を歩いたが ほとんどの店が閉店してて

寂れすぎだよ

結局 ホテル近くに 昔ながらの大衆食堂を見つけ

カツ丼を頂いた

これが 塩分少な目だろうと 考えての決断

本当に 困るよ 外食するときの選択が



写真
JALラウンジで弁当を
とらやでお土産
 珍しい航空機が
ポッポ街
はなや食堂