幻塾庵 てんでんこ

大磯の山陰にひっそり佇むてんでんこじむしょ。 てんでんこじむしょのささやかな文学活動を、幻塾庵てんでんこが担っています。
 
2014/03/30 15:37:00|著作
室井光広の著書

猫又拾遺

立風書房 1994年4月刊
〈初出〉
猫又拾遺 「群像」1991年10月号
あんにゃ 「群像」1992年8月号
かなしがりや 「群像」1993年9月号










あとは野となれ

講談社 1997年8月刊 
〈初出〉
「群像」1997年4月号












そして考


文藝春秋 1994年9月刊
〈初出〉
そして考 「文學界」1994年4月号
ヴゼット石 「文學界」1994年9月号


 








2014/03/30 14:17:02|文芸誌てんでんこ
願文――『てんでんこ』創刊覚書に代えて
   
    雑木林の明るい廃墟に、原子野″という言葉が浮かんでいた、
    誰の言葉、誰の影?         (吉田文憲『原子野』)
 
 
〈原子野に生きるもののおののき〉と帯に刻まれたウリ=われわれの詩集『原子野』がウラ=オラ=オレのもとにオクラれてきたのは、2001年の夏のことでした。オクリ物の原義通り、そのほんとうの衝撃波は遅れて届きました。古代の枕詞「玉響」のヨミをめぐる一説――玉カギルが想いおこされます。響をなぜカギル(=光る)とよむのかについて、音のとどろきと光のきらめきとが、感覚的に共通する面をもっているから、と註記されていました。
〈原子野に生きるもののおののき〉は、2001年の夏に、光として瞬時にオラを包んだはずですが、雷鳴のようなトドロキと共にオラの身心をさし貫いたのは、10年も遅れた2011年3月11日以降なのでした。ツナミのようなという比喩をうち砕くあの玉カギル衝撃波について、さらに時間が経過した今も多くを語れないでいます。
 
 ウリ=われわれの詩人は『原子野』「あとがき」に、タイトルをめぐって、こう書いていました。
 
 原爆やヒロシマを連想されるかもしれない。そのことは不可避なことかもしれないが、そのことも含めて、ここでの「原子野」というタイトルは、原子がふりそそぐ野原、つまりはわれわれのいま生きているこの現在の場所にほかならない。ここが原子野なのであり、それはなにも特別な場所ではない。そのことは、新しい世紀に入ったいま、ますますはっきりしてきたのではなかろうか
 
 英文学・アイルランド文学研究者の佐藤亨は、右の玉=魂カギル一節を魂合わせ″する如くに、著書『異邦のふるさと「アイルランド」』の終章で引き、次のように解説してくれました。
「原子野」は、「原詩・野(フィールド)」とも読み替えられそうだ。とすれば、「原子がふりそそぐ野原」とは、言葉が発せられ、その言葉と生地とが交わって変幻を繰り返す詩というフィールドと読み換えることができる。
 
 異邦に「ふるさと」を視る佐藤の著書が刊行されたのは2005年――この時すでに、われわれの詩人のポエジーを中核とした三者による《座敷童子の会》は発足していたと記憶します。吉田も佐藤も、ここなる伝言の発信者も東北出土の風狂の徒です。
 異邦にひとしい生地という廃墟と、詩という廃墟は、東北風狂人元祖創設の協会玄関前の黒板に記された伝言文――下ノ畑ニ居リマス――の「下ノ畑」でつながっている、と佐藤は「吉田文憲とシェイマス・ヒーニー」なる副タイトルのついた終章を書きおさめています。
《座敷童子の会》のハジマリは、たぶん、『原子野』所収の一篇「息の光跡″――五つの手紙に代えて」の2にあるでしょう。佐藤と本伝言の発信者が2000年に共訳刊行したS・ヒーニーの第一評論集『プリオキュペイションズ』を吉田にオクったことへのオクれたオクリ物――吉田自身の註では返礼″あるいは返信″として、それは書かれていました。
 
 bog、ボグ――沼沢地からの眼が、あなたからもらった手紙だった……
 
 オンファロス、オンファロス、オンファロス、――涸れた井戸
 私は声のこだまのなかを歩いていた、
 ここはこだまの出るところ、ボグ(bog)の湿地帯、
 土手にはたけにぐさが風に吹かれていた、
 
 ランダムに引いた上の詩行には詩人自身の興味深い註がついていますが、割愛してすすむほかありません。
 われわれの会は、2011年の《3・11》によって玉=魂カギル「変幻」を余儀なくされました。その事実をレトリックで飾ることの痛苦を背負ったまま、創刊覚書に代えた願文をコア・メンバーとなっていただいた諸子にオクろうとしています。
 僕は、いや東北訛語でbogは、トウヘンボグにおくられた詩篇に顔を出す雑草たけにぐさが、どんな姿をした野草なのかわからぬような人間でしたが、羅須地人協会発願者にしてイーハトブ国の住人が「さびしい」病床で思いを馳せた――一説に「迷いの火を吹き消した状態」としての「涅槃」の喩、あるいはこの世とあの世の境界の指標を思わせるともいわれる雑草が、突如リアルな存在のかたちで迫ってきました。と同時に、I'm down in the fieldというその下ノ畑を、今こそ輪耕せねばならない思いに駆られたのです。
 風妖なる風野又三郎が好むたけにぐさが見出される下ノ畑に「涅槃」をもとめれば、ネハンの原義Neantが二重映しになり、やがて〈山への遠足〉に必須のNiemand氏の一行も近づいてきました。
 ここなるトウヘンボグ、東北のデクノボーの生地であるFukushimaのガレキの歴史を書く資格を誰がもつのかわかりません。わからぬまま、Niemand氏の一行と、しょうこりもなくlalaと歌いながらのガレキの山への遠足を夢見ずにはいられないのです。
『原子野』には、別の詩人経由のこんな文言が刻まれていました。
 
 ヒロシマの街は、元の地面から30センチほど、高くなっているそうです。……たくさんのガレキの山ですから、それをキレイに片付けることよりも、中国山地かどこかから大量の土を運び入れて、ガレキと、……ガレキの下にかくれてみつけられなかった人の骨も一緒に埋めてしまうほうが簡単だったのだろうと思いますが、歩きながらそのもともとの低い地面のことをよく考えていました。……
 
 ガレキの山から成る「荒地」で、トウヘンボグもまた、やはり〈あらゆる透明な幽霊の複合体〉ともいうべきニーマントに向け、「誰の言葉、誰の影?」と問う一人の年若い詩人に出逢いました。本人に無断で、ボグの記憶の下にある詩篇のひとくさりを掘りおこして引けば――
 
  南中高度を過ぎて太陽は煤けたように黒く大きい
  溺れたら摑む岸辺を求めるだけの
  透明な手
  何本も何本もあらわれては揺れる
  ニーマントたちのうつろな囁き
  呪われてうっすら明滅し続ける空気の束から
  切り離した意識でもって自分を支えようとして
  うまくいかず何度でも転んだ
  ここが天国なら良かったのに
 
 多くを語れないといった以上、もうやめるべきでしょうか。〈この「覚書」は読まないでいただきたい、いや、ざっと眼をとおしたとしても、そのまま忘れていただきたいくらいだ。熟達した「読者」の理解のさらに先を行くようなことを、ここから学ぶことはほとんどない〉。
 佐藤は前記の著書で、「うた」と「禁忌」がつながって、「故郷=異郷」が「禁忌」の意を孕む東北方言(に生きる古語)「うだでき」場所となる吉田のポエジーを語っていました。「いよいよひどく。まったく」とか「思わしくなく。情けなく、いやらしく。気味悪く」などを意味する日本古語〈ウタテ〉は、われわれの生地の方言「うだでのし」とか「うだでなし」を生んだのですが、詩人はこの二語のつながりに鋭敏でした。吉田は、「〈うた〉と〈うたて〉」なるエッセーで〈ああ故郷=異郷とは「うだでき」場所であり、その「うだでき」場所で、そこから聞こえてくる〈うた〉をめぐるようにしておれは詩を書いてきたのだな〉とつぶやきました。
 生れてすみません、とつぶやいたもう一人の東北風狂人元祖は、デビュー作の『晩年』中に刻んだ津軽方言詩「雀こ」で、かなしい「うたて遊び」の風景を点描してくれました。
 ボグの生地の方言「うだでなし」は、なんだか「人でなし」みたいなひびきをもっていますし、また〈こんなものはウタ=詩=文学でない〉のようにも聴こえます。
 羅須地人協会発願者は、かつて需めに応じて書き下ろした宗教テキスト〈法華堂建立勧進文〉のエピローグ部分を、その「作者」は七面講同人あるいは東都文業某とし、「小輩の名を出すなからんことを。必嘱!」とむすびました。
 ウリ=われわれの非在のてんでんこ協会も、「小輩の名を出すこと」ができない発願者のオラが勝手に撰んだ、オラを含めて七名から成る単独者組合ですが、われわれの場合、七面講同人を、七面妖同人とでも変幻させてあやかろうともくろんでいます。
 単独者の組合とは、すなわち単独者の精神を極限にまで尊重し、各自の主体的創作行動を信頼し尽すという見果てぬ夢の組合、不可能性のギルドです。そこでは、めいめいが〈ひとり親方〉であるにもかかわらずニーマント氏の弟子でもあります。本誌創刊号のコア・メンバーが〈もし万一にもわたくしにもっと仕事をご期待なさるお方は同人になれと云ったり原稿のさいそくや集金郵便をお差し向けになったりわたくしを苦しませぬやうおねがひしたいと存じます〉というようなつぶやきに同調したとしても奇異でないのはこのためです。
〈日本に生れやがて地をば輝く七つの道で劃り、一天四海、等しく限りなきの遊楽を共にしようではありませんか〉と、再度幻師の口真似をしたうえで発願者曰く――〈原子野に生きるもののおののき〉を共有する七面妖同人諸子よ、汚れちまった詩の廃墟で、ニーマントたちの透明な手を支えに、てんでんこのうたて遊びをつづけましょう。
 

 







2014/03/30 14:06:00|年譜
室井光広 年譜 53歳〜
平成20年(2008) 53歳
 
「三田文学」秋季号より創作長編『エセ物語』連載を開始。
11月、『ドン・キホーテ讃歌――世界文学練習帖』を東海大学出版会より刊行。同署に、書き下ろし評論「東北のドン・キホーテたち――石川啄木・宮沢賢治・太宰治・寺山修二」を収める。

 
平成21年(2009) 54歳
 
7月、『プルースト逍遥――世界文学シュンポシオン』を五柳書院より刊行。『カフカ入門』『ドン・キホーテ讃歌』と合わせ〈世界文学イニシエーション〉の批評篇三部作を完結させることにより、『エセ物語』を〈世界文学イニシエーション〉創作篇とする方向性が定まる。
 
平成22年(2010) 55歳
 
6月、月刊誌「望星」に「柳田国男の話」連載を開始(全36回)。
 
平成23年(2011) 56歳
 
3月、東日本大震災を機に、〈ビジネス〉としての執筆業への年来の懐疑がピークに達し、商業的な著作活動に終止符をうつ準備を開始する(これを客観的にいい直せば、大震災などと関わりなく、早晩、職業人著作家の能力の欠落をつきつけられる運命だったということである)。
4月、東海大学文学部文芸創作学科の教授となるが、種々の意味で大学人失格を痛感させられ、辞職を決意。
「三田文学」の『エセ物語』を12回で中断する。

 
平成24年(2012) 57歳
 
3月、東海大学を辞職する。
単読者による共同誌「てんでんこ」を立ち上げ、「創刊覚書に代えて」を起草する。この創刊号で、「三田文学」で「一の巻」を終えた編纂体フィクシオネス『エセ物語』の連載を再開する。







2014/03/29 15:10:00|幻塾庵てんでんこ
開塾にあたって――少数の有志に
 東日本大震災後の〈荒地〉にリトルマガジン『てんでんこ』が産声をあげてから、さらに歳月が流れました。この文を草している今月、三年の喪があけたといってみたところで、衝撃の波はいっこうに去りませんが、他ならぬFukushima出身者の一人として、遅まきながら、自分なりのノン・コマーシャルな活動に余生をふり向けたい心持に染まり、文学塾てんでんこを開設した次第です。

 
 と申しましても、2014年三月現在、当塾が何をどのように活動を展開するかの詳細が完全にかたまっているわけではなく、以下は、ごく少数の読者を念頭に文筆業をいとなんできたここなる老書生からの、反時代的になることを恐れぬヨミカキの練習生募集にまつわる、あくまでも暫定的なお知らせにすぎません。

 
 引き合いに出すのはおこがましいのですが、宮沢賢治は、「春と修羅 第二集」の序で、農学校につとめていた歳月を「じつに愉快な明るいもの」とし、「毎日わずか二時間乃至四時間のあかるい授業と二時間ぐらゐの軽い実習をもって」かなりの俸給を保証され、「安固な待遇を得て」いたとふりかえったうえで、「しかしながらそのうちにわたくしはだんだんそれになれて……」と転調し、「そこでたゞいまこのぼろぼろに戻って見ればいさゝか湯漬けのオペラ役者の気もしますが……」とつづけています。

 
 賢治の理想は昔も今もまぶしすぎるのですが、「湯漬けのオペラ役者」といったたぶんに喜劇的なスタンスなら寄り添うことができそうな気がして、老生も大震災を機に、〈安固な待遇〉が保証された五十すぎての宮仕え″を辞し、もとの「ぼろぼろに戻って」みるに至ったのでした。

 
 賢治はまた「生徒諸君に寄せる」という詩篇で、毎日を鳥のように教室でうたってくらした四年にふれ、「誓って云ふがわたくしはこの仕事で疲れをおぼえたことはない」とも書いています。
 老生に天が与えた六年をめぐって、凡愚もまったく同じ思いを抱いたことでした。
 ではなぜ、そこから身をもぎはなし、「ぼろぼろ」に戻る必要があったのか……天才の真意を凡愚がおしはかるのはやめにして、ここではエピゴーネンの性をむき出して、賢治が起草した「農民芸術概論綱要」の一文によりすがりたいと思います。


〈芸術のための芸術は少年期に現われ青年期後に潜在する
 人生のための芸術は青年期にあり 成年以後に潜在する
 芸術としての人生は老年期中に完成する
 その遷移にはその深さと個性が関係する〉

 時代を超える賢治独自の思想の中から、老生が選んだ上の詩的アフォリズムの中に、私どものイメージする――少年・青年・老年すべてにひらかれた文学塾てんでんこの精神が潜んでいる予感がいたします。
 奇しくも、賢治の生年と没年は、ともに東北沿岸に大津波がおし寄せた年にあたるそうです。てんでんこという東北方言(?)は、共通日本語のてんでんばらばら(に)のニュアンスに近いもので、津波てんでんこ(津波のときは、各自かってに逃げよ)の教えに刻まれてもいます。
 人が集ってことをなす雑誌や塾の名前に、てんでんばらばら(に)のイメージをかきたてる名前が、なぜ冠せられているのか――老生が年齢、性別、国籍、職業等を問わず出遭いたいと望むのは、そうした逆説的事態へのしなやかな詩的アンテナをもつ人です。

 さいごにもう少しだけ賢治の言葉を付せば、
〈職業芸術家は一度亡びねばならぬ〉
〈永久の未完成これ完成である〉

「われらは各々感じ 各別各異に生きている」という賢治的「各別各異」に、そしてまた、賢治特有のコスモロジーを孕むこの直前の一行――「まずもろともにかがやく宇宙の微塵となりて無方の空にちらばろう」という呼びかけにも、老生は勝手にてんでんこ精神を重ねているのです。
 この奇妙な篤志老生に、和して同ぜず、わが道をてんでんこに往くに「文」をヨミカキする練習を必要とする有志の入塾を願っています。

 
                    文学塾てんでんこ主宰
                          室井光広







2014/03/29 14:31:00|プロフィール
室井光広 プロフィール
1955年 福島県南会津郡下郷町生れ
 
       早稲田大学政治経済学部中退、慶應義塾大学文学部哲学科卒業     
 
1988年 ボルヘス論「零の力」で群像新人賞受賞(評論部門)
     
 
1994年 「おどるでく」で第111回芥川賞受賞
     
 
2006〜12年 東海大学文芸創作学科の専任教員を務める
     
 
2006〜  大磯町西小磯在住







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