幻塾庵 てんでんこ

大磯の山陰にひっそり佇むてんでんこじむしょ。 てんでんこじむしょのささやかな文学活動を、幻塾庵てんでんこが担っています。
 
2014/05/07 12:13:20|雑記
ヨミカキ塾


文学塾てんでんこ、通称ヨミカキ塾が目指すのは、
 
「ムチをふりふりちいぱっぱ」の学校というより

「だあれが生徒か先生か」のイメージ







2014/05/06 15:51:21|雑記
子供の日
「憂きわれをさびしがらせよ閑古鳥」の句が似合うじむしょに
珍しい来客

 
客人の置き土産と、「宴のあと」の事務長







2014/04/29 14:36:00|著作
室井光広 著書
柳田国男の話

2014年4月 東海教育研究所刊

〈月刊誌『望星』2010年6月号〜12回、「Web望星」に24回、計36回連載〉

柳田国男の「夢の理論」「まぼろしの歴史」をめぐる語りには、ほとんど結論めいたものがない。矛盾にみちた分裂状態を、創造的な二律背反として受取り直すそのイデーは、散文的ではなく詩的な愚かしさ=ヲコなる精神のありようをわれわれに心付かせてやまないのであるが、そうでありながら、柳田国男の話はキルケゴールの『死にいたる病』の序の言葉をかりれば「病床に臨んだ医者の話しぶりに似たもの」だった。そのほとんどが日本という患者の病床に臨んで「発願」されたものなのである。
〈さまよえる日本人〉のひとりごと――あとがきに代えて より

21世紀に入って『カフカ入門』『ドン・キホーテ讃歌』『プルースト逍遥』と、世界文学の巨人たちについての研究とも随想ともつかない私的(=詩的)散文を書き継いできた室井は、おそらくその延長線上で柳田の文章に辿りついている。
 たとえば1910年に刊行された柳田の代表作『遠野物語』の扉に「この書を外国に在る人々に呈す」とあるが、日本語による書き手でカフカやドン・キホーテやプルーストといった翻訳文学のなかに存在する「外国」に滞在していた作者は、いわば「さまよえる日本人」としてその著作に邂逅する。そこで「田」と「畑」という言葉、東北文化とのかかわり、雑記と随筆という形式といった様々な視点から柳田文学に切り込む作者は、36回に及ぶ序文を書くようにその本質を炙り出していく。
 そうして現れてくるのは、言語の古層との結びつきを維持し、時代の変化に容易に影響されない、したがって語られる内容が普遍性をもち、時代も言語も超えてしまうというその文章の特徴だ。そこにおいて柳田の作品が世界文学の一部であり、言語と時代を超えて力をもつ「普遍文学」に連なるものであることがわかる。そしてそれは、そのまま福島県会津の出身である作者が3・11以降に求める文学の定義になっている。
 もちろんそれを語る『柳田国男の話』自体がその「普遍文学」であろうとしており、日本の近代文学をふり返るものとしても素晴らしい読みごたえだ。
〈2014年4月30日 毎日新聞夕刊「文芸時評」より〉







2014/04/24 11:55:02|年譜
室井光広 年譜 0〜21歳
昭和30年(1955)
 
1月7日、福島県南会津郡下郷町に生れる。生家は狭隘な山間の川岸に位置する総戸数7軒の村落、志源行の農家だが、水田の少ない南会津地方で米作りはなりわいの一部にすぎず、主たる現金収入の道として葉タバコ栽培と養鶏業、他にも雑穀栽培、林業、臨時雇いの期間労働等々雑多な百姓″仕事をしいられた。
 
昭和36年(1961) 6歳
 
町立楢原小学校三ツ井分校に入学。男子五名、女子五名のクラスで四年生までをすごす。
 
昭和40年(1965) 10歳 
 
楢原小学校本校に通い始める。駅、郵便局、駐在所、本屋のある町の中央部に足を踏み入れ、最初のカルチャーショックを体験。夜尿症が治らぬこと、運動神経が鈍すぎること、算数ができないことに悩む日々がはじまる。
 
昭和42年(1967) 12歳
 
町立楢原中学校(現下郷中学校)に入学。国語教科書で『吾輩は猫である』の一部を読んで興味をもち、会津若松市に実家のある数学教師に『猫』の文庫本を購入してもらったが、最後まで読み通せなかった。中学二年の頃より、生涯の宿痾となる偏頭痛とのつきあいがはじまる。中学三年時の盲腸手術がきっかけで(?)夜尿症が消失。
 
昭和45年(1970) 15歳
 
福島県立会津高等学校に入学。会津若松市で下宿生活を始め、第二のカルチャーショックを体験。11月、三島由紀夫が割腹自決、興味をそそられて小説を手に取るも歯がたたず。愛読していたのはもっぱら太宰治。
高校三年の夏、祖母が自殺、衝撃を受ける。

 
昭和48年(1973) 18歳
 
高校を卒業、大学受験に失敗。兄を頼って上京し、第三のカルチャーショックを体験。秋頃、一種の心身症になり、郷里に帰る。
 
昭和49年(1974) 19歳
 
早稲田大学政治経済学部経済学科に入学するも、理数音痴のためたちまち行き詰まる。芝居に興味を抱き、演劇サークルに顔を出したりしたが長つづきせず。二年になって休学届けを出し、ひきこもり生活状態になる。ドストエフスキー熱を経てキルケゴールへの関心が高まり、再び舞い戻った郷里でデンマーク語の独習を開始。ロンドンから取り寄せたテープでアンデルセン童話を聴き、感動する。
 
昭和51年(1976) 21歳
 
早稲田キャンパス新聞主催、第8回キャンパス文芸賞(評論部門)にドストエフスキー論「逸脱者の受難」が入選(選考委員秋山駿)。はじめて作文が活字になった姿を見る。
早大政経学部を中退し、慶應義塾大学文学部に入学。哲学科に進級する。当初予定のキルケゴール専攻は中止。
種々のアルバイトに従事するかたわら、心身症対策のつもりで慶應義塾外国語学校でロシア語を学び、東アジア諸語を含む各国語の独習も始める。

 

 

 







2014/04/24 11:51:02|年譜
室井光広 年譜 25〜41歳 
昭和55年(1980) 25歳

大学を卒業(卒論はM・フーコー論)。二十近い企業の就職試験を受け、ことごとく落ちる。拓殖大学図書館の臨時職員となったのを機に司書資格を取得、以後七年ほど勤める。J・L・ボルヘスに出遭い、詩と批評と物語サンミイッタイの文学修業のイニシエーションを体験。俳句・短歌・自由詩(現代詩)、評論、小説等に手を染める。しかしこの頃すでに、職業人としての著作家になり了せることは将来的にもできないだろうという予感につつまれていた。
 
昭和60年(1985) 30歳
 
父、借債を遺して59歳で病死。以後二十年近くこの借債問題に苦しめられる。『旧約聖書』『千一夜物語』『ドン・キホーテ』『エセー』『失われた時を求めて』など、ことさら長大な作品を選んで、読み継ぐ。
 
昭和62年(1987) 32歳
 
図書館を退職。“主夫″となり、家事一切を担当。料理に凝る。
はじめて海外に旅行、アイルランドに渡り、ジョイス・タワーを詣でる。

 
昭和63年(1988) 33歳
 
「零の力――J・L・ボルヘスをめぐる断章」で「群像」新人文学賞(評論部門)を受賞。以後、内外の作家論、詩人論を発表。十余年にわたる詩歌句をまとめた『漆の歴史――history of japan』(ワープロ私家版)を2部作成、知友に回覧する。
 
平成3年(1991) 36歳
 
駿河台予備学校英語講師となる。
「群像」に小説のデビュー作「猫又拾遺」を発表。

 
平成4年(1992) 37歳
 
この年から、雑記ノートを兼ねた日録を書きはじめる。
 
平成6年(1994) 39歳
 
四月、第一創作集『猫又拾遺』を立風書房より刊行。
七月、生徒の人気度が低いことから予備学校側から警告ふう注意を受けた後、事実上のクビとなる。
創作集『おどるでく』を講談社より刊行、表題作で第111回芥川賞を受賞。後に発行元から洩れ聞いた「芥川賞受賞作史上最低の売れ行き」を伝えたところ、文芸評論家の田中和生氏から「とても光栄なことでは」との言葉をもらったことが忘れ難い。
九月、創作集『そして考』を文藝春秋より刊行。

 
平成7年(1995) 40歳
 
共同通信の配信で半年間エッセー「縄文の記憶」を連載。これを機に考古学(的思考)に取り憑かれる。
四月から東京工業大学で「日本文化論」の講義を担当(半期のみ、97年まで)。

 
平成8年(1997) 41歳
 
二月、詩歌句集成『漆の歴史』の限定十二部版を製本工房E(ルリユール手法)で製作。
三月、日本文化論エッセー『縄文の記憶』を紀伊國屋書店より刊行。主に関東・東北地方の縄文遺跡・遺物を探訪。〈縄文教信者〉を自称する。この頃、北アイルランド出身の詩人シェイマス・ヒーニーの詩集を集中的に読み、その第一評論集『プリオキュペイションズ』の翻訳を開始。