昭和55年(1980) 25歳
大学を卒業(卒論はM・フーコー論)。二十近い企業の就職試験を受け、ことごとく落ちる。拓殖大学図書館の臨時職員となったのを機に司書資格を取得、以後七年ほど勤める。J・L・ボルヘスに出遭い、詩と批評と物語サンミイッタイの文学修業のイニシエーションを体験。俳句・短歌・自由詩(現代詩)、評論、小説等に手を染める。しかしこの頃すでに、職業人としての著作家になり了せることは将来的にもできないだろうという予感につつまれていた。
昭和60年(1985) 30歳
父、借債を遺して59歳で病死。以後二十年近くこの借債問題に苦しめられる。『旧約聖書』『千一夜物語』『ドン・キホーテ』『エセー』『失われた時を求めて』など、ことさら長大な作品を選んで、読み継ぐ。
昭和62年(1987) 32歳
図書館を退職。“主夫″となり、家事一切を担当。料理に凝る。
はじめて海外に旅行、アイルランドに渡り、ジョイス・タワーを詣でる。
昭和63年(1988) 33歳
「零の力――J・L・ボルヘスをめぐる断章」で「群像」新人文学賞(評論部門)を受賞。以後、内外の作家論、詩人論を発表。十余年にわたる詩歌句をまとめた『漆の歴史――history of japan』(ワープロ私家版)を2部作成、知友に回覧する。
平成3年(1991) 36歳
駿河台予備学校英語講師となる。
「群像」に小説のデビュー作「猫又拾遺」を発表。
平成4年(1992) 37歳
この年から、雑記ノートを兼ねた日録を書きはじめる。
平成6年(1994) 39歳
四月、第一創作集『猫又拾遺』を立風書房より刊行。
七月、生徒の人気度が低いことから予備学校側から警告ふう注意を受けた後、事実上のクビとなる。
創作集『おどるでく』を講談社より刊行、表題作で第111回芥川賞を受賞。後に発行元から洩れ聞いた「芥川賞受賞作史上最低の売れ行き」を伝えたところ、文芸評論家の田中和生氏から「とても光栄なことでは」との言葉をもらったことが忘れ難い。
九月、創作集『そして考』を文藝春秋より刊行。
平成7年(1995) 40歳
共同通信の配信で半年間エッセー「縄文の記憶」を連載。これを機に考古学(的思考)に取り憑かれる。
四月から東京工業大学で「日本文化論」の講義を担当(半期のみ、97年まで)。
平成8年(1997) 41歳
二月、詩歌句集成『漆の歴史』の限定十二部版を製本工房E(ルリユール手法)で製作。
三月、日本文化論エッセー『縄文の記憶』を紀伊國屋書店より刊行。主に関東・東北地方の縄文遺跡・遺物を探訪。〈縄文教信者〉を自称する。この頃、北アイルランド出身の詩人シェイマス・ヒーニーの詩集を集中的に読み、その第一評論集『プリオキュペイションズ』の翻訳を開始。