幻塾庵 てんでんこ

大磯の山陰にひっそり佇むてんでんこじむしょ。 てんでんこじむしょのささやかな文学活動を、幻塾庵てんでんこが担っています。
 
2014/06/29 16:08:00|雑記
こゆるぎの石
砂浜が年々狭くなっているところが多いとか。

「こゆるぎの浜」は、
広やかで、緑も多く、浜に出ただけで清々します。
7月6日も雨でなければ(雨もまたいいけれど)
浜の散歩もおすすめです。


海の見えるホールに隣接する「澤田美喜記念館」
には、隠れキリシタンの遺物をはじめ多くの歴史資料が
展示されていて、こちらも見ごたえがあります。


アオバトが海水を飲みに飛来するシーズンのさなかでもあり、

アオバトスポット(照ヶ崎海岸)→こゆるぎの浜
→澤田美喜記念館→海の見えるホール

 
がフルコースでしょうか。







2014/06/27 15:38:05|著作
柳田国男の話 書評
オランダ・ハーグを拠点にヴィオラ・ダ・ガンバの演奏活動を続けておられる須藤岳史さんの文章です。

……渡欧以来、ますます日本の文化に傾倒しており、昔から好きだった古典文学へのさらなる親しみに加え、以前はあまり省みなかった年中行事や伝統芸能への関心も高まった。「日本人とはなにか」というテーマを生涯追及した柳田国男の著作も、その味わいのある文体と親しみやすい語り口に惹かれ、時々ぱらぱらとページを捲る。先月、日本の友人から頂いた『柳田国男の話』。柳田が『遠野物語』の冒頭に「この書を外国に在る人々に呈す」と付したことを思い出させる粋な計らいに笑みがこぼれた。
 本書は「さまよえる日本人」として室井が長年寄り添ってきたボルヘス、キルケゴール、プルースト、カフカ、セルバンテスらの作品や、石川啄木、寺山修司、宮沢賢治をはじめとする著者の出身地、東北ゆかりの作家の言葉に寄り添いながら、研究でも評論でもない「雑学的雑談」を「スイッチバック」と「脱線」を繰り返しながら独自のスタイルで展開する。「雑学に近いエッセー仕立ての文が放つ雑穀的風合いに尽きぬ興趣を覚える」と言う柳田の著作に対する室井の言葉は、そのまま本書への個人的感想にあてはまる。最終章の後に添えられた「以下本篇!」という一語に象徴されるように、著者はあたかも三十六の序文を書くかのごとく、独自の思考を展開する。室井は柳田の著作を自らのテリトリーへと引き寄せ、言葉に対する鋭い刀を振るい、鮮やかに調理する。
 どんな分野においても言えることだが、その道の大家から学ぶべきことは「何を」ではなく「いかに」である。もう少し具体的に言うと、その生き方やアティテュードである。「何を」の追求が辿り着ける境地はコピー、あるいは正確な分析にすぎず、オリジナルを超えることはできない。著者は、柳田が「いかに」その文を綴ったかを学び、精錬し、読書の反動の内面化を成功させている。また連載の途中で起きた東日本大震災を境に、室井の言葉が「失われたニッポン」、「根源的に懐かしい存在」、そして「魂の拠り所」を求めての旅の色合いをよりいっそう強めていくのも印象深い。
 本書は柳田国男論の体裁をとった世界文学論であり、「魂の故地」、「原風景」を求める心の揺らぎを記した新しいスタイルの「文学」である。諧謔精神を持って、笑みを浮かべながら文学界に文学をもたらす大胆な試みだ。



 







2014/06/08 11:21:35|雑記
言葉と歩く日記
「外へ行こう」という誘いは、日本ではあまり耳にしない。……

自然の中で時間を過ごすと、複雑な人間関係や仕事の疲れでもつれた神経が元に戻るらしい……

「外」という日本語には楽しさが感じられない。むしろ不安を感じさせる。わたしの言う楽しい「外」は「アウトドア」に近いが、この外来語には少し商業的な手垢がついていて、キャンプ用品やスキー用品を買わないと自然に触れてはいけないような気にさせるところが気になる。カタカナなしで、ただ「外へ遊びに」行けばいいのではないのかと思う。子供のように。
「外」ではなく「野」という言葉もある。『あとは野となれ』を書いた室井光広さんは、外に出ることのできる人である。大抵の大人が会社で働いている平日の日中、縄文土器のかけらを捜して家の近くの「野」を歩き回っていて巡査に呼びとめられた、という話をしてくれたことがある。野を歩き回って調査していたのだから、「フィールドワーク」なのに、詩人を「野放し」にしておいては危ないということなのか、怪しげな人物なのではないかと誤解されてしまったようだ。
多和田葉子著「言葉と歩く日記」(岩波新書)より

 
藪を漕いで出たら、「何してるんですか」と呼びとめられた。
訝し気にしていたのだろう、「私、誰だかわかりますよね」と言われて、バイクの荷台に書類ケースふうのものがあるのに気づき、「保険の方ですか」と言ったのは、過疎地の少年時代の、農協職員の風情が思い浮んでしまったためらしい。「えっ!保険の人に見えますか。この格好で誰だかわからないと言われたのは初めてです」と言われ、応援もあらわれて、ようやく警官だとわかったって。


7月6日は梅雨のさなかで、外あそび向きの日にならない可能性もありますが、
「外へ」行って、山の上から海を見よう! という気分で「海の見えるホール」へお出かけください。
隠れキリシタンの遺物などを展示した「澤田美喜記念館」もリニューアルオープンしたそうです。







2014/06/01 12:23:00|幻塾庵てんでんこ
公開講座資料
ヨミカキ塾には、書かれたものを呪文のようにぶつぶつヨムこと、手書きの感触を大切にカキ記すこと、という教えがあるらしい。

童話の王様アンデルセンの日記には、「1日中書いた。舌が疲れた」とあり、
近代以降当り前となった黙読に対して、童話作家のカタリへの執着のあらわれである云々。

「形骸にすぎない書きものにカタリの身体性、肉体性を宿らせることこそ、ほんとうにほんとうの文学の使命です。それは至難のワザでありつづけていますが、ヨミカキ塾が推奨する「読むに値するテキストを折にふれて手書きしてみること」は、その至難のワザに少しでも近づくための準備運動に他なりません」と主宰者は声を張り上げる。

7月6日の公開講座での朗読をもくろんでいるらしいが、時間的にムリかと思われる。







2014/05/27 15:48:09|幻塾庵てんでんこ
現代詩手帖 吉田文憲特集
2014年6月号の特集「吉田文憲―残響へのまなざし」に一文を寄せました


アエ、トゼネノシ……

  詩人吉田文憲のケイガイに接してから二十年近くにもなろうか。
 ケイガイを、せきばらい・しわぶき、また笑ったり語ったりすることを指す謦咳と記し、畏敬する人に直接お目にかかる意の「ケイガイに接する」と受け取られてよいのだけれど、ひとたび詩人の作品に寄り添う立場に立つと、たちまち『史記』に出る「傾蓋」
()の如し(=ちょっと会っただけで意気投合し、旧知のように親しくなること)といったポジティヴなエピソードばかりでなく、「形骸」(=むくろ。生命や精神のないからだ。転じて、中身が失われて外形だけ残っているもの)のような通常の日本語使用からいえばネガティヴなイメージも重なってアラハレてきてしまう。
 吉田文憲の詩に親しんだ経験をもつ者なら誰でも、このネガティヴなイメージが孕む、ひとすじ縄ではとらえられない多重性・多層性のニュアンスを容易に共有してくれるはずである。
 詩人について客観的に論じる資格も能力ももちあわせていない当方は、以下、北秋田出身の詩人を、guestとghostのように寄り添う二種のニックネーム(?)で呼ぶことにする。
 ブンケンさんとフミあんにゃ。
 前者はともかく、後者は、おそらく私一人用だろう。あんにゃは、当方の郷里である東北南部で現在も名前につけて用いられる親称(?)である。ブンケンさんの在所の北秋田でどうなのかは詳らかでない。
「あんにゃ」という呼称にこもる暗く悲しい東北的負性を思い出さないわけではないが、ここではそうした差異も忘却したことにさせてもらう。「あんにゃ」が背負う歴史がどんなものであれ、言葉はすべてケイガイをさらす宿命をもつと居直って本稿をしたためよう。
 たとえば、「あんにゃ」と「兄貴」を並べてみると、意味的に重なるところがないわけではないだろうが、私個人にとってのナツカシサの度合いはまるで異なる。
 ヨム=読むという行為は、形骸としての文字に精神や生命を吹き込む努力をしながら、なにものかをヨブ=呼ぶいとなみに重なるはずだけれど、その努力を極力楽な性質のものにかえるのが、私の場合、謦咳に接しうる範囲の「傍にいたい」が原義のナツカシサの感触である。
 二十年近く前、ブンケンさんを私にひき逢わせてくれたのは、すでにその前からやはり根源的なナツカシサを抱きつつ謦咳に接していた文芸批評家の井口時男さんだった。私は井口氏と傾蓋故の如しの出逢いを果したつもりだったので、氏をひそかに「トキオあんにゃ」という村の呼称でよばわっていたが、ブンケンさんの中に当方がたちどころに二重映しに視たフミあんにゃの原像は、トキオあんにゃとはいささか異なり、すぐに行方不明になってしまった。詩人の消息不明は、井口時男さんが「衰弱という詩法」(『吉田文憲詩集』現代詩文庫106所収)と言揚げした――コミュニケーションの道具としての日本語が「衰弱=やつれ」を強いられる事態と関わりがあるだろう。
 若年の日々、うだつのあがらぬ詩作労働に従事した経験をもつ私は、その頃、汚れっちまった散文野郎に身を転じていたが、トキオあんにゃを介してケイガイに接することになったフミあんにゃのナツカシサを、ブンケン詩集のいたるところに見出し、深く安堵した。しかし急いでつけ加えておかねばならないが、安堵感は、通常の「ほっとする」というより、ブンケンさんが詩論・エッセー等で繁々と寄り添う折口信夫ふうに記せば「ほうとする」性質のものだった。
「ほうとする」と「ほっとする」の間には、あんにゃと兄貴との間にもひとしい差異が横たわる。しかし、ここでも差異の明確な説明はできる人にまかせ、折口の「ほうとする話」の一節を引くにとどめたい。
〈ほうとしても立ち止らず、まだ歩き続けている旅人の目から見れば、島人の一生などは、もっともっと深いため息に値する。こうした知らせたくもあり、覚らせるもいとおしいつれづれな生活は、まだまだ薩摩潟の南、台湾の北に列なる飛び石のような島々には、くり返されている。(中略)古事記や日本紀や風土記などの元の形も、できたかできなかったかという古代は、こういうほうとした気分を持たない人には、しん底までは納得がいかないであろう〉(中公クラシックス版『古代研究』Uより)
 私は類まれなる学匠折口信夫の良い読者とはいえない人間だけれど、「ほうとする話」のような一篇の前に、これまで名状しがたい感情をもって幾度も佇んだ記憶がある。右のクラシックス版の巻末解題に、この一篇の自筆原稿にありながら、『古代研究』ではカットされた箇所が引かれている。折口が削ったその一節は、学術論考にはまったくふさわしくない種類の――「さびしいなと言へば、真からため息を以て応へてくれる」読者への「ほうとした」つぶやきが見出される。「国文学」論文の、「裏」「下」「穴」ともいうべき洞窟にひびくかそけき声を、前後の脈絡を無視してもう少しだけひろっておけばこうだ――「生きても死んでも、どうにもならぬ、つれ〲な世間であった。死なうと言ふ事さへ思ひもつかぬほど、生きくたびれた人が多かった。この狭い日本の山地の上にも、さうした無言の旅行者の、最後のといきが、沁みついてゐる」
 いつ何時路傍に形骸をさらすやもしれぬ生きくたびれた「無言の旅行者の、最後のといき」のようなものを、ブンケン詩の「裏」「下」「穴」にも見出して佇ちつくした歳月が想いおこされる。
 
    *
 
 裏もしくは浦。下。穴。
 当方のいいかげんであると同時に良い加減な記憶に従って断言すれば、右のカケハシ(欠け端)語こそ、ブンケンさんの全詩業をつらぬくカケハシ(架け橋)語たりうるものと思う。ブンケン詩の縁語ともいうべきこのカケハシは、声高なイデオロギー的な言説と無縁の場所に――あのカフカの超短篇「橋」のようにかけ渡されている。それはたちまち解体して谷底に落ちてしまうのだが、心ある読者が渡り、彼岸にたどり着いたのを確かめてから、異界めいた裏、下、穴に向って自壊するような橋なのである。
 そもそも橋自体、幽霊(guestと同源のghostもブンケン詩の縁語の一つだ)のような存在だといってもいい。井口さんが「忌みとしてのやつし=やつれ、他界の一瞬の顕現に立ち会うための宗教的な儀礼のごときもの」と鮮やかに表現したブンケン詩のセレモニーが、この橋の下でとりおこなわれる。
 ブンケンさんの最初の評論集は、『「さみなしにあわれ」の構造』(一九九一、思潮社)というタイトルをもつ。その本のテーマ――中心が空虚たる「さみなしにあわれの構造」について、学術的・評論的に分析する能力を例によってもちあわせていないこともあり、ここではそれが先にふれた学匠折口信夫の「うつ‐ほ」という「欠如」と「充塡」の形式をめぐる言説に由来する一点を確認しておくにとどめる。ブンケンさんによれば、「さみなし」も、「うつ」もともにいわば「欠如において在る形式」を、あるいは「空虚」「空洞」を意味しているとされる。
 ブンケン詩集がキルケゴール的に〈反復〉してやまぬメインテーマとして私が言揚げしたキーワードの「裏」「下」「穴」と、「欠如において在る形式」あるいは「空虚」「空洞」とがカフカ的な橋によってつながっているのは見易いだろう。
 だが、そうした存在論・他界論に寄り添う詩作をする同時代の詩人は少なくはないと想像される。冒頭でふれた「中身が失われて外形だけ残っているもの」=形骸としての文字ひいては言葉そのものに「さみなしにあわれ」の構造をみてしまう無知な田舎者が、トキオあんにゃの紹介でブンケンさんの謦咳に接して以後二十年近くにわたり〈遠く呼びかけるように(つきまとうように?)〉関心を抱きつづけたことの背後には、ブンケンさんの分身ともいうべきフミあんにゃに対する「ほうとした」ナツカシサの感情が終始横たわっていたはずだ。それがなければ、汚れっちまった散文野郎が、単にすぐれた詩人であるという理由からヨム=ヨブ営みを持続させるのは困難だったにちがいない。
 フミあんにゃは、――先頃読んだ井坂洋子さんのチャーミングな著書『詩の目 詩の耳』(五柳書院 二〇一三年)でブンケン詩に寄せた忘れがたい表現をかりるなら、「読み手の意識下を一瞬明るませる」「カオスの粘液に濡れた断片」をこしらえる。たとえば、私にとって次のようなカタコトはそれにあたるだろうか。
 
  口をつぐんだまま
 
  話しかけたかった、
 
                (トゼネしちゃ…、
 
 『移動する夜』(一九九五年 思潮社)所収の表題作の8から、さらにカケハシを引いてみた。同書所収の「その人(に)」にも、
「口を噤んだまま
 話しかけたかった、」
 とハンプクされていることからもわかるように、詩人を呪縛する失語の深さをあらわす「カオスの粘液に濡れた断片」だ。「地上の裂け目、あるいはそこで生じる人であることのそれが負わなければならない宿命の
((ドラマ))、その、言葉をもったものの、それ故にかかえこむディスコミュニケーション、その表象不可能な現場」(『宮沢賢治――妖しい文字の物語』二〇〇五年 思潮社)における対話への渇望がギリギリの詩行の形でアラハレたものとして、読む=呼ぶ者に迫る。
 しかし、フミあんにゃに対して同じ仕方で話しかけてきた田舎者の私はここで唐突にキルケゴールの「ミゾオチで読んだ」という言葉のカケハシを想い起す。「すべてが行きづまるとき、思想が立ちどまるとき、言葉が口を噤んでしまうとき、説明が匙を投げてひきかえすとき――そのときにこそ、雷雨が来ざるをえないのです」(『反復』岩波文庫)
 キルケゴールのいう「雷雨」とは何かを不問に付したまま、田舎者は、先の「移動する夜」のカケハシ中のさいごの「トゼネしちゃ」のつぶやきをミゾオチに落として反芻する。
 このウワゴトめいたカケハシは、大半の読者にとって意味不明であろう。同じ東北言語圏に属する当方も、はじめは方言の一つなのでは、と漠然と推測しえただけだ。
『「さみなしにあわれ」の構造』で、ブンケンさんは、古語〈うたて〉と方言〈うだで〉と〈うた〉の関わりにふれて、「方言に古語がそのまま露出している例はいくらでもみられるし、方言とはほとんどそのまま古語の音便化したヴァリエーションだといってもいいくらいだ」と書いていた(井口さんは、既述の小考の中で、近代文学における帰郷者にとっての方言を「他者でありつつ母」あるいは「母でありつつ他者」なるものといっている)。
『日本国語大辞典』で「とぜん」(徒然)の項をみた。㈠むなしいこと。手持ち無沙汰であること。退屈であること。㈡空腹であること。「とぜんない」は、退屈である、さびしい、なんとなく間食でもしたい感じだ。口ざみしい、煩わしい、恐ろしい、すごい……といった多義的なニュアンスをもつ方言で、使用例はほぼ全国にわたる。まさしく「古語の音便化したヴァリエーション」としての方言の典型である。
 
    *
 
『移動する夜』の最終篇「生誕」の初出は一九九五年。この一篇が二十年近い歳月の後、私どもが拠るかそけきリトルマガジン『てんでんこ』第2号で驚嘆すべき再生をとげ、詩集『生誕』(二〇一三年、思潮社)として結実をみた事件について語りたいが、「それにふれることができない」としておこう。
「移動する夜」の最終行は、「(離れている)、離れながら、繋がっている」である。この種の言葉遣いはブンケン詩集のいたるところに見出されるだろう。
「なにかを言わないために、なにかを言う」
「語ることにおいて切断してゆくもの 語れないということが語ることによって露出してゆくもの」
「それにふれることができない/そこに/その息づかいが聞えるのに」
『六月の光、九月の椅子』(二〇〇六年 思潮社)からほんの少しだけひろってみたが、しかし、田舎者のミゾオチで読むべきものとして、こうした言葉遣いが、文字通り腑に落ちる≠スめに、先の「トゼネしちゃ」のようなつぶやきがどうしても必要だった一事を強調しておかねばならない。
『移動する夜』に至る三部作の最後『遭難』(一九八八年 思潮社)までさかのぼり、辞書の類ではなく、詩人自身の注をさがす。「うら、ほ」という詩篇に、
 
 「アエ、トゼネノシ……」(だれのこえ)
 
 とあり、「ああ、さびしいなあ」の意の旨が注記されていた。
 井口さんの小考にも引かれているこのカタカナ表記の方言――母語でありながら外国語ふうのひびきをもつ言葉が孕む詩的普遍性について、私は巨匠折口信夫の口真似をし、「こうした知らせたくもあり、覚らせるもいとおしいつれづれ」は、「ほうとした気分を持たない人には、しん底までは納得がいかないであろう」とまずはいっておきたいけれど、急いで、折口の愛読者には敬遠されることも少なくないもう一人の巨匠をヨミ=ヨビ寄せておこうと思う。『蝸牛考』(岩波文庫版)で柳田国男はこう記す。「トゼンという語は徒然の音というよりほかに、別の起原を想像し得ないものだが、北九州ではやや弘い区域に亙って、これを単に退屈というだけでなく、淋しいまたは腹がへったという意味に用いて、トゼネエなどという形容詞が出来ている。南秋田の海近くの地においても、自分は直接にその同じ意味に使われるのを耳にした」
 むろんブンケンさんのポエジーには、折口的な詩の「円寂」としての衰弱がもたらす「ほうとした気分」が似つかわしいのだろうが、失踪をとげて久しいフミあんにゃを探し求める田舎者は、「淋しいまたは腹がへったという」詩的なムードをこわしかねない常民的に痛切なニュアンスを、勝手に重ねつつ、折にふれて――アエ、トゼネノシ……とつぶやきミゾオチのあたりの空洞にひびかせるのだった。
 評論集『顕れる詩――言葉は他界に触れている』(二〇〇九年 思潮社)においてブンケンさんは、折口の「まれびと」を「転生しつづけるカミ」と言い止めたうえで、「それをわたしはかつて『さみなし』という言葉で象徴させたが、『まれびと』が宿り着く『うつ』なる場所を、たんなる引用論や外部を欠落させた『空虚』、『中空』の構造になぞらえることはできない」と書いている。「どこにも着地する場所をもたない『まれびと』の物語はだからこそまだ終っていない」と。
 離れながら、繋がっている裏(浦)、下、穴状の場所に棲みなすブンケンさんのポエジーさがしをつづける読者の耳にも、「まだ終っていない」のエコーがひびくだろう。「淋しいまたは腹がへった」というモノ足りなさの実感から、小児のように無いモノねだりをする田舎者のミゾオチに一瞬期待が宿る。しかし「まだ……ない」はたちまち「もう……ない」に変異してしまう。にもかかわらず田舎者は、自分にとって格別の存在感をもつ詩集――このことについても「それにふれることができない」と書いてやりすごそう――『原子野』(二〇〇一年 砂子屋書房)の中のカケハシ「いま/すでに/いま……コラージュの手紙の(書かれなかった白い′跡 を幻視しつつ、「この身のぬけがらのような夢とうつつの街」(『遭難』)にハンプクして佇みたいと願う。
 ブンケンさんを引き逢わせてくれた井口時男さんは、やはり二十年余の歳月を経た近年、俳人としての姿をあらわし当方のトゼネエ心に新鮮な糧を与えてくれたが、その中の――フミあんにゃの「ぬけがら」=形骸としての言の葉あるいは文の葉のフマレ方を連想させもする一句を拝借して終りたい。
 
 まだ云はずもう云へぬこと落葉踏む
(「新旧の句帖から」『てんでんこ』第4号より)