幻塾庵 てんでんこ

大磯の山陰にひっそり佇むてんでんこじむしょ。 てんでんこじむしょのささやかな文学活動を、幻塾庵てんでんこが担っています。
 
2014/07/19 15:49:49|幻塾庵てんでんこ
下ノ畑 黒板落首
 
批評家になり損ねた理由

われわれの幽霊塾の黒板には、〈だあれが生徒か先生かわからぬ〉人々による落書がたえない。
筆者もまけずに、一つの告知を。
誰にたのまれたわけでもない文庫新刊の案内をかって出よう。

終ったと思っていた、ちくま学芸文庫ベンヤミン・コレクションの完結版〈7〉がこの七月に。

1995年に1が刊行されて以来、じつに20年近くの歳月をかけた「全集」に限りなく近いコレクション。筆者自身、この20年近く、数限りないひろい読みを含む再読・味読を繰り返してきたコレクションで、文字通りの〈圧巻〉文庫シリーズ。
そのベンヤミンが、ゲーテ『親和力』論の冒頭近くで(コレクション➀所収)のべている「批評と注釈」の差異――。

批評家になり損ねた筆者は、批評家が、「ひとつの比喩として」語ったことに心ひかれる。

〈成長してゆく作品を炎をあげて燃える薪の山と見なすならば、その前に立つ注釈者は化学者のようであり、批評家は錬金術師に似ている。科学者にとっては木と灰だけがその分析の対象であり続けるのに対し、錬金術師にとっては炎そのものこそが謎を、生き生きとしてあるものがもつ謎を秘めている。そのように批評家は真理を尋ねるのだ。かつて在ったものという重い薪と、体験されたものという軽い灰の上で、真理の生き生きとした炎が燃え続けている〉

これは、ゲーテ『親和力』を批評するにあたって正真正銘の批評家が書いたいわば序文である。
以下、「そのように批評家は真理を尋ねる」展開となるわけだが、ここなる落書きの徒は、この序文だけですでに十分に気が済んでしまっている。「生き生きとしてあるものがもつ謎」をこの短い序文それ自体が秘めていると感じ、そこに立ちつくしてしまうのだ。

かくして、ゲーテの『親和力』についての鮮やかな批評の内容は思い出せないかわりに、この「生き生きとしてあるものがもつ謎」のアウラだけが燃え続けている。

筆者が批評家になり損ねた理由もまたこの序文の中にある気がする。







2014/07/17 12:41:00|猫牀六尺
猫牀六尺 その1
初夏の荒川土手
 




「てんでんこ」にT.S.エリオット詩集の新訳を連載している佐藤亨氏は、カメラマンとしてもスゴ腕のようだ。近著の写文集「北アイルランドとミューラル」「北アイルランドのインターフェイス」(水声社)に収められた数多くの写真もすべて氏の撮影によるもの。

ビョーキで臥しているわけではないが、自由に外を歩き回ることはかなわぬ身の上。それに同情してくれたためでもあるまいが、佐藤氏は種々の古いカメラで撮った写真を時々届けてくれる。

氏によれば、アタリ写真とスカ写真の区別が当然あり、圧倒的に後者が多いのだそうだ。そういえばこのあたりでも、アタリ猫かスカ猫かというヒソヒソ論議が繰り返されていたっけ。

ともあれ、そもそも最重要業務(睡眠)が一日の大半を占め、リード付きの庭巡回業務が限度の日常をたのしませてくれる氏のアタリ写真は、ひとりじめするのがもったいないので、リクツはあまりつけず、折にふれて紹介したいと考えている。







2014/07/16 14:26:00|幻塾庵てんでんこ
幻のヨミカキ塾生諸君へ
 まず、「三田文学」2014夏季号に掲載された田中和生氏の「理想的な批評としての序文集」の前半部分がとても興味深いので、以下引用させてもらう。

 たとえばここに素晴らしい書き手の素晴らしい文章があるとしよう。いったいその文章について批評を書くという行為は、その文章を読者にそっと差し出すという以上のものでありうるのか、というのは批評的な文章を書きはじめて以来、ずっとわたしの頭を離れたことのない疑問である。だって「この人の文章は素晴らしいよ」という意味の文章を読ませるより、その文章そのものを読んでもらった方が話が早いとしたら、批評とはまったく余計なお世話でしかないからである。
 もちろん現実には読者ひとりひとりにその書き手の文章を手渡すことなどできないし、また手渡した全員がその書き手との出会いを喜んでくれるともかぎらない。だとしたら、「素晴らしい書き手の素晴らしい文章」のために書かれるもっともすぐれた批評とは、それを読んで興味をもった読者が次にその書き手の文章を読みはじめることができる、たとえばその書き手の「素晴らしい文章」を編んだ作品集に付される「序文」のようなものではないか。つまり理想的な批評のかたちの一つは、その「序文」である。
 きわめて批評的な二十世紀の小説家であり、途方もない読書家でもあったアルゼンチンの作家ホルヘ・ルイス・ボルヘスは、生涯で読者に「素晴らしい文章」を紹介するための「序文」を二百以上も書いている。その「序文」を編んで1975年に刊行した『序文つき序文集』の「序文集の序文」で、ボルヘスは「私の知る限りでは、これまで序文の理論を樹立した者はいない」(牛島信明訳)と言っているが、そのボルヘスの挑発に応じて以上のような「序文の理論」を試みてみた。(以下略)

 

 じつはボルヘスは、「序文の理論を樹立した者はいない」の後、「この欠落は別に悲しむにはあたらない。われわれは誰しも、序文というものがいかなるものか承知しているからである」とつづけているのだが、田中氏はおそらくあえてここで引用を切断したものと思われる。
 筆者などは、「この欠落は別に悲しむにはあたらない……」のところで、ボルヘス節特有のユーモアにつつまれ、思わず頬をゆるめて終った。
 しかし、他ならぬ「欠落を生きる」というタイトルの批評文でデビューした氏は、そこで終らず、ドン・キホーテの「挑発」にのって冒険の旅の道連れたらんとするサンチョのように振舞い、笑うべきというより、〈ユーモアを手放さずに考えるべき逆説〉についての簡潔で味わい深い定義を提出した。

 幻のヨミカキ塾の塾生諸氏に、塾長がなすべきこととは? という「ずっとわたしの頭を離れたことのない疑問」とも、この問題はつながっている気がするが、それについて共に考えてみたい諸氏に、短い課題文(?)を紹介したい。

J.L.ボルヘス最初の短篇集『汚辱の世界史』(岩波文庫2012中村健二訳)のフィナーレに引かれた1ページだけのテキスト:「学問の厳密さについて」

 なお、冒頭の田中氏の文の後半については、愛読する『ドン・キホーテ』後篇第九章のタイトルをかりておきたい、曰く「読めばおのずと知れること」







2014/07/14 11:02:01|雑記
文学塾てんでんこ公開講座
緑の光に包まれる「文学の居場所」 7月6日

海の見えるホールのステージの奥はガラス越しの緑
その先に海が広がる


前日の梅雨らしい雨が上がって、光がさした                                
(佐藤亨氏撮影)

翌日もずっと雨、最重要業務(睡眠)に明け暮れる 

(写真をクリックして、拡大して見てください)          
                         







2014/07/07 12:32:02|雑記
文学塾てんでんこ公開講座


今日の空を見ていると、樹々に光があふれた昨日の「海の見えるホール」の午後が
夢マボロシのよう。
「文学の居場所」はやはり夢の中か……と、ありきたりの感慨に浸る間もなく、

次回文学塾てんでんこ公開講座は来年11月、

「多和田葉子トークセッション」と決ったそうな。

〈朗読とお話とディスカッション〉がプログラムなので、
課題図書――「言葉と歩く日記」(岩波新書)を読んで
ご参集ください、ということです。

不似合で不慣れなイベントに疲れ果てた文学塾てんでんこ公開講座の主催者が
今回の盛況に味をしめて、再度立ち上る気でいるらしい。
予定は未定……自然消滅の道を辿ることのありませんように。