まず、「三田文学」2014夏季号に掲載された田中和生氏の「理想的な批評としての序文集」の前半部分がとても興味深いので、以下引用させてもらう。
たとえばここに素晴らしい書き手の素晴らしい文章があるとしよう。いったいその文章について批評を書くという行為は、その文章を読者にそっと差し出すという以上のものでありうるのか、というのは批評的な文章を書きはじめて以来、ずっとわたしの頭を離れたことのない疑問である。だって「この人の文章は素晴らしいよ」という意味の文章を読ませるより、その文章そのものを読んでもらった方が話が早いとしたら、批評とはまったく余計なお世話でしかないからである。 もちろん現実には読者ひとりひとりにその書き手の文章を手渡すことなどできないし、また手渡した全員がその書き手との出会いを喜んでくれるともかぎらない。だとしたら、「素晴らしい書き手の素晴らしい文章」のために書かれるもっともすぐれた批評とは、それを読んで興味をもった読者が次にその書き手の文章を読みはじめることができる、たとえばその書き手の「素晴らしい文章」を編んだ作品集に付される「序文」のようなものではないか。つまり理想的な批評のかたちの一つは、その「序文」である。 きわめて批評的な二十世紀の小説家であり、途方もない読書家でもあったアルゼンチンの作家ホルヘ・ルイス・ボルヘスは、生涯で読者に「素晴らしい文章」を紹介するための「序文」を二百以上も書いている。その「序文」を編んで1975年に刊行した『序文つき序文集』の「序文集の序文」で、ボルヘスは「私の知る限りでは、これまで序文の理論を樹立した者はいない」(牛島信明訳)と言っているが、そのボルヘスの挑発に応じて以上のような「序文の理論」を試みてみた。(以下略)
じつはボルヘスは、「序文の理論を樹立した者はいない」の後、「この欠落は別に悲しむにはあたらない。われわれは誰しも、序文というものがいかなるものか承知しているからである」とつづけているのだが、田中氏はおそらくあえてここで引用を切断したものと思われる。 筆者などは、「この欠落は別に悲しむにはあたらない……」のところで、ボルヘス節特有のユーモアにつつまれ、思わず頬をゆるめて終った。 しかし、他ならぬ「欠落を生きる」というタイトルの批評文でデビューした氏は、そこで終らず、ドン・キホーテの「挑発」にのって冒険の旅の道連れたらんとするサンチョのように振舞い、笑うべきというより、〈ユーモアを手放さずに考えるべき逆説〉についての簡潔で味わい深い定義を提出した。
幻のヨミカキ塾の塾生諸氏に、塾長がなすべきこととは? という「ずっとわたしの頭を離れたことのない疑問」とも、この問題はつながっている気がするが、それについて共に考えてみたい諸氏に、短い課題文(?)を紹介したい。
J.L.ボルヘス最初の短篇集『汚辱の世界史』(岩波文庫2012中村健二訳)のフィナーレに引かれた1ページだけのテキスト:「学問の厳密さについて」
なお、冒頭の田中氏の文の後半については、愛読する『ドン・キホーテ』後篇第九章のタイトルをかりておきたい、曰く「読めばおのずと知れること」 |