幻塾庵 てんでんこ

大磯の山陰にひっそり佇むてんでんこじむしょ。 てんでんこじむしょのささやかな文学活動を、幻塾庵てんでんこが担っています。
 
2014/08/08 11:30:47|猫牀六尺
猫牀六尺 その5

荒川土手







2014/08/07 11:19:33|猫牀六尺
猫牀六尺 その4

荒川土手







2014/08/04 14:06:53|猫牀六尺
猫牀六尺 その3
上野の老猫
 
 
不忍池のほとりで
 
エサやりのおばあさんからミルクをもらってご満悦







2014/08/03 14:05:40|幻塾庵てんでんこ
〈課題〉あるいは……
カフカを「コメディアン志望のメランコリカー」と名づけた時、筆者も、『失われた時を求めて』を15秒以内で要約するという課題にこたえる時の心持ちに近かった。
コメディアンとメランコリカー(憂鬱者)をむすぶ「と」は、〈見果てぬ夢〉と〈手仕事〉をむすぶ「と」に似た性質のものといっていいだろうか。

カフカに劣らぬ勝るともメランコリカーだったベンヤミンが、子どもの本に興味をもち、収集し、その書評を書いていたことはよく知られている。
ベンヤミンがカフカに冠したのは、
「弁証法家のためのメールヒェンを書いた作家」というものだ。
いいかえれば、高度な哲学的言語による思索をこととするような者も楽しんで読むに「耐える」メールヒェンを書きえた作家。

われわれの塾の思考は、常にジグザグに進む。
当断章の読者は先刻ご承知の如く、
前後を忘れることしばしばなのである。

〈見果てぬ夢〉は、あのドン・キホーテに関わる語として広く知られている。
〈手仕事〉も、コトバ自体は難しいものではないはずだが、これはベンヤミンが特別の思い入れを込めて用いた語である(どんなふうに使われているか、幻塾生諸氏は実地に著作で確認されたい)。

前者は、ほとんど妄想に近い現実ばなれしたものにとり憑かれているイメージ。後者は、一般的に、前者と対照的な(?)手間ヒマのかかるじみな作業のイメージといったところだろうか。

さて、それでは(というツナガリにはなっていないが)、中断・飛躍を承知の上で――
カフカ文学についての批評史上、ひときわ光り輝くアウラを放ちつづけるベンヤミンのカフカ考をメールヒェンふうにひとまたぎし、ベンヤミンが、カフカの文章の中で「もっとも完璧なもの」と断定した「ひとつの草稿」を次に引く。

「サンチョ・パンサは――ついでに言えば、彼はこのことを一度も自慢したりしなかったが――長い歳月をかけて、夕べや夜の時間にあまたの騎士道小説や悪漢小説をあてがうことで、のちに彼がドン・キホーテと名づけることになった自分の悪魔を、わが身から逸らしてしまうことに成功した。この悪魔はそれからというもの、拠り所を失ってこのうえもなく気違いじみた行いの数々を演じたのだが、こうした狂行は、まさにサンチョ・パンサがなる予定だった攻撃の矛先というものを欠いていたので、誰の害にもならなかったのである。
自由人サンチョ・パンサは平静に、ことによると一種の責任感から、このドン・キホーテの旅のお供をし、ドン・キホーテの最期の時までその旅をおおいに、そして有効に楽しんだのだった」
(ベンヤミン・コレクション〈2〉所収「フランツ・カフカ」163頁)

 
このカフカの草稿に「サンチョ・パンサについての真実」というタイトルをつけたのは編者M・ブロートで、カフカ自身のそれは断片のノートである。

この「ひとつの草稿」を、「もっとも完璧なもの」と断じた時、ベンヤミンはやはり、カフカの全作品をふまえた上で「15秒以内で」その本質を言揚げするような心持ちだったと想像される。

ベンヤミン・コレクション7にふれられているように、ベンヤミンはここで、子どもだけが理解してくれるキワメツキの方法――「誇張」表現を実践しているともいえる。

ヨミカキ塾は、あまりにクソ暑いので、期間非限定の長期休暇に入る。
そこで、カフカの上の草稿を課題文として掲げておく。
この謎めいた文を読み解くためには、もちろん『ドン・キホーテ』を読まなくてはならないことはいうまでもあるまい。

だがしかし――、と、われわれは前言をひるがえしたりもする(ボルヘス曰く――前言をひるがえしたところで、どうということはない)。

〈……ねばならない〉に、われわれは疲れきっている。「必読品」などという言葉を何度か使用したが、クソくらえの声もどこからかきこえてくる。

このうえは――『ドン・キホーテ』など読むも読まぬも、めんめんのおんはからい也。
当塾の塾生兼講師の一人で、このように宣言した人もいる。

既出の井口時男氏の批評をめぐる「序」文には、やはりわれわれのてんでんこ塾が祖師と仰ぐモンテーニュの言葉が引かれているが、さらにその一行をコンテクストを無視して孫引きする。

〈ちょうど生徒たちがエッセエを出すのと同じことで、みずから教えられようがためであって人を教えるためではない〉

疲れている、あるいは憑かれている諸氏よ、時にはヨミカキのことなど忘れ、それぞれの仕方で、てんでんこ式に休養されたし。では、まっぴら御免!


 







2014/08/02 14:09:15|幻塾庵てんでんこ
〈見果てぬ夢の手仕事〉をめぐる断章
われわれのヨミカキ塾は、貧しい。
種々の貧しさをこよなく大切にする当塾のどこやらに、

〈なし得たり、風情つひにこもをかぶらんとは〉

〈心のわびをつぎて、貧者の情をやぶる事なかれ〉

とかいう古言がはり出されている。

俳聖(芭蕉)のものだったかと思われるこれらの言の葉を経文よろしくつぶやいていた先日、幻の塾生とおぼしき奇特な人から、岩波文庫2点――最新刊のヨーゼフ・ロート作「ラデツキー行進曲」(上)と、先月刊のプルースト『失われた時を求めて』7――の「さし入れ」があった。さっそく「なし得たり……」を叫びつつふし拝んだ次第である。

〈だあれが生徒か先生か……〉の唄も流れる当塾にふさわしく、その幻塾生は、『ラデツキー行進曲』(上)の217ページ(第8章オープニング)を参照されたし、とメモに記していた。
たとえ、相互の関心に差異とズレがあっても、こうしたやりとりは、当塾での理想のもの学びの形態といえるので、「絶対少数」の塾生諸氏にもおすすめしておく。
(筆者自身が何を汲み取ったかは、いずれ遅れ遅れて、何かの形をとってあらわれることと思う)

さて例によってプルーストの最新刊7の任意のページを、易占者のような手つきでパッとひらくと――

そんなわけで、昆虫の生態にかんする最も偉大な数々の発見は、こんにちでもなお、なんの実験室も器具も持たぬ学者によってなしとげられたのである。

というファーブル『昆虫記』が念頭に置かれた一行がとび込んでくる。

プルーストの大作の屋台骨に、少年時代愛読した二つの〈夢〉の本、『昆虫記』と『千一夜物語』があることは、一読すれば明らかだ。

長い歳月にわたる〈見果てぬ夢の手仕事〉によって生れたプルーストの大作は、一種子どもじみた夢の実現にまつわる呪文の本といっていい。『昆虫記』の一節は、巧みな形で大作の中に埋めこまれているし、『千一夜物語』中、最も有名な〈ひらけ、ゴマ!〉の呪文は、通奏低音のように大作の各所にエコーしている。

大作にはミリタリズムの匂いがする、という言葉が誰のものだったかにわかに思い出せないが、プルーストの大作にはほとんどその匂いがない。少年時代の子どもじみた夢がピュアな性質を保ったまま空前の虚構体に変化をとげたことと関わりがあるだろう。

プルーストの少年時代以来の愛読書『千一夜物語』中、最もよく知られている〈ひらけ、ゴマ!〉の呪文を、プルーストの話者――誰でもない「私」であると同時に誰でもありうる「私」は、さらに凝縮し、
〈あなた自身のゴマ〉を探しなさい、と不可視の読者に向けて、ささやきつづけた。

一見、哲学論考を思わせる最終巻『見出された時』で展開される、難読を強いる時の本質をめぐる考察も、じつは、子どもじみた夢の呪文の解読につながっていると知って読者はおどろく。

長い歳月、文芸ジャーナリズムから遮断された場所で、見果てぬ夢の手仕事をつづけたプルースト自身、じつはモンティ・パイソンふうの喜劇的課題(『失われた時を求めて』を十五秒以内で要約せよ)にこたえようとしたのだった。
ベンヤミンが洞察したように、プルーストやカフカの夢の手仕事は、前近代的錬金術師・占星術師(ひいては魔術師)の力をかりる性質のものであった。さらに別のいい方にかえると、現代的ユーモアをさかのぼった――メランコリーを多量に含む本源的ユーモアの力が彼らの文体を支えていた。

拙著『カフカ入門』で筆者は、カフカを、〈コメディアン志望のメランコリカー〉と命名した。もちろんカフカ作品に寄り添ったうえでの命名のつもりである。