ドン・キホーテ後篇刊行400周年記念出版
『ドン・キホーテの世界』(2015年論創社刊)
に一文を寄せました。
自由人を夢見て
「私がこれから述べようとしていることは、すでにだれかによって少なくとも一度は、ことによると何度も言われたことがあるかもしれない。しかし、わたしにとって大事なことは、内容の真実性如何であって、話題としての目新しさではない」
右は、敬愛するボルヘスの「『ドン・キホーテ』の部分的魔術」というエッセーの書き出しである(岩波文庫『続審問』所収)。
ここなる自称〈ボルヘスの不肖の弟子〉は四半世紀ほど以前、その名は思い出せない(ということにしておく)が、とある文芸誌の新人文学賞評論部門で、ボルヘスにまつわる「すでに誰かによって少なくとも一度は、ことによると何度も言われたことがあるかもしれない」テーマについて受取り直した拙作をひろってもらったのを機に著作家の末席を汚すに至った人間だ。
今、神聖で美しいものに決定的なダメージを与える意の日本語「汚す」を用いたが、他ならぬ最愛の作家の最愛の作品について再びオマージュを捧げる機会を与えられた喜びのあまり、かの哀れな郷士の如く、理性を失ったあげく、偉大な先人作家のセルバンテス頌の「真実性」に、卑小な思いを寄り添わせる一種の聖域汚し≠、おそらく本稿においても繰り返すことになるだろう。
いや、もっとドン・キホーテ的に愉快な≠烽フいいをすれば、こうした当方の滑稽にして無謀な振舞いを黙認するばかりか、使嗾してやまぬ書こそ、生みの親たるセルバンテスのいう「あらゆる不快感がのさばり、あらゆる侘びしい物音によって支配されている牢獄のなかで生まれたかのような、やせて干からびた、気ままな息子、いまだかつて誰ひとり思いついたことのないような雑多な妄想にとり憑かれた息子の物語」なのである。
いまだかつて誰ひとり思いついたことのないような雑多な妄想は、生みの親から遺伝したものだ。私はこれまで『ドン・キホーテ』を三回ほど通読した。右は、その二回目の岩波文庫版(二〇〇一年)の「序文」から引いたが、何度読んでも味わい深いので、ついでに書き出しも加えておこう。――「おひまな読者よ。わたしの知能が生み出した息子ともいうべきこの書が、想像しうる限り、最も美しく、愉快で、気のきいたものであれかしと著者の私が念願していることは、いまさら誓わなくても信じていただけよう。しかしわたしもまた、蟹は甲羅に似せて穴を掘るという自然の法に逆らうことはできなかった。されば、教養のないわたしの乏しい才知をもってしては……」
「蟹は甲羅に似せて穴を掘る」の部分が原語でどうなっているのか「教養のない」ただの読者にはわからないけれど、別の翻訳ではたしか、あらゆるものは己に似たものしか生まぬ……というような表現だったと思う。
私が本稿をものするにあたって「念願していること」は、くだくだしく説明するまでもなく、すでに明らかだろう。
目に一丁字も無い無教養な従士サンチョ・パンサが、書物の化身ともいうべき主人に対抗すべく、対話の道具としたのは、民衆知の化身ともいうべきコトワザ、しかもおびただしい数のそれであった。その中に、〈蟹は甲羅に似せて……〉に相当するものが含まれていたかどうか(あるとすればどんな表現になっていたか)にわかに思い出せないけれど、人はその器相応の言動しかしないもので、思考の範囲が限定されている意のこのコトワザは、まさしく「おひまな読者よ」と呼びかけられたわが身におあつらえ向きと思わざるをえない。
今、あらためて『日本国語大辞典』をひもとくと、自分の大きさに合わせて穴を掘るということから生れたコトワザには、「人はそれぞれ相応の願望を持つものだ」のニュアンスもあるようだ。自分の力量、身分に応じた言動をすることとほとんど同じだろうが、「それぞれ相応の願望を持つ」というところに、〈見果てぬ夢〉を見出したい含みが今の当方にあることを隠そうとは思わない。
私が、憂い顔の騎士(あるいは郷士)の物語に出遭ったのは、二十代の半ばすぎ――「人生の道の半ばで正道を踏みはずした」実感に包まれはじめた時期だ。道を踏みはずして暗い森の中に迷い込んだ後の世界文学のスーパースターの遍歴には、やはり大詩人の先達の導きがあったけれど、ただの読者の前にそうした頼もしい案内人は現われなかった。「これを読まないというのは、文学が私たちに与える最高の贈り物を遠慮すること」だとまでボルヘスが語るダンテ(の『神曲』)を正しく受けとる「道を踏みはずして暗い森の中に迷い込んだ」者が、どうして憂い顔の騎士の遍歴には、案内人無しでも「自然の法」にのっとるふうについていけたのか……ここには「わたしにとって大事な」種類の聖域汚しの「真実性」の問題が横たわっている気がするけれど、本稿の主たるテーマからはいささか外れてしまうだろうか。
読書、とりわけ古典のそれは、何より自由をたっとぶもののように私には思われる。何を、いつ、どんな状況下で読むのか、すべてが自由である。もちろん教師のすすめや教科書での出遭いがキッカケになることもあろうが、やはり人それぞれの「相応の願望」にもとづく自由選択の中に、その人にとって最も大事な何かが隠れていると思う。
自由な読書の履歴にあって文学史的時系列などはほとんど意味をもたない。たとえば私の場合、二十歳の頃、ドストエフスキー病にかかったが、その大作家が、「これまで天才によって創造されたあらゆる書物の中で最も偉大な、最も憂鬱な書物」「現在までに人間の精神が発した最高にして最期の言葉である」と称えた『ドン・キホーテ』をひもとくまでには、なお数年を要した。
ボルヘスを師父と仰ぐようになったのは、『ドン・キホーテ』体験の後である。冒頭でふれたボルヘスのエッセーを読む前に、現代文学の最前線を鮮やかに告知する『伝奇集』の中でも、とりわけ衝撃的な短篇として――「『ドン・キホーテ』の著者、ピエール・メナール」をあげなくてはなるまいが、すでに『ドン・キホーテ讃歌』などの拙著に書いたので、ここではボルヘスのエッセーの方を道しるべにしつつ、私自身の「相応の願望」を埋めるにふさわしいちっぽけな穴掘りをやらせてもらう。
ボルヘスは、『神曲』やシェイクスピア作品と比較した場合、『ドン・キホーテ』は写実的だとのべた後、すぐにその写実性が十九世紀のそれとは根本的に異なっているとつけ加える。コンラッドやヘンリー・ジェイムズが現実を小説に取り入れたのは、現実を詩的なものと考えたからだが、セルバンテスにとって、詩と真実は反意語であった。セルバンテスはわれわれに十七世紀スペインの詩を創りだしてくれたが、彼にとってはその世紀もその当時のスペインも詩的なものではなかった。ドン・キホーテが読みふけった騎士物語『アマディス』の広大かつ曖昧な地理に対して、セルバンテスはカスティーリャの埃道とうす汚い宿屋を持出す。
ボルヘスがでっちあげた二十世紀の作家ピエール・メナールよろしく、自称不肖の弟子は、師父の卓抜なエッセーをさらに「転写」したい誘惑にかられるが、二十世紀において「独創的
な作家」は存在しえないという独創的なイデーを小説の形にもり込むその語りの凡庸な模倣に終るのが目にみえているので、さし控える。
ボルヘスが語ったのは十七世紀と十九世紀の写実性をめぐる差異である。しかし、極東の島国で文学の練習生を志すバルバロイがそこに見出したのは、ヨーロッパ中心の文学に対する周縁的なまなざしだった。詩と現実が反意語で……と語るボルヘス自身の立ち位置を、卑小なわが身にひき寄せずにはおれない当方は、カスティーリャの埃道とうす汚い宿屋に思いを馳せ、それがボルヘスの故地ブエノスアイレスの「現実」に重ねられていると深読みした。ラテンアメリカの周縁の地に生れ育ちながら、最も偉大なスペイン作家セルバンテスに対し、カスティーリャ人にも劣らぬほどの親近感を抱いていたボルヘスは、セルバンテスの『模範小説集』に寄せた序文で「スペインの批評界はセルバンテスをあまりに高く評価するあまり、検討し吟味することなく、すぐに敬意を表してしまう。例えば、ドン・キホーテになることを夢見たアロンソ・キハーノの発明者にとって、ラ・マンチャというのがどうしようもないほど散文的な、埃っぽい田舎にすぎないことを指摘した者すらいないのだ」とも書いている(『序文つき序文集』所収・国書刊行会)。
東北南部の「どうしようもないほど」非文学的な奥深い山間の村に生れ育った当方がはじめて『ドン・キホーテ』を岩波文庫旧訳版で読んだ時にはさほど気にもとめなかったが、二回目の新訳版訳注の一節――「ラ・マンチャはスペインでも最も荒涼とした地方で、伝統的な騎士道物語の、城などからなる華麗で貴族的なロマンスの舞台とはまさに対照的である。いうまでもなく、これもセルバンテス的パロディの一端といえよう。ちなみに、マンチャmanchaは普通名詞で、『汚れ、不名誉』の意である」は、印象に刻まれた。
ただの読者は、漠然と、ラ・マンチャなる地名が架空のものではと考えていたので、これが実在することに少し驚いた。しかし、もっと忘れ難いのは、普通名詞の「汚れ、不名誉」をあらわすマンチャのほうだ。
世に名高い「ラ・マンチャの男」なるミュージカルをみたことが一度もない田舎者は、以後、「ロマンスの舞台とはまさに対照的な」マンチャの男をひそかに名のり、詩(歌)の十年選手から転じたことをふまえ、汚れっちまった散文野郎として生きようと決意を固めたのだった。
ボルヘスによれば、セルバンテスの文体ほど欠陥の多いものはない。繰り返し、弛み、断絶、構文の誤り、さらに無意味なあるいは不適切な形容詞に満ちているからだが、しかし、にもかかわらず「ある本質的な魅力がそうした諸々の欠点を帳消しにしたり、和らげてしまったりする」という。その理由は、「わからない」。「単なる理屈では説明することのできない類の」秘密が横たわっているそうだ。
セルバンテスの文体の「欠点」にボルヘスがどんな語を使っているか知らないけれど、普通名詞manchaが含意する「汚れ、しみ、汚点、傷」とまるで無関係とは思えない。
初読から二十年余りも後、『ドン・キホーテ』を三度目に通読した頃、鈍感な田舎者にも世界文学の巨匠たちがこの書をいかに深いところで受けとめたか等について少しはわかりかけてきたが、この期に及んでも、汚れっちまった散文野郎は、「単なる理屈では説明することのできない類の」心理をふり払えないでいた。
ラ・マンチャの男というより、ただのマンチャの男である当方がたちかえるのはその原点だ。いや、男が不適当なら、マンチャの人といいかえてもいい。
新訳が出るたび読み直したいと願いながらも、なかなか果せずにいるのだが、それぞれの特徴をもつ訳者の労作に感謝する一方、翻訳とはフランドルのタピストリーを裏から見るようなものという作中の言葉を思い出してしまったりする田舎者にとって、やはり原点にたちかえる時に重要なのは、M・プルーストのいう「魂の初版本」――つまり初読の岩波文庫旧訳版である。
「魂の初版本」のどこやらの章には、たとえば次のような対話があったはずだ。
〈「そこにおるのはどなた? どういう人じゃ。もしや、わが身に満足しておる者のひとりではないか。それとも、悲しんでおる者の仲間かな」
「悲しんどる者の仲間じゃ」と、ドン・キホーテ〉
「そこにおるのはどなた? どういう人じゃ」と、自分が訊かれたような気がする田舎者は、今なら即座に、応じる――ここにいるのは、マンチャの人です、と。
マンチャの人の脳裡には、別の章に登場する次のようなつぶやきもよみがえってくる。
〈ドン・キホーテどのには直らないでいただきたいもの……直りましたら、あの人ご自身のおもしろさだけでなく、ひいて従士のサンチョ・パンサどのの一言隻句、一挙手一投足は、気鬱症をも陽気症にいたしかねませんからね〉
不正確な引用の仕方にも、「汚点、しみ」がまじることをわびる他ないけれど、そうした正確さなど何ほどにも思わぬわがサンチョが味方してくれるかもしれないという期待もある。『ドン・キホーテ』を三回通読したそのたび毎に、田舎者の心に去来したのは、ただひたすら「自由」になりたいという一念だった。もっと具体的にして痛切なことを白状すれば、キワメツキの自由を味わうことで、宿痾の「気鬱症」を治癒させたいという「相応の願望」があったのである。
「頭をもたげて、できたら陽気になせえ……この病気をなおすにゃ、お医者はいらねえ」というサンチョの言葉を私は単純に信じた。事実、サンチョは、物語の進展につれて、類まれなる医者の役割を演じるようになる。彼はいう――「わしゃこの世におる医者のなかで、一ばん運のねえ医者だよ」と。他人の治療にわが血を流す、とも彼が語るそのキリストもどきの〈血のあがない〉に潜むものを、主人のドン・キホーテは「ふしぎな力」と呼ぶ。キホーテは従士にいう――「おまえのふしぎな能力は無償の授かり物」だと。
もうこのへんで十分だろう。愛すべきサンチョにとどまらず、わが最愛の作家――自ら作中人物の口をかりて「詩作よりも不幸に通じた男」といわしめた――の手になる作品それ自体に宿る「ふしぎな力」「無償の授かり物」の何たるかを知るのに、さほどの準備はいらない。ただ、内なるmanchaを「不幸に通じた類まれな医者」の前にさらけ出して自由になる勇気がありさえすればよいのである。
ドストエフスキーのように大っぴらに宣揚こそしなかったが、この医者にこっそりとかかった二十世紀を代表する作家にF・カフカがいることを、当方が遅れ遅れて気づいたのは、ボルヘスとはまったくタイプの異なる文人W・ベンヤミンの著作を通してだった。
自らの類まれな非商業的作品群を「汚物」と呼んだあげく、その焼却を遺言して生涯をとじたこの非凡な作家を、私は拙著で〈コメディアン志望のメランコリカー〉と命名させてもらったのだったが、ベンヤミンは親友宛書簡の中でこう書いている。
「カフカの姿を、その純粋さとユニークな美しさをゆがめずにえがきだすためには、それが挫折したひとの姿である、ということからけっして目を離してはならない。この挫折の事情としてはいろいろのことがあるだろう。たぶんかれには、究極の失敗が確かに思えてから、途上のすべてが夢のなかでのようにうまくいったのだ。かれが自身の挫折を力説したときの熱烈さほどに、思考にあたいするものはない」(晶文社版ベンヤミン著作集15)
拙著にも引いた一節だが、本稿のテーマとおぼしきものに照らして受取り直す時、ここにいう「カフカの姿」が、セルバンテスの姿に重なってしまう。「悲しんでおる者の仲間」たる憂い顔の騎士の「純粋さとユニークな美しさ」を正しくとらえるために最も大事なのは、「それが挫折したひとの姿」だという一点だ、といいかえても許される気がするのだ。
前篇のタイトルに郷士とされたドン・キホーテは、十年後に刊行の後編で「騎士」に変わる。この変化の意味合いは専門家にまかせるとして、本稿としてはすでにふれた「ドン・キホーテになることを夢見たアロンソ・キハーノの発明者」というボルヘスの言い止めを思いおこせば足りる。
「究極の失敗が確かに思えてから、途上のすべてが夢のなかでのようにうまくいった」というベンヤミンのカフカ像にまつわる言葉を、ドン・キホーテとサンチョの遍歴の旅がくり返す「究極の失敗」劇に重ねることは、さほど難しくはないと思うが、最後にもう一つ、カフカ同様の「気鬱症」者のベンヤミンが、カフカの文章の中で「もっとも完璧なもの」と断定した草稿を引いておきたい。
「サンチョ・パンサは――ついでに言えば、彼はこのことを一度も自慢したりしなかったが――長い歳月をかけて、夕べや夜の時間にあまたの騎士道小説や悪漢小説をあてがうことで、のちに彼がドン・キホーテと名づけることになった自分の悪魔を、わが身から逸らせてしまうことに成功した。この悪魔はそれからというもの、拠り所を失ってこのうえもなく気違いじみた行ないの数々を演じたのだが、こうした狂行は、まさにサンチョ・パンサがなる予定だった攻撃の矛先というものを欠いていたので、誰の害にもならなかったのである。自由人サンチョ・パンサは平静に、ことによると一種の責任感から、このドン・キホーテの旅のお供をし、ドン・キホーテの最期の時までその旅をおおいに、そして有効に楽しんだのだった」(「フランツ・カフカ」ちくま学芸文庫版ベンヤミン・コレクション〈2〉所収)
このカフカの断章は、ボルヘスが畏友ビオイ=カサレスの協力のもとに編んだ「短くて途方もない話」から成る『ボルヘス怪奇譚集』(邦訳は晶文社刊)にも収められている。「サンチョパンサについての真実」「真説サンチョパンサ」などと訳されるタイトルは、カフカ手稿にはなく、編者マックス・ブロートが刊行時に付けたものだそうである。