幻塾庵 てんでんこ

大磯の山陰にひっそり佇むてんでんこじむしょ。 てんでんこじむしょのささやかな文学活動を、幻塾庵てんでんこが担っています。
 
2023/07/08 6:06:00|その他
クラウドファンディング


川口好美さんからお知らせが届きました。
 

『エセ物語』のクラウドファンディングがはじまりました。
ここから見ることができます。
https://camp-fire.jp/projects/view/686514?utm_campaign=cp_share_c_msg_projects_show

 
 
ここに至る経緯を綴られた、法政大学出版局の「はじめに・ご挨拶」の熱度に圧倒されます。
このようなものを書き記していただいただけで、作者本人もモッテメイスベシ、と考えたことでしょう。







2023/06/12 6:20:53|雑記
『おどるでく 猫又伝奇集』


本人不在の3年9か月が過ぎたというのに、おそらくいくつもの奇跡が重なって生み出された文庫本一冊。
さまざまな思いが込められているように見える。

単行本二冊を超える内容が盛り込まれ、そのほとんどにはなじみがあっても、発見や感動があることに驚く。
「アンソロジストとしての経験と直覚」が組み上げた新たな世界なのだろう。
「死んでしまった人間というもの」として、少しは「はっきりとしっかりと」してきたのだろうか。

『わらしべ集』『詩記列伝序説』『多和田葉子ノートで』編集・デザインを担われた林昭太さんが、編集者のアイディアをもとに仕上げられたデザインも味わい深い。

川口好美さんの解説にも大いに感嘆させられた。

《目次》
猫又拾遺
あんにゃ
かなしがりや
おどるでく
大字哀野
和らげ
単行本あとがき
万葉仮名を論じて『フィネガンズ・ウェイク』に及ぶ
インタビュー 室井光広氏と語る   聞き手・加藤弘一
海に向かえ山に向かえ言葉に向かえ  多和田葉子
解説                川口好美



 







2023/05/29 5:00:42|雑記
事務長健在、とりあえず
 
幻塾を支えている事務長のもとに、爽やかな風が吹き込む


『CATS オールド・ポッサムの抜け目なき猫たちの詩集』

 T・S・エリオット 詩
 宇野亜紀良 画
 佐藤 亨 訳
 (球形工房)
 
 
    「練習生 8」
    (てんでんこ図書館)

 *収録された庵主の文章がふたつ
  X氏への献辞(詩歌句集『漆の歴史』)
  万葉仮名を論じて「フィネガンズ・ウェイク」に及ぶ(「中央公論」)







2023/05/09 4:58:54|雑記
白鶴亮翅(はっかくりょうし)



昨年「朝日新聞」に連載された作品が、276頁ものずっしりした本になっていて驚きました。

タイトルには「はっかくりょうし」とルビがふられています。
太極拳歴の長い人は「バイフーリャンチー」と読み習わしているので、違和感があるようですが、太極拳初心者は心の中で「はっかくりょうし」と言い直すといっそう愉しい気分になります。

「書籍化にあたって加筆修正」されているそうでもあり、読み直してみようとぱらぱら眺めていたら、なんとなく愉快な一節が目に入りました。

 

 インターネットというのは川幅の広い、流れの荒い濁流のようなもので、一寸法師のわたしはその水面をお椀の舟に乗ってどこまでも流されていくうちに、支流の支流のそのまた支流に入りこんで、そのうち自分が何を知りたかったのかなどすっかり忘れてしまうことも多い。
 クリックするごとに惜しげなくディスプレイに溢れる情報に視線を走らせるのだが、いくら読んでも満足感がない。いくらポテトチップを食べてもお腹が一杯にならないのと似ている。


 
 わたしには夜一人でふらっと気の向くままに出かける習慣はなかったが、そんな自分の生活習慣を破ってみたい気もした。夜一人で町に出て本屋を見て、バーに寄って一杯やってから家に帰るなんて、まるで映画の登場人物になったみたいでわくわくする。もし観光でこの町に来ているのなら夜に外出しただろうが、住んでいると仕事や雑用に追われて、歩いていける範囲内で生活するようになってしまう。大都会で暮らすのが好きだといいながら、静かな村で暮らす敬虔な女性のように日が暮れたら外に出ず、自炊して本を読みながら寝るだけだ。







2023/04/27 5:00:00|文芸誌てんでんこ
アリギリスの歌 「てんでんこ」最終号用?

わが〈読者教〉教祖ボルヘスの全体像を知るのにうってつけの一冊に『ボルヘスとわたし』(牛島信明訳)がある。自撰短篇集とタイトルに記されているが、本書が異彩を放つのは、その収録短篇のすべてを著者自身が選択していることの他に、教祖の自伝並びに教祖自身の自作注釈を含むことである。「ボルヘスとわたし」が、虚構の短篇の一つのタイトルであるのも、いかにも教祖的だ。

自身をも他者とみなして対話をつづけた教祖のキワメツキの一冊として長い間、愛読してきた次第だが、久しぶりにページをめくると新しい発見があった。といってもささやかなことだ。自伝風エッセー中の、二十代半ばに出した第三詩集『サン・マルティン・ノート』へのカッコ書きの補足部分をこれまで読みすごしていた。思潮社版海外詩文庫『ボルヘス詩集』(鼓直訳篇)では、〈サン・マルティン印の雑記帳〉として四篇収録されているが、この題名について、サン・マルティンという「独立運動の国民的英雄とは何の関係もなく、わたしが詩を書きつけていた古びたノートブックの商標名にすぎない」と教祖はさらりと言ってのけていた。海外詩文庫版が、「サン・マルティン印の雑記帳」と訳した苦心がしのばれる。


教祖の原点を示す「古びたノートブック」がどんなものだったか知るよしもないが、ヒラ信者の当方にとって、教祖の活動全体が、根源的な〈ノート作家〉の精神にもとづくものであるように思われてならない。

極私的なものが極史及び極詩的なものに重ねられる教祖の自伝の中でとりわけ信者の心を揺さぶるのは、田舎者(アルゼンチン人)がヨーロッパに渡った時に体験したエピソードの数々である。たとえば文化後進国出身の青年が、マドリードに行ってあたためた友情の話など、「忘れることのできない」のは、教祖ばかりでなく、われわれも同様である。「今でも自分を彼の弟子と見なすにやぶさかではない」と教祖が言う詩人カンシーノスに人を介して会った際、おずおずと海をうたった彼の詩を称賛する若き教祖に、「ああどうも」と彼は言い、こうつけ加えたという――「死ぬまでに一度でいいから海を見たいものです」

井の中の蛙を自認する若き教祖は、このやりとりに対して何も書かず、かわりに次のように記す。

「カンシーノスにまつわる最も顕著なことは、彼が金銭や名声などに頓着することなく、完全に文学のためだけに生きたという事実である」

世界的名声と同時に失明という不幸に見舞われた教祖は、以後、根源的〈ノート〉を闇の中に移動させた。自伝の言葉をかりればそれは「ポータブル」になったのだ。

 

*四月中旬に下郷町を訪ねたK・Yさんが、志源行の写真を送ってくださいました。
7軒が暮す集落の墓地が写っています。

*「アリギリスの歌」全22本が冊子になります。
詳細はメールフォームでお問合せください。