幻塾庵 てんでんこ

大磯の山陰にひっそり佇むてんでんこじむしょ。 てんでんこじむしょのささやかな文学活動を、幻塾庵てんでんこが担っています。
 
2016/12/30 12:40:39|蟷螂斧記
夢の読書目録


○月〇日
眼が弱くなり、本の匂いをかぐのがせいいっぱいの日々……
せめて、魂の糧としてさし入れられたものを眺めるだけでも、とかんがえるうち、昨年の正月に届けられたヘンリー・ミラーコレクション(水声社)L『わが生涯の書物』を想い出した。
ミラーの文学と人生に決定的な影響を与えた書物について、ミラー自身が詳述するという破格の本。
巻末には1950年に作家自ら作成した読書日録がある。実に576頁に及ぶ大著は訳者8人の手になる。その訳者の一人佐藤亨氏が当方の最も古い友人で、この四半世紀余の物心両面のさし入れの主である。

本篇をさしおいて付録のほうに眼がいくのは、序文や後記にひかれる当方の習癖……

T「読書リスト」は120頁に及ぶ質量ともに圧倒される内容だが、驚愕の念に加えてしみじみとさせられるのは、
U「今なお読むつもりでいる書物」
V「書物を提供してくれた友人たち」――。

愛読の『ドン・キホーテ』中の、名高い「愉快にして大々的な書物の詮議」の章(前篇第六章)を重ねつつ、ミラーという作家が20世紀アメリカ文学を代表するすぐれてドン・キホーテ的な作家であると、あらためて体感させられる一書。

「今なお読むつもりでいる書物」や「書物を提供してくれた友人たち」のことを思うと、貧老にもそくそく生きる喜びが湧いてくる。

この一年余りの間でも、件の佐藤氏から3冊のジョルジョ・アガンベンの著作がコツジキの元に届いた――『スタンツェ』(ちくま学芸文庫)『中身のない人間』(人文書院)『開かれ』(平凡社)。
「今なお」通読できていないにもかかわらず、良い匂いのする本だと、めくるたびめくるめくような感覚につつまれる。

佐藤さん、今年も本当にお世話になりました。合掌。

 







2016/12/24 12:31:33|蟷螂斧記
最後の者たち
冬至の夜明け


○月〇日
《ギョーカイ人の死》宣告からすでに十年余り……《寄らば大樹の陰》ふうの大組織から遠く離れた〈野〉の暮しが板についてきた。
当然の如く、大組織がらみの刊行物が届くこともなくなった。
爽快なことである。

しかし、ごく稀に、例外的にさし入れされるものはある。それが単独者の匂いの濃い手仕事であるような場合、全盲に近い状態になったのと時を同じくして図書館長に任命されたわが師ボルヘスのような心持ちになってしまう、といったらおこがましいだろうか。

さらにもう一人、その名を記すのもはばかられる師の作家が、病を得た晩年にもらした言葉――読むためには、「疲れすぎている。閉じているというのが、僕の目の常態だ、けれども本や雑誌と戯れていると仕合わせです」も想いおこされる。

凡愚の貧老も、疲れている。
本日、アイザック・シンガー『メシュガー』(吉夏社)が訳者の大崎ふみ子氏から届けられた。多謝叩頭。
メシュガーとは、イディッシュ語で「気が狂った、正気を失った」の意の由。ユダヤ人作家最晩年の長篇。
近い将来、精読したいものだが、今は眼をうったその最終行を――

「きみとぼく、我々はラバのようなものだ」と私は答えた、「一つの世代の最後の者たちなんだよ」

ああ、ラバのようなもの。当幻塾庵の「きみとぼく」も……?!

 







2016/12/20 12:59:00|蟷螂斧記
「生を引き受ける」ということ
西の山の端に明け残る、今年さいごの望月


庵主のノートの一冊「蟷螂斧記」(とうろうふき)より

○月〇日
川口好美さんの「群像新人評論賞」優秀作を読んで、あらためてヴェイユを……と思ったが、身辺整理をくり返した貧老の手元にはあいにく一冊もない。
そこへ「猫床六尺」の写真家佐藤氏からシモーヌ・ヴェイユ『重力と恩寵』(ちくま学芸文庫)のさし入れが。
十数年にわたる佐藤氏の厚情に感謝の言葉もみつからない。

○月〇日
木こりをしながら「てんでんこ」に毎号小説を書きつづけた綱島啓介さんは当方の還暦記念に《猫》とよばれる軽くてあたたかいソデ無シハンテンをさし入れてくれた。
ソレを着て、さっそくヴェイユを読もうとしたが、風邪をひいてしまい、断念。

○月〇日
川口さんの受賞作について、毎日新聞文芸時評が「一言触れてくれたようだ」と、風の便りで知る。
かつて古代オリエント粘土板文書が苦労のすえに解読された。そこには〈最近の若者の考えていることはわからん〉という旨のことが刻まれていた由。
今日たまたまひらいた『今昔物語』巻28の第四に――
〈このごろの若き人は、思い遣りも無く、ソラゴト(虚言)をする也〉と。
貧老も、この重複言をつぶやきたくなるご時世だが、当庵ゆかりの「若き人」、綱島・川口両君は、そのつぶやきをとめた。

○月〇日
「現代詩手帖」12月号の座談会〈2016年展望〉――「生を引き受けて書かれる詩」――の写しが、例によってありがたい佐藤氏からさし入れ。
稲川方人氏の発言に眼が吸い寄せられた。「このごろの若き人」をめぐる愛情を込めた苦言に感動。
当庵ゆかりの詩人が「苦言」を免れているように読んだのは、あるいは当方のヒイキ目も手伝っているかもしれないが、一箇所だけ、氏の発言を写しておきたい。
〈描写の繊細性、繊細に描写することにつよい意識を持っている。そこは読んでいて安心します。少ない言葉っておっしゃいましたが、ノイジーではないということですよね。(中略)平田さんはどれだけ描写からノイズをとり除いて作品を成立させるかに、全体を通じて繊細な注意を払っている。ぼくの言い方で言うと、ずっと長く読んできた日本語で書かれた戦後詩の、自分が好んで読んできたある傾向を壊さないでこのように維持できるということを平田さんが書いている。そのノイズを払った感性がまだこれだけ成立するということがうれしかった。(中略)これだけノイズを排してまだ時代を書けるということが頼もしかったです〉
日本語で書かれた詩的遺産への深い「思い遣り」を手放さず、稲川氏のいう「疲弊しながら傷つきながら引き受けていること」――こうした一種古風で反時代的な若い表現者が「まだこれだけ」いること――しかもそれが、何事かを引き受ける魂の《代参者》を御大切にする当庵ゆかりの人でもあることに、門外漢の貧老もすっかりうれしく頼もしい心持ちに染まった。







2016/12/14 12:04:17|下の詩歌畑
代参者のプラハ詣で


幻塾庵ゆかりの詩人と作家の近作

平田詩織さんが「現代詩手帖」(2016年8月号)に発表した「プラハ」と
村松真理さんが「草獅子」創刊号(2016年11月23日)に発表した
短篇小説「黄金の虎男

庵主はジャンルの異なるこの二篇を、勝手に代参者のおみやげとして読み、いたく好感を抱いた。
後者には一度だけ「カフカ」の名が出てくるが、プラハ紀行として書かれたものではないし、前者の詩にはカフカのことなど書かれていない。
ニモカカワラズ、庵主は二つともテンデン講の「モラヒ」とみなした。

カフカのプラハ詣で――は、庵主が夢の中でか、妄想の中でしか実行できないものの一つなれば。







2016/12/12 13:51:00|下の詩歌畑
下の詩歌畑
昔は、伊勢参りとか熊野詣とか庶民が一生に一度はと念じていた旅は「講」でおこなわれたそうな。
代表者が行けない人のぶんまで思いを背負ったのだね。

幻塾庵の庵主も、下流老人に近い身の上であることから、てんでんこを時にテンデン講などといいかえ、「出入り自由な牢獄」で、井の中の蛙をきめこむ身の「代わりに」旅に出ておみやげの文や詩歌句や写真を届けてモラウ、と虫のいいことを考えている。

新設の「下の詩歌畑」が「猫床六尺」の写真同様、当庵に心を寄せてくれる諸氏のナグサメになれば幸いである。

と念じていたが、肝心のものがなければどうにもならない。
と、そこへ、渡りに舟みたいに「代参句抄」(?)を寄せてくれたのは、昨年『天來の獨樂』(深夜叢書社)で俳人デビューをした文芸評論家の井口時男さん。


 

 耶麻渓の水に暮れゆく秋の旅

 暁の星冷え冷えと阿蘇眠る

 
夜神楽を夢に封じて霧の郷(高千穂)

 山翳り椎葉の野菊吹かれゐる(椎葉村)