佐藤亨『北アイルランドを目撃する』(水声社):左
てんでんこ図書館「練習生2」:中
井口時男『金子兜太』(藤原書店):右
それでも、春はやってくる
じむしょにも、春の便り
「希望はある!」という呟きもエコーする
『北アイルランドを目撃する』に寄せた庵主の文章
正しく不安になるということ
――佐藤亨『北アイルランドを目撃する』に寄せて
流行「外れ」となって久しい反時代的思想家キルケゴール(の操る偽名著者)は、『不安の概念』の最終章を、不安な気分の何たるかを知りたいと思って冒険の旅に出かけたグリム童話の若者のことから説きおこしている。その冒険家が旅先でどんなおそろしい目に会ったかについてはおあずけにしたうえで、キルケゴールの偽名著者はこうつづける――不安な気持ちになることを学ぶというのはあらゆる人間がくぐりぬけなければならない冒険であり、正しく不安になることを学んだものは、最高のものを学んだものである。
グリム童話では「恐い思い(をさせられること)を知りたくて……」だが、キルケゴールの表現でははじめから「不安を学ぶ」となっている。この微妙な差異も胸にたたんで、私は佐藤亨の長い年月にわたる仕事について、思いの一端を語ってみたい。
佐藤がアイルランド、ひいては「紛争」を抱えて苦しみつづける北アイルランドにそもそもどんな機縁でどっぷりとつかることになったかをめぐって詳細を知るためには、二〇〇五年刊の佐藤の著書『異邦のふるさと「アイルランド」』をひもとく必要があるが、ここでは紙幅の余裕もないので、「南をもとに形成されてきたこれまでのアイルランド像を問い直したい」(「はしがき」)というモチーフのみ引くにとどめる。
この問い直しをキルケゴール思想でいいかえるなら〈受取り直し=反復〉となろう。牧歌的風景や素朴な生活といったアイルランドの光の部分に「北」の影を二重うつしにする〈反復〉の冒険において、佐藤が「旅の道づれ」としたのが、長年の付き合いで身体感覚ふうの操り方が可能となった――佐藤の偽名著者ともいうべきカメラである。
木島始の訳詩集タイトルからかりたという異邦に「ふるさと」をみる旅は、佐藤亨をして冒頭にふれたグリム童話の若者に変身させたと私は推測する。そう、佐藤こそは「ゾッとする味を知りたいと思って」、ヨーロッパの「外れ」に出かけていった永遠の青年なのである。
今度で三冊目になる北アイルランドの写文集のいたる所に見出される「恐ろしいもの」について考える時、私はいつだったか「なぜ北アイルランドなのか」という自問に、佐藤が「臆病だから」だといい、写真は「怖い場所」で獲た一種のエモノなのかもしれないと語ったことを思い出す。キルケゴールの偽名著者のいう「不安が深ければ深いほど人間は偉大なのである」を、写文集を眺めながらかみしめた所以である。
グリムが用いたドイツ語 gruseln は「ゾッとする」意味だが、キルケゴールのいい方では、「不安を学ぶ」となっている一事を再度引き寄せたうえで、私は、世界に数多い危険な地域に出かけてゆくギリギリのスタンスを垣間見る。
『異邦のふるさと「アイルランド」』の終章で佐藤が言及したフロイトのホフマン論に顔を出すドイツ語ハイムリッヒ(秘密の、わが家のような、居心地のよい)は忘れ難い。フロイトによれば、同語はときにその反対語であるウンハイムリッヒ(不気味な、ゾッとする、不吉な、縁起の悪い)と同義になりうるというのだ。フロイトはグリムの辞典を引用しつつ、「故郷のような」ものが「秘密の、人目に隠されている」ものへと、さらに「無気味なもの」につながっていくことを例証したのだった。
佐藤亨が、異郷の地で反復して正しく学んだ「ふるさと」の二重イメージがいかなるアウラにつつまれているか、読者は、本書がみちびく〈見ることは信じること〉の体験の中でありありと目撃するだろう。