「群像」12月号に掲載された井口時男さんの文章です
「田舎者」の世界文学井口時男
九月二十七日の夕刻、奥様からメールがあり、室井光広氏が亡くなったことを知った。一昨日の抗癌剤治療中に昏倒して心肺停止状態になり、懸命の救命処置が施されたが「今日11時半に死亡宣告」とあった。
六月半ばに入院してからわずか三カ月半、悪性リンパ腫は急激に彼の肉体をむしばみ、恐るべき力で拉し去ったのだ。
しばし呆然としたのち、ふと思い当たることがあった。
その日午前十一時半ごろ、残暑の日盛りの中、私は近所を散歩していた。いつもどおり用水路沿いに歩いた後、めったに通らない細道に入った。左側に柵で囲われた梨畑があり、太くて大きな網目の頑丈なネットが廻らせてあったが、そこで黒い揚羽蝶がしきりに羽ばたいていた。近づいてみると、頑丈なネットの上半分に網目の細かい薄いネットが二重にして掛けられていて、その薄い二枚のあいだに閉じ込められてもがいているのだった。私は彼自身がそこから入り込んだのであろう二重のネットの下の隙間から手を入れてそっとつかまえ、珍しいことなのでスマホのカメラで撮影してから放してやった。
スマホの写真のプロパティを確認すると、撮影時刻は「11:24」だった。私はうろたえた。
これはまるで、室井光広の愛用語でいう「コウインシデンス」(coincidence、偶然の一致、符合一致)、彼の小説の言葉でいえば「ねこまたの聞かせ」(虫の知らせ)ではないか、という奇怪な思いに襲われたのである。もがきあがく彼をとらえていた薄くてやわらかい二枚のネットは生と死の境界の皮膜ではなかったか、それなら私は彼を「解放」してやった(「解放」してしまった)ことになるのではないか、と。
蝶を人の魂の化身とみなす伝承は洋の東西に古くからあるらしいのだが、私はとりわけ黒揚羽を、幽明の境をゆらぎつつ翔ぶ蝶のように思っていたのだった。実際、暗い木陰などからまばゆい陽光の中へ彼が不意に現れるとき、光と陰のあわいがほのかにゆらめくように感じられるのだ。
むろん私は神秘主義者でも運命論者でもないから、黒揚羽の印象も、近ごろ俳句を作っている私のその場かぎりの「詩的」な修辞的感慨みたいなものにすぎない。だが、それゆえなおさら、この「符合一致」にうろたえたのである。
私に比べれば、室井氏ははるかに神秘主義に関心も造詣もあったようだ。しかしたとえば、遭遇した「コウインシデンス」体験の数々を書き留めた手帳を所持しているという作中人物を登場させるとき、その手帳を略して「デンス手帳」と呼ぶ滑稽化・卑小化の手続きも彼は忘れていなかった。「デンス手帳」は「電子手帳」の東北訛り風のもじりだろうが、私の耳には、「デンス」の背後に、子供の頃の人気コメディアン・トニー谷の奇態な語尾「ざんす」や漫画の中の相撲取りの「ごんす」の「エコー」(これも室井用語だ)が聞こえるのだ。私の鈍感な耳に聞こえる「エコー」が鋭敏な氏の耳に聞こえなかったはずはない。
室井氏には、彼の愛した作品になぞらえるなら、ロマン主義的夢想家ドン・キホーテとリアリストの批評家サンチョ・パンサがいつも同居していた。
たしかに彼は猪突するドン・キホーテの一面があった(同時に彼は「憂い顔の文士」でもあったが)。ボルヘス論でまず批評家としてデビューした彼の猪突する行く先は最先端の「世界文学」である。彼はボルヘスを語りパウンドを語りプルーストを語りカフカを語りジョイスを語った。
それはあくまで「語った」のであって「論じた」のではない。論じる者は(この私もそうだが)高みに立って自ら権威ある者のごとく対象を裁断しがちだ。だが、そうすることを彼の中のサンチョ・パンサが許さない。旦那は英雄なんかじゃありませんよ、ただの「田舎者」にすぎませんよ、とサンチョが耳元でささやくのだ。
だから氏は、「田舎者」という低い場所に留まりつづけた。その低い場所で、これも彼がキルケゴールの「反復」という概念を「翻訳」しほどいてみせた室井用語でいえば、「世界文学」を何度も何度も「受け取り直し」、きちんと「受け取り直した」ことだけを語ったのだ。論じる者が結論=真理へと急ぐのに対して、語る者は、猪突することなく、語ること自体の愉楽を味わうようにテクストを自由に「遍歴」しつづける。
「世界文学を読む田舎者」――約めていえば、それが室井光広の立ち位置だった。滑稽に響くかもしれないが、しかし、中上健次だって大江健三郎だって、「世界文学を読む田舎者」だったのだ。さかのぼれば、近代日本の文学者がすべてそうだったのだ。そして子規以来、漱石以来、そのことを自覚してきっぱりと引き受けた「田舎者」だけが日本文学を推し進めてきたのである。中野重治(『斎藤茂吉ノート』)はそれを称して「『田舎者』の自己樹立」と呼んだのだった。
だから氏は、「田舎者」に方法を与える思想家として柳田国男を選び取り、最初の小説『猫又拾遺』から死によって未完に終った最後の長篇『エセ物語』まで、氏の故郷である南会津の貧しい山間の村をモデルにしつづけた。いわば「室井サーガ」である。
『猫又拾遺』と総題される十二篇の掌篇群は、奇譚の背後に「世界文学」や芸術論・文学論などの「エコー」が聞こえるという意味でボルヘス的であり、同時に、「猫又」と名付けられた土地にまつわる説話や世間話の「拾遺」として柳田の『遠野物語』的でもあった。そしてそれらは、人物を一筆で描き、ハナシを一息で語り切る氏の高度なカタリの能力や詩人的文才を見事に証してもいた。
だが、三作目『かなしがりや』あたりから語り方ががらりと変わって、人物やハナシは後景に沈んでしまう。「かなし」や「そして」(『そして考』)といった言葉の繊維をほどいては結び、またほどいては結び直す「言葉いじり」が前景に出て、やがて小説の全面を覆うことになる。カフカの語った「オドラデク」は父子関係の寓話(ハナシ)として読めるが、それをほどいてもどいた『おどるでく』は氏のいう「実践的批評」として展開された日本語論なのだ。そして、『エセ物語』は、日本語(会津方言)と朝鮮語と中国語の間で「結んでほどいて」を繰り返す終り(目的地)なき言葉の「遊戯=遍歴」の連続なのである。
小説は言葉という繊維で織られた織物(テクスト)だ、とは今や誰もが口にする「常識」だ。しかし、みんな知っているだけだ。それを実践してみせたのは室井光広だけである。そこでは人間さえも言葉の織物なのだ。
この驚嘆すべき「言葉いじり」の背後にいるのは、ボルヘスではなくジェイムズ・ジョイスである。しかしまた、それはやはり、たとえば地名研究などで展開された柳田国男の方法でもある。柳田は固定した漢字をひらがなにほどき、声にほどき、その声をゆらし、ゆらぐ声の彼方に別な響き(エコー)を聴き取る耳を持っていた。
ハナシ(物語)は主語―述語の連鎖として統辞的に進行するものだが、氏の小説では、シンタックス中の一語がたちまち音の類似や連想によって範列的にほどかれ増殖して、そのあげく、あたかも広漠たる己が言語野に踏み迷い、踏み迷うことを楽しむかのごとく、方向を見失ってしまうのである。こうして小説から「人情」も「世態風俗」も消え、「物語」も消える。
『おどるでく』は幸運にも芥川賞を受賞したが、こんな歌劇で風変わりな前衛に世間がついて来られるはずがない。しかも世は村上春樹(物語、ファンタジー)が全盛期を迎えつつあったのだ。しかし、孤立と無理解は少数者の負う栄光でもあるはずだ。(私はひそかに思う、室井光広の一連の「言葉いじり」小説は、いつか日本語版『フィネガンズ・ウェイク』を書くための困難な、しかし楽しげな、長い長い試行ではなかったか、と。)
私は単行本『猫又拾遺』の書評(「図書新聞」一九九四年六月二十五日号)の末尾に、「”言葉いじり”は時に玩物喪志になりかねない。だが、作者が立っているのは、俳句分類に没頭した子規においてそうであったように、”言葉いじり”こそがモラルであるような地点である」と書いた。
それは、政治(革命)という「大きな物語」終焉後の文学のあり方に関わっている。そのなかで、宗教や神秘主義という別な物語に逃げるのでもなく、メタ・フィクションという「物語いじり」の流行に乗るのでもなく、文学の原基である言葉そのものに立ち返ろうとする姿勢にこそ「モラル」を見たのだ。
『大洪水の後で――現代文学三十年』に当時の時評や書評の一部を収録し、その「あとがき」にも書いたとおり、当時私は「マイナー文学論」なるものを構想していた。私自身の怠惰によって実現しなかったその構想の中心には、「群像」新人賞出身でほぼ同時期に芥川賞を受賞して世間に認知された「言葉いじり三人衆」、室井光広、多和田葉子、笙野頼子が並ぶはずだった。
その後、多和田や笙野は国際化やフェミニズムという新たな「問題」にリンクしたが、室井光広はそうした「問題」そのものへのリンクを忌避するように、凹んだ低い位置に、家屋の片隅にこっそり隠れ棲む「スマッコワラシ」(室井流東北民間伝承版のオドラデクだ)みたいな場所に、留まりつづけた。
室井氏は東日本大震災後に「てんでんこ」という雑誌を創刊し、私も寄稿させてもらっていたが、その十二号が届いたのは彼の死の前日だった。彼自身はついに見ることがかなわなかったというその十二号に、彼は「ディヒターの心配――多和田葉子ノート」を載せている。そこで彼は多和田葉子を「ディヒター」(Dichter、詩人・作家)と呼ぶのだが、室井光広自身がまぎれもない「ディヒター」だった。彼は、初期の批評文で宣言した詩と批評と小説の「三位一体」を実践しつづけたのである。
「現代詩手帖」二〇一七年九月号の室井・多和田対談には、言語観と文学観の根本を共有する者同士の親密感があった。多和田葉子は日本語を国境を越えて「外へ」と開き、室井光広は日本語を会津弁という「内へ」と開き、両者ともに、開きつつ脱臼(異化)させて日本語の文学に新たな可能性をもたらそうとしていた(している)のだ。
氏のいうとおり、ボルヘス(アルゼンチン)もキルケゴール(デンマーク)もジョイス(アイルランド)も「田舎者」である。ほんとうは、地球が球体だと判明した時から、世界に中心などなくなったのだ。中心(権威、権力)なき世界で地方(田舎)同士が自在に結んでほどきほどいてまた結び合うネットワークとしての世界――それが、時に「玩物喪志」と見せかけつつ、室井光広の文章が「三位一体」で提示する世界像であり、文学の「モラル」にほかならない。
*「六月半ばに入院してからわずか三カ月半」は、井口の勘違いによる事実誤認で、正しくは「七月初めに入院してからわずか三か月足らず」でした。室井さん、申し訳ない。――井口時男