転がる

とーってもゆるやかに思ったことを綴る
 
CATEGORY:短篇

2011/04/03 0:20:06|短篇
最近の
わたしは彼のにおいがすきだった。
キャスターマイルドと香水、柔軟材の香りがまざったものが彼のにおいだった。
彼の家に泊まりに行けばわたしの洋服や髪にそのにおいがつくから、離れていても一緒にいる気がして、多少は寂しさが紛れた。
彼のにおいが好きすぎて、わざとわたしの洋服を着せたりもした。
そうしてわたしの部屋も彼のにおいでいっぱいになればいいと、淡い夢を抱いていた。
本能的に好きになってしまったから、本能的に嫌いになるまでわたしは彼のことを愛し続けるんだろうなと単純に思っていた。
そして結局今も関係は続いている。
一年半を過ぎてみて改めて思うことはやはりまだまだ愛情は深まるということで、その事実にわたし自身が一番驚いている。
どうしてだろう。
自分でもわからないほどわたしは彼のことが大好きだ。
好きだとはっきり言葉にすればするほど気持ちは大きくなって、そしてそれを伝える行為に限界があることを知った。
いくら身体を重ねても、いったいわたしの中にある想いがどれだけ彼に伝わっただろうか。
そして彼も同じようにもどかしく想っていてくれているのか。
言葉も行為もし尽くしてしまったように思えて、これからがとても不安だ。
大好きな人と一緒にいれることを幸せと思える時期が過ぎようとしている。
嫌いになることよりも好きという感情の存在を持て余してしまいそうで怖くなった。
そう、彼も想ってくれているだろうか。
.
問いかけるようにわたしはたくさんの方法で彼に気持ちを伝え続けようと思う。









2011/04/03 0:19:11|短篇
世を齧る
わたしは脳みそからすべてにおいて彼に洗脳してほしいと願った。
わたしを彼のためだけに生かしてほしいと思った。
そうすればわたしの生きる目的が明確になり、さらに彼に服従することでわたしは満たされるから、人生なんて大それた言葉を簡単に片付けることができる上、周りに気を遣うことなくただそれだけに集中すればよかったから、とても効率のいい方法だと思った。
とにかく難しいことは考えず夢中になれるものをわたしに与えてほしかった。
そしてそれをわたしがわたしでいられる唯一の方法だと確信して疑わずにいた。
しかし、彼がわたしに関心を持たなくなることは明らかで、都合のいい女としてしか見ない彼に復讐することが次の目的となり、そして彼がわたしの思惑通りにこの世からいなくなると、またわたしも一緒にいなくなるのだと失望するどころか納得してしまって、わたしの脳みそはその喜びに満ち満ちていた。
しかし、目的を達成して終わりを迎えた直後にわたしはひどく彼のことが恋しくなった。
とても寂しいと思った。
あれだけ繋がっていた人がたちまち息をせず、まるでもののように転がるだけで何もできない。
彼の人生はこんなものだったのかとしばらく悲しみに包まれながら横たわる彼を眺めた。
いったいわたしの目的はなんだったのだろうか。
彼に依存することで得ていた満足は彼がいなくなったことでどこへいったのだろうか。
わたしはこれから何で満たしていけばいいのか。
自分の存在が居なくなるどころかより浮き彫りになってわたし自身を追い詰めることに発狂しそうだった。
そうだ、きっと彼は違う場所へ出かけていったのだ。
そうに決まっている、この世では自分のからだを持っていくシステムがまだないから、きっと彼は外見を置いていったのだ。
ああ、だからわたしはまだ存在しているのだ。
このわたしが持っているナイフが違う場所へ行くための道具なんだと自分自身をコントロールし、わたしは少しも躊躇わずに彼と同じところにナイフを刺した。
鈍い痛みの中で彼の外見がわたしを歓迎しているように見え、そしてわたしはやっと自分の人生という価値を見出した。
.
20代男女の無理心中。
記事はとても小さく、地域欄にしか載らなかったけれど、それはとても意味のある事件として彼女はどこからか見ているかもしれない。



了.






2011/04/03 0:17:44|短篇
片吟
 その男の子は片吟と呼ばれていた。足がもともと悪く、歩幅を狭めないと歩けないためちょこちょことすり足で歩く。運動は当然満足にできないからむくむくと身体は成長していき、くびれなどとは縁遠い体系になってしまったため、その様子から片吟に似ていると誰かがあだ名を付けたことで周囲に浸透していった。そして彼は“歩”という人物から片吟になった。
 片吟とは飛べない鳥の当て字だ。正式には難しい字を書くらしいけれど興味がない上に画数が多かったので覚えていない。私の関心なんてものは一部分にしか過ぎず、小さくても満足を得た時点でどこかへと放り込まれてしまう。興味のあること以外に何も求めない冷め切った思考が私をこういう人格へと育てた。それは私という個人だから許されることで、きっと、ましてや片吟になんて許されることではなかった。私は片吟と同じ病室にいることが耐え難い事実として一秒一秒神経を啄まれることに嫌気が差していた。

「あまりにも空が近いように思えてしまって、そのときなぜか飛べるような気がして柵を越えたのだけれど、結局はまたひとつ怪我を増やして同じ場所に帰ることになってしまった」

 片吟はそういってはははと軽快に笑う。ついこの間階段から落ちて足を骨折したらしい。彼の足を模ったギブスが異様な存在感を発していた。そして今度は腕に分厚いギブスを巻かれている。どうしてか、この人は脳みそが少ないのだろうか。
 五階まである病院の屋上からふらっと飛び降りて落ちたのに、腕の骨に皹が入っただけで本人はけろっとしている。きっと纏っている脂肪がクッションになったのだろう。落ちたところも植木が茂って地面を隠しているほどだから大した怪我もなく当然かもしれないけれど、阿呆としか言いようのない彼の思考がどうなっているのか償いとして見せてほしいと思った。

「飛べない鳥が無理して飛ぼうとするからそうなるんですよ。おかしい人ですね」

 皮肉を言ったつもりなのに「ははは」とまたあっさりと笑われてしまったものだから、こちらも「ははは」と笑い返してやった。するときょとんと目を真ん丸くさせ、喋る度に二重あごになる肉を摘みながらまじまじとこちらを見た。鈍く笑う。

「面白かったかい、今度は頑張って見せるよ」

 彼はどうにかして飛びたいらしい。しかし、彼は片吟である前に人間だ。ましてやそんなに脂肪を抱え込んでどうやって飛ぼうというのか。無謀にもほどがある。
 カーテンを閉めることもままならない彼のためにカーテンを閉め、やっと空間を分けることができたとベッドに身を投げ出して天井を仰いだ。

***

 白い。病院のイメージは白だった。どんなに汚されても頑なに白くあろうとしているように思えた。どんなに黒い部分も白く塗って白にみせ、白であると主張して白を武器にどんどんと弱った人間を吸い込んでいる気がしてならなかった。

「いつもと同じだね、それじゃいつもの薬を同じように出すから、いつもと変わらず同じように服用すること」

 何て適当で何て雑な扱いを受けて、それでも私は習慣で「ありがとうございました」とお辞儀まで加えて診察室をあとにする。やり切れない。それでも私は薬がないと自分の身体を保てないので仕方なく先生の前に出るのだけれど、あのいやらしく聴診器を当てる様子が生理的に受け付けなかった。きっとそうは思っていないのだろうけれど、どうにも汚らわしく思ってしまって身構える。それは相性だとか性別だとかそういうことでは解決されない。私自身が健康でないことに腹立たしさを覚えるからどうしたって医者を敵視してしまうのだ。普通は感謝の念を抱くのだろうけれど、不信感はそうそう拭えない。世間で言う歯医者が嫌いだというのと同じだ。

 入院している病院はとてもこじんまりとして、近所の人以外は好んで来ようとはしない辺鄙な土地にあった。もともとは療養するために建てられたらしいが、町医者が少ないことから上のお偉いさん方が取り決めた条例で外部の医者が派遣されてくるようになった。そこまで栄えはしなかったけれど、とにかく真っ白にだけは塗り替えられ、外観だけは新しく装っていた。周囲には畑や木々ばかりで道も舗装されていない。そんな場所で際立って白いため、夜になると不気味で仕方がなかった。変な噂まであるこの白い物体は私の病院嫌いに拍車をかけた。薄ぼんやりと夜の中に身を潜めてそのまま姿を眩まそうとしている。私たちは連れて行かれる。そう思わせる場所だった。

 腕に針が入ったまま、身体にいいであろう液体が流れ込んでは傷口を突いた。痛い。いくつも痣が残っていて、近い将来私の腕は痣で埋め尽くされてしまうのではないかと馬鹿げたことを考えた。そこまで行ったら私の人生は終わりだ。そこまで回復力のない人間ではない。まだ衰えるには早すぎる年齢だし、私の病気は治らないわけではない。早くこんな窮屈な場所から飛び出して自由を得たいと願っていた。そう陰鬱な気分で病室へ戻ると、そこに片吟の姿はなかった。

***

 片吟は足を引きずりながら廊下を進んでいた。松葉杖も持たずに廊下の手すりに体重を預けてするすると、それは歩くというよりも滑るに近い行為だった。平然と当たり前に彼は身体を起こしているけれど、もともと片吟はベッドから抜け出していい身体ではなかった。足を蝕んでいる病気は着実に彼の全身を乗っ取る気でいる。病室を抜け出して看護士さんが血相を変えて探しているというのに、のん気に「やあ」だなんて機嫌を伺わないでほしい。同情を垣間見せた自分にぞっとした。私は私で病人なのだ。

「そのうち手足縛られますよ」
「それは困るなあ、ははは」

 まるで他人事である。どうしたら片吟は飛ぶのを諦めてくれるのだろう。向かう先の階段は屋上へと続いていた。きっと屋上も屋上にあるフェンスも、その手前の屋上の扉も彼に相当煩わされていることだろう。また来たのか無鉄砲な奴め毎日毎日よく飽きないなお前のせいでこのフェンスも役割を果たせないじゃないかそれでもまだ飛ぼうとするのか呆れるよ。
 彼が器用にほとんど腕の力だけでこちらへ近づいてきた。右足はギブスに巻かれ、左足は膝を曲げてぐっと床を押す。手すりを追いかけるように腕を交互に出しながら私の立っている位置までたどり着いた。憎たらしい、なぜそんなにも嬉しそうに笑いかけるのか。息の上がっている様子を食い入るように見つめるその目線で身体を撫でられているようで、苛立ちと吐き気で顔が紅潮した。
 つんと、彼からは消毒液のにおいがした。またどこか怪我をしたのか。これ以上近づくなと鼻の奥がざわつく。

 毎回のことだった。私は看護士さんの必死の形相にいつも脅されてしぶしぶ片吟を探す。診察を終え病室へ戻ると隣のベッドが蛻の殻になっていて開けたように風が通り心地好い空気が流れる。まさに理想の空間だ。気持ちのいい日をいっぱいに浴びながら読書なんて最高だろうと想像するのだけれど、決まって看護士さんは私の意思を汲んではくれずに暇なのだったら一緒に探してくれと言う。認めたくはないけれど私も病人だ。病気を治しに居たくもない建物の中に閉じ込められているというのに、この人もまた頭が弱いのだろうか。しかし最終的には迫力に負け、片吟捜索を引き受ける。これが私の日常だ。

「もう少し痩せれば、飛べるんじゃないですか」
「そう思うかい」
「少なくとも今の状態よりかは風に乗れると思いますよ」

 ははは。
 きん、と冷えている廊下は声を遠くまで響かせた。声を追いかけるように廊下の奥を見る。すると病院を一周してきたのか看護士さんがナースキャップを手に握り締めながらいきり立ってこちらへ向かう姿が目に入った。肩を大げさに上下させながら息を何度も大きく吸っては吐く。相当走り回ったのだろう、髪型もめちゃめちゃだ。私は顔を歪ませる。

「ぺんちゃん」

 片吟の可愛過ぎるあだ名だ。この看護士さんしか呼ばない。

「いっつも、どうして、点滴の、時間に、いなくな」
「お姉さん、僕をまた飛べなくするの」
「あなたの、ため、なのよ」
「ははは」

 寒気が走った。心なしか耳も遠くなったような気がして、耳の中に何かを突っ込まれたようにこもる。心臓はどうしたのだろう急にどくんと大きく鼓動した。
 ははは。何て規則正しく笑うのだろう。彼の独特の笑い方に違和感を抱く。嫌悪感すら覚える。どうしてだろう。私は彼の頬を思い切り叩きたくてたまらなくなった。興奮して心臓の動きが気持ち悪く感じる。顔が真っ赤に腫れ上がるまで夢中で彼を殴りたいと思った。
 片吟はしこたま看護士さんに怒られたけれど、始終笑顔を崩さなかった。その微動だにしない表情に私はまた苛立ちを大きくした。爪を立てて引っ掻いてやりたい。彼の顔が血で真っ赤になるまで皮を掻っ切ってやりたい。
 私はぎゅっと手に力を込めた。爪が手のひらに食い込む。痛い。唇も噛み締め涙が出そうになるのをどうにか耐え、震える足がばれないようにと懸命に意識を集中させた。
 苦しそうに落ち込めばいい、とことん自分の存在を悔やめばいい、どん底に落とされて塞ぎ込めばいい、二度と動かなくなればいい、目障りだ、片吟なんか一生見たくない、大嫌いだ。
 雲が太陽の下を通っているのか。辺りがふっと薄暗くなり、途端に冷たい空気が野放しにされ肌を刺した。

***

 「最近薬をちゃんと服用していましたか」
 はい。
 「ではどうしてあなたの薬がここにあるんですか」

 一度はこくりと頷いてみたけれど、嘘だということは初めからばれていたらしく私の動作は無駄に終わった。
 せこい奴だ、わかっていてわざわざ尋ねるだなんて、私が素直に謝るとでも思ったのだろうか、そんなはずはない、毛嫌いしている態度を示さない日はなかったから鈍感でなければ気付いているはず、意地の悪い医者め。

 「雛ちゃん、自分のしたことがわかっていますか」

 私は先日、一週間分の薬をゴミ箱に捨てた。自分でもどうしてそうしたのか理解できないけれど、薬に頼る自分を情けなく思ったのは確かだった。それと同時に、片吟に対する苛立ちからくるものがあったのかもしれない。何かを捨てきらなければ呑み込まれてしまいそうで、とても怖くなった。

 「どうして言うとおりにしないんですか、治りたくないんですか、一生この病院で過ごしたいんですか」
 「いいえ」
 「ちゃんと、医者のことも信じてください。このまま服用しなくなれば、あっという間にあなたは動けなくなる」

 足がぴくりと強張った。医者の表情はどういうわけか悲しそうで真剣で、後ろめたい気持ちが血液に混ざって全身を巡っているような気がした。
 私は立てるし、歩けるし、走れる。ものを持つことも字を書くこともできる。脳からの伝達をスムーズに行動に移せる。じれったいなどと思うことはなく過ごしている。医者の肩越しに見える外の景色をぼんやりと眺めながら、ふと片吟のことを思った。
 もし動けなくなったら、私も片吟のように空を飛びたくなるのだろうか。自由のきかない身体を引きずってでも動かそうと努力するのだろうか。床に突っ伏す時間を無駄だと思うのだろうか。あんなにも懸命に前に進もうと思うのだろうか。
 私は彼の思考がとても気になった。将来があるかもわからない時間に託すよりも、彼は今を必死に生きている。今日もきっと病室に戻れば隣のベッドは蛻の殻で、頭の足りない看護士さんがおろおろと病院をさ迷うのだろう。そして片吟はなんとかしてフェンスを越え、風に吹かれるまま流されるように地面を蹴ることを想像しながら屋上へ続く階段を必死に上がる。

 「重たい足のことを感じずに済むから、僕は飛びたいと思うんだ」

 見覚えのある靴が窓の外をすっと通った瞬間、鈍い音と、少しの間をおいて女性の悲鳴が聞こえた。その声は私にはこもったように耳の中で響いた。





了.






2011/04/03 0:16:59|短篇
私は貴方が嫌い
「私、貴方が嫌い」
 どういうわけかこういった言葉が好きで何度も口にしてしまう。決して嫌いなのではない。かといって好きかと問われるとそれも困る。何かを貶そうとこぼしたのではなく、ただ単に今この瞬間こう言いたかっただけで特別な気持ちなどさらさらない。言葉の響きが妙に私らしいのでついつい出てしまったとでも言うべきか。“貴方”という言葉が一体何を指しているのかすら理解できないほどだ。なんとはなしに声にしてみただけで、特定の人やものを指しているわけではないということだけはわかってほしい。
 ではなぜ突然こんな言葉を口にしたのか。それすら私の思考では解決できない、いわば天から降りてきたもの、と抽象的な弁解しかできそうもないと諦めざるを得ない。しかしそれでも突っ込んで聞きたいという人は私と一緒に答えを導き出せるまで考えてほしいと切に願う。
 「私、貴方が嫌い」
 繰り返す。噛み砕いて喉を通して自分へと吸収してみるも、どうにも響きだけが余韻を残し、はっきりした思考が浮かんでくるわけではない。やはり私は響きだけでこの台詞をなぞっているらしい。人間でよかったとつくづくそう思う。人間以外の動物でこんなにも酔いしれる言葉を発せられるものが存在するだろうか。否、いるわけがない。きっと人間にはわからない彼ら独特の言葉で会話をしているのだろうけれど、結局は人間には敵いっこないのだ。ああ、もう一度、もう一度あの言葉を!
 「私、貴方が嫌い」
 ふむ。これだけの言葉だ。ただ漏らすだけでは勿体無い。何かに対してぶつけてみようかと、そう思案しているときに私の大好物のシュウマイが食膳に出され、偶然にもそのシュウマイにはグリンピースが埋め込まれていた。シュウマイは小さい頃から何よりも好んで食べていたし、今も変わらず好物ベスト3には入っている。毎食食べたいくらいシュウマイが好きだった。しかし、今回“グリンピース”という存在がせっかくの好物を目の前に高ぶる気持ちをねじ伏せられるような屈辱感を味わわせ、必要性のない滅せられるべき存在として私の目には映った。ふむ。これはあの台詞を言うべきであろう。
 「私、貴方が嫌い」
 なんと! 正しい使い方をしてさらに洗練されて輝きを増す。美しい、ああ、なんて魅力的な言葉だろうか。もう一度、もう一度。
 とそう思っていたときに、またしても言ってくれといわんばかりの対象物がかさかさと床を這っている。“ゴキブリ”だ。ニスを塗られたような光沢が全身が黒だということを一瞬誤魔化すが、やはり真っ黒で、不気味に伸びた触覚は新たな食料を求めて忙しなく動く。ああ、この場にこそ相応しい。私は意気揚々とあの台詞を腹の底から発する。
 「私、貴方が嫌い」
 ああ、私はなんて幸福な人間なのだろうか。私の耳が正常で、きちんと日本語を話せる人間であることを神に感謝した。なんと素晴らしい完成された台詞だろうか。涙までこぼれるこの感動を、私以外の誰かにも共有してほしい。そう思ったところに家内が茶碗にごはんを山盛りによそって私によこした。さあ、お前も言ってみろ、快感を味わってみろ、さあ!
 「また貴方グリンピース避けて、そういうところひっくるめてもういい加減、私、貴方が嫌いだわ」
.
 言わずもがな、私のトラウマの言葉として今も深く心に刺さっている。










2011/04/03 0:14:03|短篇
聞いておくれ
 長い階段だった。長い階段を一段一段自分のペースではなく周囲と歩調を合わせて、わたしは駅のホームから改札に向けて階段をのぼっていた。多少スペースに余裕はあるのだけれど、朝だということで急ぎ足で階段を駆け上がる人が多く、急かされるようにわたしもほんの少しだけ早歩きに一段一段あがる。後ろから押されているわけではないのに、威圧的な空気がわたしの足を速めた。
 長い階段の半ば頃まで到達すると、少し息があがって鼓動が早くなる。春物のコートはわたしの額を湿らせ、全身の血の巡りを良くした。大き目のトートバックからハンカチを取り出す。額の汗を拭こうと顔を少しだけ俯かせると、突然、どすんどすんと、下る側の階段でひとりの人間の転げ落ちる姿が目に入った。横目で流すように見た感じだと、薄手のコートを着たサラリーマン風のおやじだった。おやじの顔は高潮し、たどり着いたホームでうめき声を上げている。こんな朝から酔っ払っているのか。鬱陶しい声を漏らしたと思うと、突然飛び跳ねるようにして地面に嘔吐し始めた。
 若い女が驚いて悲鳴をあげる。そばにいた駅員は忙しい時間帯で気が立っているのにも関わらず、また余計な仕事ができたと表情を歪ませ、業務の一貫としておやじを起こそうとしゃがみ込んだ。大丈夫ですか、そんな声が耳元を掠めるけれど、別段おやじには興味はないし、野次馬魂というものもこんな朝から発揮する気力もなく、早く改札へ向かおうとまたさらに歩調を速めた。
 また若い女の悲鳴が聞こえる。今度はなんなのだろうと辺りを見渡すと、階段下まで落ちていったおやじが包丁を持って駅員に襲い掛かろうとする姿が目に入った。どういうことだ、一体何がどうなっているのだ。女の悲鳴はあっという間に伝染していき、若い男までもが情けない声をあげる。すると途端に長い階段は加速をはじめ、わたしは危なく突き飛ばされるところだった。あんな狂ったおやじのいるところへ転げ落ちたらたまらない。きっと洋服や髪の毛はあの吐瀉物にまみれ、そして天井を仰いだ頃におやじの包丁がわたしに振り下ろされる。そんな死に方はあまりにも滑稽すぎるし、今では猿のように真っ赤な顔をして夢中で包丁を振り回す哀れなおやじに命をくれてやるほどお人よしでもない。後ろの人の足を踏もうがもうそんなことは関係なかった。
 一瞬にして別世界になる。ばちんと電源が入れ替わったように辺りは騒然とし始め、さすがのわたしもこれはもしかするとやばいかなあと、のん気にも危機感を覚え始めると、男の叫ぶ声がみなの視線を集めた。駅員だ。駅員ののっぽの足から血が出ている。ああ、切られたのか、とうとうやっちまったなおやじ。銃刀法違反で済むところを傷害罪に自ら変えてしまって、ああ、あのおやじの人生は転落したな、全くもって阿呆だ。のっぽは足を引きずりながらおやじに背を向ける。逃げようとしているのだろうけれど、傷つけられた足と竦んでしまっている足ではどうにも進みようがなかった。のっぽはその場でじたばたし始めた。
 すると今度はおやじが奇声をあげる。緊張が走る。ぴりっと、泣きながら階段をのぼる人とパニックに陥りわけがわからず頭を抱える人と、長い階段の上まできたわたしは周囲を観察した。
 日常が日常を呼び日常のままで終わる、そんなことは簡単に破ることができる。現にたったひとりのおやじがいつもの風景にこんなにも黒々としたものをべしゃりと、ただ包丁を振り回すだけで塗りつぶした。あのおやじにこれほどの度胸があったのかと心の中で拍手を送ろう。ここに至るまでに様々な葛藤と苦悩と、きっと削る部分がなくなってしまうほど神経を擦り減らしてきたのだろう。そこまでのエネルギーがこんなおやじにもあるのだなあと、賞賛とまで大それた気持ちではないけれど送ってやろう。とは思うけれどやはり阿呆は阿呆だ。馬鹿は死ななきゃ治らない。とんでもなく茶番だ、三文芝居だ、阿呆だ、ああ、苛々する。こんなおやじに傷つけられたのっぽの人生はどうだ。もし、もし仮にこれからのっぽが精神的に病んでしまったらあのおやじはどう責任をとるつもりなのか。その前に、切られてしまった足が動かなくなったらどうするのだ。まわりでこの一部始終を見守る人たちはどうだろう。彼らもまたのっぽと同じように少なからず傷をつけられた。それは決して見えないけれど、どうだ、確実と言っていいほど傷を一箇所、二箇所、無数に、ああ、苛々する。
 おやじは駆けつけてきた警官とがたいのいい駅員数名に羽交い絞めにされ、床に押さえつけられているのだろうけれどその姿は見えなかった。包丁を取り上げた警官が無線で何かを報告している。のっぽは駅員の持ってきたタオルで足を止血しながら、大丈夫です大丈夫です、と顔を真っ青にしながら頷き続けた。
 ああ、苛々する。
 わたしは呆然としばらくその場から動くこともしないまま、駆け寄ってきた警官をあしらうこともせずに事情聴取を一方的にお願いされ、その日は会社を休むことにした。
 非日常、非日常、ああ、日常よ、所詮はこんなものさ、ああ、恋しかろう恋しかろう。




了.






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