長い階段だった。長い階段を一段一段自分のペースではなく周囲と歩調を合わせて、わたしは駅のホームから改札に向けて階段をのぼっていた。多少スペースに余裕はあるのだけれど、朝だということで急ぎ足で階段を駆け上がる人が多く、急かされるようにわたしもほんの少しだけ早歩きに一段一段あがる。後ろから押されているわけではないのに、威圧的な空気がわたしの足を速めた。 長い階段の半ば頃まで到達すると、少し息があがって鼓動が早くなる。春物のコートはわたしの額を湿らせ、全身の血の巡りを良くした。大き目のトートバックからハンカチを取り出す。額の汗を拭こうと顔を少しだけ俯かせると、突然、どすんどすんと、下る側の階段でひとりの人間の転げ落ちる姿が目に入った。横目で流すように見た感じだと、薄手のコートを着たサラリーマン風のおやじだった。おやじの顔は高潮し、たどり着いたホームでうめき声を上げている。こんな朝から酔っ払っているのか。鬱陶しい声を漏らしたと思うと、突然飛び跳ねるようにして地面に嘔吐し始めた。 若い女が驚いて悲鳴をあげる。そばにいた駅員は忙しい時間帯で気が立っているのにも関わらず、また余計な仕事ができたと表情を歪ませ、業務の一貫としておやじを起こそうとしゃがみ込んだ。大丈夫ですか、そんな声が耳元を掠めるけれど、別段おやじには興味はないし、野次馬魂というものもこんな朝から発揮する気力もなく、早く改札へ向かおうとまたさらに歩調を速めた。 また若い女の悲鳴が聞こえる。今度はなんなのだろうと辺りを見渡すと、階段下まで落ちていったおやじが包丁を持って駅員に襲い掛かろうとする姿が目に入った。どういうことだ、一体何がどうなっているのだ。女の悲鳴はあっという間に伝染していき、若い男までもが情けない声をあげる。すると途端に長い階段は加速をはじめ、わたしは危なく突き飛ばされるところだった。あんな狂ったおやじのいるところへ転げ落ちたらたまらない。きっと洋服や髪の毛はあの吐瀉物にまみれ、そして天井を仰いだ頃におやじの包丁がわたしに振り下ろされる。そんな死に方はあまりにも滑稽すぎるし、今では猿のように真っ赤な顔をして夢中で包丁を振り回す哀れなおやじに命をくれてやるほどお人よしでもない。後ろの人の足を踏もうがもうそんなことは関係なかった。 一瞬にして別世界になる。ばちんと電源が入れ替わったように辺りは騒然とし始め、さすがのわたしもこれはもしかするとやばいかなあと、のん気にも危機感を覚え始めると、男の叫ぶ声がみなの視線を集めた。駅員だ。駅員ののっぽの足から血が出ている。ああ、切られたのか、とうとうやっちまったなおやじ。銃刀法違反で済むところを傷害罪に自ら変えてしまって、ああ、あのおやじの人生は転落したな、全くもって阿呆だ。のっぽは足を引きずりながらおやじに背を向ける。逃げようとしているのだろうけれど、傷つけられた足と竦んでしまっている足ではどうにも進みようがなかった。のっぽはその場でじたばたし始めた。 すると今度はおやじが奇声をあげる。緊張が走る。ぴりっと、泣きながら階段をのぼる人とパニックに陥りわけがわからず頭を抱える人と、長い階段の上まできたわたしは周囲を観察した。 日常が日常を呼び日常のままで終わる、そんなことは簡単に破ることができる。現にたったひとりのおやじがいつもの風景にこんなにも黒々としたものをべしゃりと、ただ包丁を振り回すだけで塗りつぶした。あのおやじにこれほどの度胸があったのかと心の中で拍手を送ろう。ここに至るまでに様々な葛藤と苦悩と、きっと削る部分がなくなってしまうほど神経を擦り減らしてきたのだろう。そこまでのエネルギーがこんなおやじにもあるのだなあと、賞賛とまで大それた気持ちではないけれど送ってやろう。とは思うけれどやはり阿呆は阿呆だ。馬鹿は死ななきゃ治らない。とんでもなく茶番だ、三文芝居だ、阿呆だ、ああ、苛々する。こんなおやじに傷つけられたのっぽの人生はどうだ。もし、もし仮にこれからのっぽが精神的に病んでしまったらあのおやじはどう責任をとるつもりなのか。その前に、切られてしまった足が動かなくなったらどうするのだ。まわりでこの一部始終を見守る人たちはどうだろう。彼らもまたのっぽと同じように少なからず傷をつけられた。それは決して見えないけれど、どうだ、確実と言っていいほど傷を一箇所、二箇所、無数に、ああ、苛々する。 おやじは駆けつけてきた警官とがたいのいい駅員数名に羽交い絞めにされ、床に押さえつけられているのだろうけれどその姿は見えなかった。包丁を取り上げた警官が無線で何かを報告している。のっぽは駅員の持ってきたタオルで足を止血しながら、大丈夫です大丈夫です、と顔を真っ青にしながら頷き続けた。 ああ、苛々する。 わたしは呆然としばらくその場から動くこともしないまま、駆け寄ってきた警官をあしらうこともせずに事情聴取を一方的にお願いされ、その日は会社を休むことにした。 非日常、非日常、ああ、日常よ、所詮はこんなものさ、ああ、恋しかろう恋しかろう。
了.
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