先日友人が、「NHKの湘南に関する番組を見て、平塚が湘南平塚なんて言っていることが、恥ずかしくなった。」との発言があった。僕はNHKの番組は見てないが、昔 湘南市構想が有った時に、説明していた事を思い出した。
石原慎太郎の小説 太陽の季節から、加山雄三 その後のサザンなどにより、逗子から茅ヶ崎までの若者を中心にした海岸文化がある。戦後のそれはキラキラと輝いていたと思います。湘南への憧れは、そんな所にあるのだとも思う。僕も、そんな世代でもある。
しかし、湘南の言葉の起こりは、大磯の鴫立沢にある「著盡湘南清絶地」の石碑である。小田原の宗雪が、中国の湖南省にある洞庭湖の南側の風光明媚な場所を偲んで、読んだと言われています。1600年代の話です。
そんな昔の話で、平塚が湘南だなんて、言い張るつもりは毛頭ありません。茅ヶ崎市に、史実があります。
平塚から相模川を渡り小出川の東側に、旧相模川の橋脚が史跡として残っています。そこに石碑が二つあり、一つには相模川のことを湘江とあらわしています。もう一つの石碑は、湘東耕地整理組合の碑で、大正14年に着工して昭和15年に耕地整理が竣工したと記されています。戦前までは湘南の東であった証です。
もう一つ、せんの川と言う川があります。小出川合流の100メートルほど上流に、湘東橋と言う橋があります。20年ほど前に行った時には石の橋でしたが、モダンな橋に生まれ変わっていましたが、プレートが外されているのが無残です。
言いたいことは、どこが湘南で湘南じゃないなんてことではなく、戦後の若者がキラキラと輝いた湘南も、平塚が目指すべき湘南があるのだという事です。キラキラとチャラチャラとは違うことを理解して、平塚らしい湘南を追求して欲しいと思います。村井弦斎の食道楽レシピ。明治の別荘文化。利権の付いてない4キロの海岸線。生かしきれていない財産です!