チェチリア工房

ここは、工房という名の音楽室です。音楽は目に見えませんが、必ず何かを創造しています。天井が高く素晴らしい音響が自慢のスペースです。レッスンやコンサート その他、創作活動の発表にご利用ください。
 
2023/05/12 0:39:10|音楽療法
音楽療法と言わない音楽療法 9 アスリート
音楽療法と言わない音楽療法 9

肉体を極限まで追い込む、トップレベルのアスリートは
精神のリセット・・・と言うか、リカバリー?・・・は
どのようにしているのか、興味があるので
色々調べてみた。

トップレベルのアスリートたちは心身の管理能力もトップレベルだ。
大谷選手は睡眠をとても大切にしていて、
栄養を全身に行き渡らせ、疲れをリセットするのに
睡眠を一番のリカバリー手段としているそうだ

アメリカの元陸上選手だったカール・ルイス(1961年7月1日生まれ)は9つのオリンピック・金メダルを獲得した。
ベン・ジョンソンとの対決は記憶にに凝っている。
世界のトップともなると、その記録にたいしても、ドーピング疑惑があったり、ギリギリのラインでセーフだったり・・
記録を出す背景には、興奮剤や様々なサプリメント、栄養の摂取の仕方などにも神経と技術・化学療法的なものを使う。
フィジカル面とメンタル面、両方の最新の管理方法を使っているはずだが、人間である限り、調子の波もある筈だ。
いずれにしても、強靭な精神力も世界のトップレベルのものを持っているだろう。

ただ、記録によれば1880年代には音楽活動もしていて、日本の歌番組にも出演した記録が残っている。
LOVE WILL DO と言う曲は、日本の佐川急便のCM
​​​​​ソングにも使われた。1980年代は世界陸上ヘルシンキ大会で陸上界のスター的地位を確立し、ロサンゼルス・オリンピック、ソウルオリンピックと世界中から注目を集めていた頃である。
また、ダイエットにも取り組みつつ、様々な試行錯誤を繰り返した経緯もあり、動物性食品を一切排除するヴィーカンになって、アスリートとして、最高の成果を得たという本人の記録もある。
このようなストイックな面と音楽活動とは面白い対比と感じられ興味深い。
その後、音楽活動は前面にだないのだが・・・・・
カール・ルイスが何を求めて音楽活動に入ったのか、また正家用的な活動はやめたとして、どのような音楽生活をその後したのか・・・・興味は尽きない
興味が尽きない






 







2023/05/10 0:43:46|チェチリア工房情報
夏のリースが届きました
夏のリースが届きました

製作は林田あやかさん

今年はどんな夏になるでしょうか
チェチリア工房に来られた時、是非ゆっくり眺めてください

感想をお聞かせいただけたら、作家さんにお伝えします。







2023/05/08 1:23:17|音楽療法
音楽療法と言わない音楽療法 8 音響栽培
音響栽培は1960年代から世界各地でおこなわれている。
野菜に音楽を聴かせることによって収穫が良くなる効果があるというのです。クラシック音楽などの音波振動が空気を伝わり植物の光合成が促進されるといわれます。

浜松のあるファームでは小松菜にグランドピアノで演奏されたモーツアルトの曲を朝8時から夕方5時までハウス内に流し栽培しているそうです。
優雅に貴族のように育った小松菜は、収穫量が20パーセント向上し、鉄分は普通の小松菜の3,45倍、ビタミンCmo1,41倍になったそうです。

モーツアルトの曲は4000ヘルツを越える高周波音が多いので音楽が振動となって小松菜に良い影響をもたらすといわれているそうだ。

音波栽培とも呼ばれ
ロックを聴かせたトマト
ヴィヴァルディ味噌
日本酒造りでは酵母の働きが良くなる・・・
インドでは畑にスピーカーを設置し、シタールをながしている
などなど



 







2023/05/07 2:21:05|その他
音楽療法と言わない音楽療法 7 ストラヴィンスキー
ディアギレフの協力によって作曲した3大バレエ音楽によって西洋音楽の楽壇に登場したロシアの作曲家。
(1882年・6・17〜1971・4・6)
法律を学び、その後リムスキー・コルサコフに作曲を師事。第1次世界大戦中はスイス、その後、フランス、そしてアメリカと居を定め、世界的にピアニストや指揮者として活躍した。
1959年には初来日、演奏会ではチェレスタ奏者として、黛敏郎、タンバリンを岩城宏之に担当させた。また、武満徹を見出し、世界に紹介した。
日本の様々な伝統芸術に触れ、チンドン屋にはとても興味をしめしたそうだ。
1962年キューバ危機の最中にソ連を訪問。これは最初で最後の機会となった。
84才を最後に新曲は発表されず、指揮活動は翌年が最後となった。編曲には手をつけていたものの、1967年後半は胃潰瘍、血栓症で長期の入院となった。

最晩年はロバート・クラフトの勧めでレコードを聴いて過ごした。作曲家から鑑賞者になったことへの不満がありながらも、特にベートーヴェンを好んで聴いていたそうだ。

墓はディアギレフの隣に作られた。

 







2023/05/06 2:01:13|音楽療法
音楽療法と言わない音楽療法 6 滝廉太郎「憾」
音楽療法と言わない音楽療法 6 滝廉太郎「憾」

滝廉太郎は「荒城の月」「花」などで知られている。
1879年8月24日〜1903年6月29日
日本の西洋音楽黎明期の代表的な音楽家で才能あふれるピアニストであった。父は大蔵省から内務省に展示大久保利通や伊藤博文らの下で内務官僚として勤めた人物であった。その後地方官となり、長男の廉太郎は父の勤めの関係で、神奈川県、富山県、大分県と移り住んだ。1900年に洗礼を受け、1901年にはにほんじんとして、音楽家として3人目のヨーロッパ留学生ドイツに渡り、ライプツィヒ音楽院に入学した。
しかし、わずか五か月後に肺結核を発病し、帰国を余儀なくされた。ロンドンを経由し、1902年横浜に到着、その後は父の故郷の大分で父母のもとで静養していたが1903年自宅で亡くなった、

滝廉太郎の名越された作品で、ピアノ曲はメヌエットと「憾」のみ。他は声楽曲である。「憾」は死語4か月前、1903年に作曲された最後の作品である。

「憾」(うらみ ドイツ語Bedauemswerth)
日本人作品のピアノ独奏曲としては、もっとも古いものの一つ。器楽曲を日本に導入しようという強い意志の現れでもある。
憾み、とは憎しいではなく、「遺憾」の意、心残りや未練、無念の気持ちである。自筆譜の余白に「Doctor Doktor」と走り書きがあったとされている。

Allegro marcato ニ短調 8分の6拍子
演奏時間は約2分

最後の作品を残すという意志・・・・
余白のDoctor・・・と走り書いた思い?
23才の青年の胸の内は・・・

「憾」を何と読むか?という特集が朝日新聞デジタルでとりあげられた。