イエズス会宣教師ザビエルによる布教活動は日本の子供たちに礼拝に不可欠な音楽を教えた。 キリシタンの子供たちはヨーロッパのセミナリオと同等の教育を受け、ラテン語で歌い、西洋楽器(ヴィオラ・ダ・アルコ・・・ヴィオラ)を演奏した。 子供たちの歌った曲は・アヴェマリア、クレド、サルヴェ・レジナ。ミゼレレ・メイ・デウス、ラウダテ・ドミヌス等 キリスト教音楽(西洋音楽)を習得した子供たちはラテン語の聖歌を歌った。彼らの中から選ばれた4人の天正遣欧少年使節団の少年たちはポルトガル、イタリア、スペインの主要な教会を歴訪し、カトリック教会の多声聖歌を聴き、少年たちも演奏を披露した。8年半に及ぶ旅から帰国した少年たちは西洋の知識を学び身に付けていたが、既にキリスト教追放令が出されていて、大きな困難に逢っていた。
大分には「西洋音楽発祥の地」として宣教師たちがヴィオラを弾き、子供たちが歌っている記念碑が建てられている。
天正遣欧使節団の最後 伊東マンショは、中浦ジュリアンとともにマカオへ留学し司祭に叙されるが、弾圧が厳しさを増す中、布教活動を行いながら1612年に病死。原マルチノはマカオに追放され、1629年に亡くなった。中浦ジュリアンは国内で20年もの間宣教活動を行うが、ついに捕らえられ、1633年、長崎において殉教。そして、千々石ミゲルは、帰国から10年後に棄教。棄教の理由や晩年の様子など詳細はわかっていない。 |