薩摩藩では士気を鼓舞する曲が薩摩琵琶で弾かれ 戦いのあとの気持ちを静める為には、天吹(てんぷく)とよばれる縦笛が演奏される伝統があった
そういう素地に西洋音楽が軍楽隊と言う形で取り入れられた
日本の行進曲の父と呼ばれる瀬戸口藤吉の作曲した「敷島館行進曲」等の行進曲が多く演奏された
海軍には軍楽通学生という制度があった
音楽関係の公的養成機関として、江戸時代初期から雅楽を伝習する三方楽所(さんぼうがくそ)という組織があり、維新後も続いた。
幸田露伴の妹、幸田延子(明治3年生まれ)はアメリカのにゅー・イングランド・コンサーベートリーに1年、その後ウイーンで5ねんヴァイオリンを習い、帰国して東京音楽学校の教師となった。
明治中期には市中音楽隊と呼ばれる民間吹奏楽団があり、行進曲、ポルカ、ワルツなどは一般民衆にも普及し、日清戦争では東京から全国的に普及、流行した
大正時代には大正デモクラシーという気運が日本を覆っていた。「音楽と文学」の同人の活動が行われた。
日本で最初にクラシック音楽の為に建てられたコンサート・ホールは東京音楽学校の奏楽堂で、次にたてられたのは、日比谷公園の野外音楽堂で、陸軍海軍の軍楽隊のコンサートが無料で行われていた。 |