念願の『第10回多喜二祭』に行ってきました。
去年三浦綾子の『母』を読んで以来、来年は多喜二祭にきっと行こうと決めていました。
本来は小樽に行きたい所ですが…わたくし母は、まだ遠くには行ける程の身分ではないので、初めの一歩は、厚木市民会館にしました。
2月20日は、命日。
この日の前後には、多喜二の係わった場所では毎年、多喜二祭が行われています…。
一番目は多喜二が生まれた秋田
二番目は活動していた小樽
三番目は終焉の地 東京
そして四番目は、神奈川の七沢だそうです。
他にも大阪でもあるようです。
七沢温泉の福元旅館の離れに昭和6年2月から3月の約一ヶ月間、多喜二は特高に追われながらも、恋し愛し失恋し…逗留していたそうですが、七沢の人達は、多喜二が特高に追われている事を知りながらも、長い間誰も口外する事はなかったそうです。
そして約70年が過ぎ…世の中が移り変わり…そろそろ話してもいい時期が来たのではないだろうか?!と
福元館の女将さんは、お話しされたそうです。
去年の11月に改修工事も済んだそうで、今も、福元館の離れはそのまま遺品も残されています。その高台の立地は下に道路があり、何者かが来ればわかるが…下の道からは見過ごしてしまうような所に立っているので…実際裏山に逃げた事もあったそうです。
しかし、七沢の人は温かく見守っていたので、多喜二もごく普通に生活ができたそうです。
下駄をカラコロ鳴らしながらドテラに両手を入れて奴になって歩き、母屋にお湯をもらいに来ては風呂で歌を歌っていたそうです。そこで歌っていた歌は、…
ブラームスの『折ればよかった』
♪折らずに置いてきた 山陰の小百合 人が見つけたら 手をだすだろう
風がなぶったら 露こぼせうものを 折ればよかった 遠慮がすぎた
昨夜も夢に見た 山陰の小百合 星が訪ねたら 宿貸すだろう
虫がすがったら 頷こうものを 折ればよかった 遠慮がすぎた♪
(ロマンチックで…せつないですが…まさに田口タキさんの事…これも今回♪聴かせて戴きました。)
それくらい安心して疲れた身も失恋の末の傷心も癒されていたのでしょう。
ステージは、…最後に多喜二と弟の三吾さんが二人で行ったコンサートで聴いた曲…
ベートーベンの『バイオリンコンチェルト二長調作品61』
は多喜二と弟は絶望と希望の中…どんな思いで聴いていたのか?と思うと…拭いても拭いても…涙が止まりませんでした。
(いや?!多喜二にも三吾さんにも、信じる『ほこり』があるから絶望はなかったかもしれないですが。もしかしたら永遠の希望かも…。そう ありたい。)
講演者、松澤信祐文教大学名誉教授も1時間以上話しながら最初から最後まで心は泣いている気配でした。
思えば、かわいそうで、たまらなかったんでしょうか…どこまでも続く埋もれた美しいダイヤモンドの鉱脈を見つけながら掘れば掘る程美し過ぎて嬉しくて悲しくて…きっとこの先生は何十年も泣きながら研究していたに違いありません…。
…多喜二も七沢の人達も、『ほこり』を持っていたのでしょうね。
『ほこり』を持って生きている人は、美しくて、悲しくて、 またキラキラと心に響くものなのですね。
埋もれても埋もれても、掘り出され 探し出されてしまうものなのかも知れないです。
いつでも…いつまでも…∞……∞……∞……∞……∞……∞そこには星が降るのかも…
付記:【神奈川七沢多喜二祭の意義】
戦前のファシズムの吹き荒れる時代に福元館が、多喜二を守り続けてくださったことは、現代の神話のような貴重な宝物である。多喜二達の闘いは孤立した閉鎖的なものではなく、名もない多くの民衆によって守られたものであったことを物語っている。このことをさらに多くの人に語り伝えることは、日本の解放運動に大きな意義がある。
…パンフレットより
【多喜二の年譜】
13歳頃、伯父のパン工場を手伝いながら、小樽商業学校に通学…16歳頃、短歌小品などを書き始めた。…18歳頃小樽高等商業学校に入学 志賀直哉を学び校友会誌にバルビュスの翻訳や小説を発表。…21歳拓殖銀行に就職。不幸な境遇の田口タキに出会う。…25歳3・15事件を題材に小説を書く。…26歳『蟹工船』を刊行。同じ年、小説『不在地主』が直接な原因で拓殖銀行を解雇された。…27歳中野区に上京、小説蟹工船などがから不敬罪、治安維持法違反容疑で収容。…28歳七沢温泉に逗留。『オルグ』完成その後、他4作品を書く。…そして29歳2月20日正午頃築地警察署特高に逮捕され…拷問により7時45分に死去。葬儀の参加者も一斉検挙されました。
ロマン・ロラン 、魯迅 からも弔電がよせられました。
…パンフレット年譜より
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