今
9月26日、午前3時55分
録画しておいた
遥かなる満州〜
ラストエンペラー愛新覚羅溥儀
というドキュメンタリーをみている。
ときがとおいむかしのようでもあり
きのうのようなじかんにも
感じるのである。
いま吾輩のいるとき3じ55ふんは
きのうのおわろうとしているときなのか
それとも今日のはじまろうとしている
ときなのであろうか?
今そのうちにちかいしょうらい
きのうまではエンペラーであったが、
きょうからは
百姓のひとりになってしまう
そんなラストエンペラーの如きが
なんにんかちかくのくにからは
でるようなきがするが?
大ばくちもとも子もなくすってんてん
満州映画の理事長甘粕正彦の
辞世の句である。
終戦5日後にいさぎよく自決。 54才
時の流れのできごとは
まるで「荘周の夢」のようですな〜
「胡蝶の夢 (こちょうのゆめ)」
昔者、荘周夢為胡蝶。
栩栩然胡蝶也。自喩適志与。
不知周也。俄然覚、則蘧蘧然周也。
不知、周之夢為胡蝶与、
胡蝶之夢為周与。
周与胡蝶、則必有分矣。
此之謂物化。
荘子の斉物論篇より
昔者(むかし)、荘周(そうしゅう)は
夢に胡蝶(こちょう)と為(な)る。
栩栩然(くくぜん)として胡蝶なり。
全くの蝶になっていた。
自ら喩(たの)しみて志に適するかな。
周たるを知らざるなり。
俄然(がぜん)として覚むれば、
則(すなわ)ち蘧蘧然(きょきょぜん)
として周なり。
目覚めれば、私は間違いなく
荘周であった。
知らず、周の夢に胡蝶と為れるか、
胡蝶の夢に周と為れるかを。
周と胡蝶とは、則ち必ず分有り。
此(こ)れを之(これ)
物化(ぶっか)と謂(い)う。
穴まどい胡蝶の夢に落ち込みぬ
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