晋祠(しんし)は太原の郊外にありました。
晋祠を観光地として売り出そうと
農家より田畑をめしあげ
広大な公園などを整備したが
観光の利益はそれほどでもなく、
近隣の百姓達がムシロ旗をたてて
抗議のノロシをあげた とか
ガイドの話
古来 土地と水は農耕民族にとって
死活問題 生命の源
日本でも同じですよね〜
その後どうなったかはしらず。
魚沼こしひかり のルーツはここに
あったのか などと言うと
次の話しの信用度が極端に落ちるかも
こしひかりというよりも
田んぼのルーツかな〜
四角い沼と十字の橋はまさに
田の字だよね〜
庭園に
心のなごむ
新樹かな
晋祠(しんし)は
周の成王の弟である
唐叔虞(とうしゅくぐ)を祀っている
成王が弟の虞と庭木を使い
「これを以ってお前を封じよう!」と
儀式の真似事をしていた
宮殿に帰ると 宰相が「虞さまをどちらに
封じましょうか?」と
成王は驚き「私は遊んでいただけ」と
宰相「天子に戯言なし!」 と
その頃 かの有名な周公丹が唐を征伐し
帰ってきたので、虞を唐に封じ
唐叔虞 とした。成王はまだ小さかった
ので、周公丹が摂政となっていた。
その後 その地は
汾水の支流である晋水が
流れていたので、国名を晋としたそうな
それからず〜っと後 晋は三つに分かれ
趙 魏 韓 となり
それぞれが戦国の七雄となる。
この三国を 三晋 と言う そうな!
成王の親父は武王と言い、牧野の戦い
で勝ち かの悪行の限りを尽くした
殷の紂王(ちゅうおう)妲己(だっき)
を滅ぼし 殷周革命を成し遂げた。
酒池肉林や炮烙(ほうらく)の刑等で
有名ですね。太公望や周公丹 等が
活躍していた頃の話です。
今から はるか3000年以上もの昔の
ことであります。中国古代史のおさらい
でした。
はるかなる
時は過ぎたり
青葉風
|