にわかに秋になったかと思ったら、ちょっと夏が戻り、
自慢のタテガミを誇示したくなる季節。
朝っぱらからジムインが騒いでいる。
『てんでんこ』が同人雑誌といわれるのが気に入らないのだって。
同人雑誌で何がいけないの?
『てんでんこ』の寄稿者は第7号までで23人になり、
第8号ではさらに数名の新規寄稿がある予定。
「同人」はいません。
「主義・傾向・趣味などを同じくする人たち」かどうかに主眼はないし
「共同で編集発行」しているともいえない。
同人費を徴収するわけでなし、合評会を開くでもなし
良質の《原稿》と製作《費用》が「てんでんこ」に集まって、
自ずから雑誌の姿に結実する……と言い張るのだけれど、
それが「同人雑誌」とくくられるのは自然なことなのでは?
とはいえ、理屈抜きの嫌悪感を払拭することも難しそうなので、
寄稿・寄金の面々は、「同人」ではなく、せめて「方人」(かたうど)、「同人雑誌」ではなく「方人雑誌」とでもお考えいただけるのが平和かとも……
発端は9月3日東京新聞夕刊のコラム「大波小波」なので
ここに引いておきます。
〈文学者魂、健在なり〉
井口時男の消息をしばらく耳にしなかったが、『文芸思潮』を読み返してみて、二十年勤めた東京工業大学大学院教授を退職していたことを知った。「〈名誉教授〉の称号をくれると云われたが辞退した。そんな肩書は似合わないし、使う機会もない。気分は隠遁者である」(「俳句的日常」)と意気盛んだ。
同人誌『てんでんこ』七号では「三十年ぶりに俳句を再開」と報告。同人に室井光広、田中和生らがいるが、室井は文化人に愛想を尽かしたか『文芸年鑑』名簿への登録を固辞し、市井に隠棲しているもようだ。
俳人の江里昭彦は、オウム事件の死刑囚・中川智正と出している『ジャム・セッション』六号で、寄付金を送ってくる篤志家に「生活費を切り詰めながら歯を食いしばって死刑囚を支援していると思われているのではないか(略)だとしたら全くの誤解である。創刊後もときどき海外旅行に出かけているくらいだから、暮らしにはまるで困っていない」と恐縮している。
こうした発言を聞くと、この国に高貴なる文学者魂健在なりとうれしくなる。漱石の博士号辞退や荷風の芸術院会員辞退(後に受諾)を「快挙だ」と口にしたこともある名誉教授、知識人諸氏よ、倣うつもりはないか。(三四郎)