田舎者の私にはじめて読むことの奥深さを教えてくれたのは、高校の国語教師であった。十五歳の春に生家を離れて下宿生活に転じたばかりの田舎者のアタマでは、すぐには理解できないにもかかわらず、「何か重要なことが言われている」という感触のトリコになった。S先生は、国語の時間の初っ端に、職業人としての物書きへの不信感をのべた後、「それにもかかわらず」読むことと生きることとの不可分の関係について味わい深い口吻で語り、強い印象を与えた。この「それにもかかわらず」という実存的な接続辞は、六十代になった現在も、ヨミカキの宿業の中核にからみついた〈肉の刺〉でありつづけているようだ。
S先生の口から洩れた「重要な」言葉のカケラとして今も覚えているのが、〈耳が語り、口が聴く〉とか、〈好みは千の嫌悪から成る〉とか〈書いたものに完成はなく、発表は事故の結果〉というようなものだ。もちろん、他にもたくさんあったけれど、今この三つをあげたのは、最近読み直したP・ヴァレリーのアフォリズム(?)の中に再び見出されたからである。
S先生は、誰が言ったのかはさして重要でない口ぶりで、これらの箴言を、耳が語るように話し、私も口が聴くようなムードで受取った。当時の私のカルチャーショックじみた新鮮なオドロキをヴァレリーふうに表現すればそうなるだろうか。
本コラムにすでに複数回、「青春の夢」の仕事に言及した折、わたしは〈ノート作家〉志願者だと書き、たとえその足元にも及ばぬと当初からわかっていても、真似事だけでもと願った先達として、キルケゴールや他のビッグな著作家の名をあげたのであるが、ヴァレリーは含まれていない。〈ノート作家〉の大物といっていいヴァレリーを、若い時から終始気にかけ、断続的に読みつづけた「にもかかわらず」、なぜ、当方の矮小な実存の理想の先達リストの中からは外されているのか、明瞭な説明はできにくいけれど、死ぬまでぬけない田舎者の習性で、五十代にしてアカデミー・フランセーズ会員に推挙され、世界ペンクラブ議長をつとめ、国立地中海中央研究所長となったあげく逝去時には国葬で儀式がおこなわれたといった「名士中の名士」ぶりに気圧された事実を、どうでもいいこととはみなせない気がする。
ヴァレリーの書いた「内容」に田舎者は今でも、深く同意せずにはおれない。にもかかわらず、その実存のあり方を、キルケゴール、カフカ、ベンヤミンなどのそれと並べると、たちまち後者が「一つの好み」を形成する。ヴァレリーを「嫌悪」したことはないにもかかわらず、敬して遠ざける自分がいるのである。
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