平塚がホームのクマとオサル

生まれた時から平塚で、なんとな〜く生きているクマと、そのクマと結婚してしまってから、遊び人として生きているオサルのブログ 1994年からベルマーレ平塚を見るようになり、1996年に初めて平塚競技場で生観戦。2000年よりシーズンチケットを嫁さんと二人分買うようになる。今は3席分買ってるけどね…
 
2017年05月27日 第16節 H 山形戦 0−1で敗戦
甲羅ぐま

今日は5月の27日。16:00からホームで山形戦です。
山形といえば、ウサミン(宇佐美宏和選手)やケンジ(荒堀謙次選手。栃木経由で山形へ)でしょうか。(あと、縁起でもないけど、山形には痛い目に合っている印象が…(どうも暗黒の時代の記憶が強い)でも、調べてみると過去10年の対戦だと5勝5分5敗。過去5年だと4勝1分1敗なんだよね。※2009年、2011年は山形のみがJ1で、2013年と2016年は湘南のみがJ1のため対戦無し。2010年と2015年は両方ともJ1で対戦)
山形とのプレシーズンマッチの観戦記を読み返してみると(練習試合なので載せるか不明)、体が縦横にでかい(何と言えばよいか、しなやかそうな筋肉がガッチリ、ムッチリとついていて背が高い印象)、フィジカルが強い、サイド(?)に早い選手が何人かいる、ロングスローを投げられる選手がいる、特に山形の2番と10番がイヤダと書いてありました。
まぁ、あの時は、こちらの選手は高負荷状態で疲労のピークだったので、勝敗については気にしなくても良いと思うけど、あの力強い前線からのチャージには要注意ですな。

この日は天気が良くて(おいちゃんたち夫婦は10時頃から総合公園にいたのですが、だいぶ日に焼けてしまいました)日陰に入って、風が吹けば気持ちが良い、てな感じの天気でした。

実はこの日、おいちゃんが長年「あー、やっちゃいかんなぁ」といつも思っているジンクスを破っちゃいました。(おいちゃんジンクスの1「試合日に総合公園内で、湘南ベルマーレが付いているものはもちろん、相手チーム由来のものも含め、ものを試合前に買ってはいけない。」唯一OKなのは今のところ“ベルマーレビール”のみ。“湘南”だけついているのは平気なんだけどなぁ。“ベルマーレ”とか相手チーム名や相手の地域名入りはダメなんですわ。今までこれを破って、何度負けたことか。)なのにじつは、山形の「炎のカレーパン」(辛口)を買ってしまいました。カレーパン好きのおいちゃんにとっては我慢できませんでした。先に謝っときます。「すんません。勝てなかったら、きっとおいちゃんのせいです」
(じつは、おいちゃんには、もう一つジンクスがありますが、それはおいおい…)

今日の先行入場者列番号は28番。嫁さんのオサルが先行入場者の順番取りに行って、5月3日のホーム山口戦で要塞前の席を譲っていただいたYさんと、お友達のAさんに合流したとのことで、この番号でした(合流しなければ40番ぐらいだったそうです)。いつもいつも、誠にありがとうございます。
今日も、ギリギリ要塞前の席が狙える列番号でしょうか。まぁ、今日で最後だし、狙ってみるかなと、先行入場をいたしました。今日も運よく席が取れました。要塞の時計の下(45分計の逆側。要塞の南側の下)でした。

両チームのウォーミングアップを見ていて、山形の選手たちの尻からモモ裏にかけての筋肉(俗にいうバケツ(馬尻)アレ、これは野球の言葉だっけ?)の太さに、プレシーズンマッチで見たときの印象を思い出しておりました。

さて試合は。0−1で負けました。
それも、アディショナルタイムに、PA外からシュートを叩き込まれて orz オイオイ…

「なんか、チームとしての熟成度が、完全に山形のほうが上だなぁ♯。」という印象でした。

福岡に負けたときの「チッ、やられちまったぜ―。くっそー!、次だ、次!!」てな感想には、まったくならなかったんですわ。

おいちゃん的には、個対個では、負けていた感じは、まったくありません(むしろこちらのほうが勝っていた?)。

だけど、山形は、ボールを奪取した後の対応が、何しろシステマチックに「前へ!!」が徹底していたと思うのですわ。

今回は、秋元陽太のスーパーセーブが2、3本あったのに対して、湘南の決定機は?う〜ん…あったっけ、と考えてしまうような出来でした。なんか「おしぃー!、それが枠に行っていれば…」とか「あっぁー、GK正面…」ばかりだったような気がするんだよなぁ。

最後に、未月と広数、今は、それで良いんだよ。よく考えて、経験を糧にしてくれ。

まあ、負けは負けだ!!次だ!次!!と、自分自身を鼓舞しながら、次はホームで長崎戦。相手は得点源のファンマが累積で有休。湘南は菊俊が累積で有休。要同士が有休の一戦です。楽しみだなぁ。







2017/05/25 22:19:03|日々の出来事
やっと見つけたUSB-ABM
甲羅グマ

デジタルカメラのSONY サイバーショットDSC-F505VのUSB-ABMケーブルをやっと手に入れた。昔に買った、DSC-F505VのUSBケーブルを今年度の頭ぐらいから探していたんだけど、やっと手に入れたよ。灯台下暗しで、Amazonにあった。ちょっとした検索ワードの違いだったよ。しかし、これを手に入れるために、ヤクオフで本体まで買ってしまった(これは、AC-DCケーブルも欲しかったんで、思わずポチッとしてしまったんだけど)。さて、本体1台分どうするかなぁ…
しかし。昔のSONYは、ユーザー泣かせだね。規格外れを平気で出しまくる。まぁ、10年以上は経過してから、文句は言えないけどねぇ…







その後 [暗黒の時代]
くま

しかし、Bellmareは消滅こそしませんでしたが、“暗黒の時代”へ突入していきました。

チームはメインスポンサーを持たない市民スポーツクラブとして「身の丈経営」を身上に運営されることになりました。

2000年は、結構有名なメンバーが選手、監督ともにそろったのですが途中で失速。フロントと選手間の確執が噂され、チームはシーズン終盤に空中分解してしまいました。
最終順位は11チーム中勝ち点45の8位(第1クール:5勝5敗、第2クール:5勝5敗、第3クール:4勝5敗1分、第4クール:1勝9敗)シーズン終盤は試合を見ていても一体感が無く、選手達がばらばらで、走らず、動かず、見ていて悲しい思いをしたのを覚えています。この為か、お客さんもずいぶんと減っていきました。この年の入場者数は、浦和戦以外で1万人越えは無く、浦和戦以外では7428人(当時トップを走っていた札幌戦)が最高でした。

ホーム最終戦ではたったの3498人しかお客さんがいませんでした。この時の最終戦セレモニーの内容は忘れてしまいましたが(忘れたことにしています)、客席にはパラパラとしかいない観客が、怒り、諦め、嘲り、罵り、悲しみ、混沌とした声援を挙げていました(あえて声援とします。聞くに堪えない罵詈雑言が結構混じっていたことは、“おらが村のチーム”と大事にしてきたものにとっては、とてもつらい状況でした。あのときは、ほんとに悔しかった)。

2001年は、元コロンビア代表のパラシオスが加入、1998年期限付き移籍で加入した栗原圭介がレンタル移籍で加入、メンバーは前年から比べるとガラッと変わってしまいました。監督も田中孝司監督に替わりました。そしてこの年、ワタシが長く贔屓にすることとになった鈴木良和がルーキーとして入団しました。
不安と期待がごちゃまぜになった開幕戦でした。開幕から10節まではまずまずの成績で3勝3v勝1分3敗の勝ち点16でした。が、後半失速して(栗原が怪我で戦線離脱した頃から失速。結構連敗しちゃいました。6月中頃から1か月間勝ち星無しとか(0勝2分5敗)、そのすぐ後に5連敗とか…)で、最終的には12チーム中、16勝4v勝4分20敗の勝ち点60でまた8位でした。
でも、この年は栗原圭介と高田保則がともに17得点しており、いい夢を見させてもらいました。あ、そうだこの年の試合中に茂庭がパラシオスに「モニ〜!ウェークアップ!!」と怒鳴られていたのが印象的で今でも覚えています。

2002年は、Jリーグのレギュレーションが変更となり、延長戦がなくなりました(Vゴール(ゴールデンゴール方式)がなくなった)。これで、現在のレギュレーションと同じになりました。

コロンビア勢は結局パラシオスのみの残留となり、ブラジル人MFのシルバを獲得したのですが結果大失敗。でもこの年は高校生ルーキー加藤大志、横浜FMから本橋卓巳、ちょいと遅れて(5月)浦和から吉野智行、さらに遅れて(6月)磐田から熊林親吾が加入しました。
さらにこの年、磐田から山田松市がコーチとして就任しています。

この年のワタシは、吉野と熊林の連携でずいぶん楽しませてもらいました。しかしこの年は、勝ったり負けたりと出入りが激しく、長い連勝も長い連敗もない年でした。最終的に12チーム中、16勝16分12敗の勝ち点64で5位でした。(しかし、5位といってもこの年は、4強8弱。上位4チームと(大分(勝ち点94)、C大阪(勝ち点87)、新潟(勝ち点82)、川崎F(勝ち点80)勝ち点でだいぶ隔たりがありました。)

ワタシは、この年の17節7月10日ホームで横浜FCを迎えた1戦が大変印象に残っています。雨台風で土砂降りの雨の中、観客数はたったの2120人。激しく降り続く雨にピッチはプール状態、この劣悪の環境の中で坂本紘司が1本、栗原圭介が2本決めて3−0の完勝でした。
途中で激しい雨のカーテン(雨量が多くて黒い大きな塊のように見えた)が南側からスタジアムに迫り、順にピッチを飲み込んでいくのを見ました。いやー、あの光景は感動しましたな。

この年は、クラブ側の変化もありました。この年に「特定非営利活動法人湘南ベルマーレスポーツクラブ」が設立されました。サッカーのジュニアとジュニアユースがこれに移管(これについては、所属する選手の親御さんたちと、いろいろあったようです)。
2001年に発足したトライアスロンとビーチバレーチームもこれに合流しました。

あと、この年を最後に、GKの伊藤裕二さんが引退しました。3年間、湘南の守護神としてゴールを守っていただきました。 引退セレモニーを憶えています。

また、前年はゴールゲッターでキャプテンだった栗原圭介が怪我のためパフォーマンスが上がらず、この年で戦力外通告を出され、退団しました。

2003年は、監督があの「白い呪術師」フィリップ トルシエと一緒に日本代表のコーチをしていたサミア(アジャム・ブジャラリ・モハメッド)が監督として就任しました。
まぁ、2002年までは日本代表のコーチをしていたのだし…と期待と不安があったことを憶えています。
そしてこの年は、新加入選手として石原直樹が加入した年です。サミアドン(当家ではサミア監督のことをそう呼んでいました)が指揮の第1節ホーム山形戦。雨の中、ワクワクしながら見に行きました。開始直後から選手が常に細かく足踏みをしていたのがとても印象的でした。1節は2-0で勝利したのですが、その後、ふるわず、14節ホームで甲府に0−3で負けて、3勝1分10敗で最下位になったところでサミアドンは辞任してしまいました。

あとを山田松市コーチが継ぎましたが、立て直すまでにはいかず、結局、15節以降は8勝10分12敗、サミアドンと合わせて、11勝11分22敗で12チーム中10位で終わりました。

ふがいない成績ではありましたが、この年、加藤大志がU−20代表候補とU−22代表に中里宏司がU−22代表に選ばれていました。

2004年は、なんといっても「ミスターFC東京」のアマラオの加入でしょう。あとワタシが期待していたのは佐野裕哉。贔屓にしている鈴木良和と中学生の時に全国優勝した選手です。

相手や場所を忘れてしまいましたが、練習試合で佐野裕哉と鈴木良和がファンタスティックなパス交換で相手をかわしていくのを見て歓声を上げたのを憶えています。あの時は「これなら!!」と思ったのですがねぇ(この記憶、2005年の開幕前だったかも…)。

でも、そこまでだったんですよ。結局。アマラオは全く機能せず(19試合出場で2得点)DFリーダーのパラシオス選手が9月末に柏レイソルへレンタル移籍…(その後は2004年を最後に退団。当時は“いや確かに柏の守備は崩壊しているけど、J2下位のチームから守備の要を引っこ抜くのは「お代官様、勘弁してくんろ〜」状態だろ!”と思っていました。)

この年は、昨年に引き続き山田松市監督を継続しましたが、成績がふるわず、22節を最後に解任され、その後を望月達也監督代行が引き継ぎました。

この年の松市監督は、3勝7分12敗の成績でした。

その後34節より上田栄治監督が引き継ぎました(上田栄治監督は、あの1999年の前半を指揮していただいた監督です。きっと、フロントも監督を引き受けてくれる方を探し回ったのでしょうね。そしてなかなか見つからなかったんだろうな…)。

望月達也監督代行は結局11試合を指揮し、3勝3分5敗の成績でした。

上田栄治監督が引き継いだ後の11試合は、惨憺たる成績で、1勝5分5敗でした。

2004年は、結局44試合して、7勝15分22敗の10位でした。

2005年は、柏から加藤望(確か合同トライアウトから引っ張ってきたはず。トライアウトとはいえ、よくあの当時の湘南に来てくれたなぁ)。何しろいつも落ち着いていて素晴らしいキッカーでした、C大阪から“問題児”佐藤悠介(湘南に来たときは既に問題児ではなく、ぶっきらぼうなにぃちゃんでした)、大卒ルーキーとして田村雄三が加入。助っ人外人として、クロアチア出身のバリシッチやガーナ出身のグラントを獲得しました。バリシッチ(当家ではバリちゃんと読んでました)は湘南のDFリーダーになりましたが、グラントは結局1回も出場せず8月に解雇。

フロントにはC大阪から強化部長として大倉智氏がフロント入りし、また、スタッフにはC大阪からジュニアユース監督としで貴裁氏が加入しました。

8月には元パラグアイ代表のカシアーノとクロアチアの年代別代表だったゴーランが加入。ゴーランは足元がうまくてできれば残って欲しかった選手でしたが、翌年に母国のチームに移籍しちゃいました。
カシアーノなのですが印象がないんです。確かFWだったと思いますが、得点のイメージがないです。
あッ、もう一人いた、森谷佳祐。湘南のトライアウトで入ってきた選手。デビュー戦でいきなり2ゴール!なんかすごい体勢からシュート(「おいおい、その体勢からシュートを打てるのか?!なんか、怪我しそうで怖いよ…」って感じでした)を打つのが印象的でした。(が、その後は怪我がちで、鳴かず飛ばずで2007年末に退団)
佐藤悠介は、上田栄治監督がボランチにコンバートして開花(最初のうちは攻撃的MFだったけど、いつの間にかボランチにいたなぁ。もしかしたらコンバートは2006年?)。“点を取るボランチ”“足元がうまい”“強いシュート”が印象に残っています。

また、8月には浦和から梅田直哉が期限付き移籍で加入しました。高くて強いCFWでした。確かこの年だと思うのですが、相手DFを2人引きずりながらゴールを決めたシーンが印象的でした。(だけど、結局怪我がちで2008年を最後に退団。好きな選手だったのですが…)

しかし何といっても、この年で一番印象に残っているのは、“湘南の貴公子”高田保則が横浜FCへ期限付移籍をしたことでしょう。最終戦の横浜FC戦終了後のヤスのパフォーマンスには涙しました(そういえば、1999年のワールドユース選手権のビデオをまだもっているなぁ。早く電子化しとかないとなぁ…)。

この年は、最初の2連勝以外連勝がない年でした。3連敗はあったけど…最終的に13勝15分16敗の7位でした。

あと、この年は、私事ではありますが、2000年からのホーム皆勤賞が崩れてしまいました。忘れもしない、2005年5月21日14時からホームで札幌戦の日の朝、庭掃除の最中に庭石を踏み外し、左足首の骨にひび(脛骨骨端に縦にひび)が入りドクターストップとなってしましました。結局ホーム戦13節と15節をお休みしてしましました。

この年末に高田保則、吉野智行、佐野裕也、鈴木正人、そして鈴木良和など、これまで中心選手として長年楽しませてくれた選手たちが解雇されました。(ワタシは大倉強化部長が大ナタを振るったんだろうなぁと想像していました。)

2006年は、なんといってもアジエルの加入でしょう。それから、当時、「なんで?」と言われていたヨシオちゃん(北島義生選手)が水戸から移籍してきました。(サポには、まだヨシオちゃんの存在意味が分からなかったのです。ヨシオちゃんは、のちに湘南のムードメーカーとなります。アジエルが「太陽」ならヨシオちゃんは「月」かな。中盤の潰し屋的存在で、年1ミドルを放ちチームを救う。パスやシュートが上手いわけではなかったけど、その明るい性格と中盤での的確な潰し役で、皆に好かれていきました。)

J2リーグとしてはJFLから愛媛が上がって来て、全13チームとなりました。

この年は、何しろ「メンバー一新!」てな年でした。

最初にアジエルを見たときは、なんてうまい選手なんだろう(ディフェンスはしないけど)という印象が残ています。ボールを全身を使って前に持っていく姿は(頭、肩、胸、膝、もちろん足を使って相手DFを抜いていく)痛快でした。湘南では初めて見るタイプでかつ若かった(1980年8月13日生れ。入団時25歳)。でも、はじめのころは一人で動き回り、相手DF複数人に囲まれてよくボールを取られていました。

選手のポジションコンバートが多かったような印象があります。

しかしこの年は、本当に勝てなかった!

シーズン途中、上田栄治監督が、20節終了時点で6勝4分9敗1休、16節から5連敗したところで辞任されました。(上田栄治監督はこの後(2006年9月)日本サッカー協会女子委員長に就任しました。)

その後を菅野将晃コーチが監督に昇格しました。

この年は栄治監督と菅野監督にまたがって8連敗、あと42節の水戸戦に1−0で勝った後、最終節まで勝ち無し(0勝1分7敗1休み)。

最終的に13勝11分25敗のチーム史上最低の11位でした。

でも、シーズン終盤は勝てなかったけど、何かを感じることができた試合が何度かあったのを憶えています。


以上、ここら辺までがワタシの考える「暗黒の時代」です。







サッカーチームの湘南ベルマーレをひょんなことから応援すつようになった…
くま


この話は、現在進行形です。

ワタシがこのチームに関心を持つようになり、ホームゲームはほぼ皆勤賞で観戦に行くようになったお話です。

初めてJリーグを見たのは、TV放送でした。Jリーグが創設され開幕した1993年に嫁さんと一緒にTVを見ていました。ワタシは独り者のときは、テレビでスポーツを見ることはありませんでした。というかTV自体あまり見ていなかったのです。時計代わりに点けている程度でした。嫁さんが野球ファンだったので(ファンといても時々テレビで見て、勝った、負けたと騒ぐ程度。ちなみに巨人ファン)嫁さんにつきあって時々テレビで野球中継を見る程度でした。このときもあまり画面を見ているわけではなく、嫁さんの一喜一憂をみて、面白いヤツだなーと人間ウォッチングを楽しんでいました。何しろ嫁さんは、ある程度、選手の個人応援歌まで知っていて、TV見ながらそれを歌うのです。それは、当時のワタシとしては考えられない行為であり、それを見るのが面白かったのです。しかし、当時のワタシにとっての野球は、“なんだか一部の選手がアスリートらしくないし(球技なのにデブがいる)、アメ公が商業的に作ったスポーツだし、なんかいまいち乗れないなー”てなこと考えていました。

1993年にJリーグが4番目のメジャープロスポーツ(相撲、野球、ゴルフの次)として初めて開催されました。このとき、日本はバブルに踊っていて(このときは世の中がバブルの崩壊に向かっていながらも、まだ浮かれていた時代でした。経済はじわじわと右肩下がり、暗い影を吹き払うようにJリーグバブルが騒がれ、ニュースではJリーグの経済効果がナンタラカンタラと騒いでおりました。)裏ではチケットが異様な高値で取引されたというニュースを聞いて、“なんだかなー浮かれすぎじゃないの”とか思っていました。バカサポの騒音公害でチアフォンの使用が禁止されたのもこのころでしたね。

運動音痴のワタシは基本スポーツが嫌い。見るのも何が面白いのかわからないというのが本音でした。が、世の中の流行りに乗って何度かJリーグをTVで鑑賞していました。

サッカーは中学や高校の授業で少々やったぐらいでしょうか。遠い過去に教わった時は年に2,3回サッカーをやったような気がします。授業でマラソンのとき早く帰った生徒はサッカーをする、てなことがありましたが、ワタシは運動音痴。マラソンは時間ぎりぎりに帰ってきてサッカーをした覚えがなかったように記憶しています。


そんなワタシがなぜにサッカー観戦にはまったのか?


サッカーをTVで見ていると、嫁さんがいろいろ聞いてきます。嫁さんは、野球はある程度ルールやチームを知っているようでしたが、サッカーは別。で、嫁さんは判らないことがあれば人に聞きます。(自分で調べるという選択肢はないそうです)で、判る範囲で説明しました。ただ、嫁さんに聞かれたことを正しく説明する事を良しとしているワタシにとっては、高校生時代を思い出し、判らないことは本を読み、少しずつサッカーを覚えていきました。

この当時は、世の中がJリーグバブルで、サッカーについての情報があふれていたので調べることはそんなに手間がかかりませんでした。(今のように発達したネットは無く、ネットで調べるような手段は、まだなかった時代です。)しかし、当時いろいろ調べ、またストーブリーグの時期になって、「期限付き移籍」という言葉を覚えました。他のプロスポ−ツではあまり聞いたことがありません。また、主要選手の移籍が他のプロスポーツというか、野球に比べて非常に多い点もなぜか、ワタシの琴線に触れたようです。


転機の1つ目。自分の住んでいる街にプロサッカーチームができました。


"平塚にプロスポーツクラブができた"まさに、おらが村のチームです。ちょうど1年間で、サッカー情報を頭に入れ、ある程度、実際にサッカーをTVで見ながらそのサッカーについて説明する事が出来るようになったときに、おらが村にチームができたのです。

1994年、始めて見たBellmare(TV観戦でした)。ベッチーニョとアウミールのドリブルを見てしまいました。中央を高速ドリブルで相手を抜きまくるベッチーニョ、サイドをウナギドリブルで駆け上がるアウミール(ワタシの印象だと、なぜか右サイド中央よりをヌルヌルと駆け上がっていくイメージが最も強いのです)、ワタシはこれにハマりました。なんて気持ちよさそうに走っているんだろう、と。

名塚、岩元や岩本、エジソン、田坂に名良橋、野口、反町、高田、若手の西山、それと伸さん、当時の愛すべき選手たちと、古前田監督とニカノールコーチ。DDIのちょっととぼけたコマーシャル。月刊Beや月刊ベルマーレ。

それからは、サッカーのTV中継を見る際には、必ずBellmareを探すようになりました。それは、時計代わりや人間ウォッチングの道具としてではなく、ただ、“おらが村のチーム”のサッカーを見るためにです。

1994年の田坂の眼窩骨骨折とベッチーニョの鼻骨陥没骨折、この知らせを聞きいたとき、顔面蒼白になりました。1995年にはヒデの加入。ワタシはガラにもなく狂喜乱舞してしまいました。チームはどんどん面白くなって行ったのです。1996-1997年のストーブリーグでベッチーニョが移籍。これはすごいショックをうけました。ワタシはこの時、ベットまだできると信じていたのです。

1997年にはロペスやミョンボが加入。国を代表する選手が何人もおりました。この時期がBellmare平塚の絶頂期だったように思います。

1994年から1996年にかけては、完全にバブルがはじけて、どんどん不景気になっていった時代です。このためなのか、放映権料が高いのか、だんだんとBellmareの試合を放送してくれるTVチャネルがなくなって行きました。

すでに、この時期には、Bellmareの試合をTVで放送していれば必ず見るようになっていましたが、Bellmareの試合放送がどんどん減っていました。もちろんBellmareだけではなく、サッカー放送自体がなくなってきていました。その当時はBS放送で一節につき2試合程度、他のチャネルで良くて2試合、普通は無しか1試合程度だったと思います。

そこでワタシは、1996年にBellmareの試合放送が見たいがために、地元のケーブルテレビに加入することにしました。この時期には、Bellmareの全試合をケーブルテレビが放送していたのです。


で、2つ目の転機です。ケーブルテレビ加入契約のおまけに、平塚競技場で開催されるBellmareの試合の招待券を2枚もらいました。


ワタシは、人混みが大嫌い。招待券をもらいましたが、その時はまるで行く気がありませんでした。でも、なぜか招待券を受け取ったのです。たぶん、“誰かにあげてもいいか”などと考えていたのだと思います。ところが、招待券をもらった時、そばに嫁さんがいたのです。嫁さんは遊びに行くのが大好き。遊びに行くのなら1人でもひょこひょこと行ってしまいます。ただし、遊びだけ。

招待券が2枚ある、と知った嫁さんがワタシにジワリジワリと圧力をかけてきます。“招待券、持ってるよね〜、その日は予定が何にもないね〜...で、その日は何時に出発するのかな?”確かに、招待券の日付には予定もなく、単純にワタシの「人混みが大嫌い」以外は何も弊害がありません。ついに嫁さんの圧力に負け“まぁ、たまには嫁さん孝行でもしておくか”と観戦に行くことになったのです。

カードは、京都パーブルサンガ。昼間の試合で、席はホーム側バックスタンド中央よりだったと記憶しています。このとき、お客さんがあまり入っていなくて、人混みが大嫌いなワタシでも、ゆったり・のんびりと試合を見ることができそうでした。

しかしこのとき、ワタシは試合前から競技場の雰囲気にのまれていました。試合前“なんかワクワクする!”これがその時の印象でした。試合中、必死に試合に見入っていました。声を出すでもなく、手を叩くでもなく、ただ見入っていました。このときの印象は“テレビで見るサッカーとはまるで別物だ!”でした。やはり「視界の広さ」なのでしょうか、目の前で展開しているサッカーが大まかに予想できるのです。いや、予想ではなく選手の意図が分かると言った方が当たっているでしょうか。テレビでは、競技場を端から端まで映すことは余りしません。当時のテレビ中継は、映す方も試行錯誤の時代だったのでしょう、選手の大写しが長く続いたり、ゴールシーンを試合の続きが始まっているのに何度も映していたり、今から考えるととんでもない映し方でした。このため、テレビでは「選手が連動して動く」が良く分からなかったのです。


ところが、競技場で、生で見るサッカーはそれが見えるのです。


Bellmareは“湘南の暴れん坊”と呼ばれていたイケイケサッカーでした。攻撃は、ほんとにどっから湧いて出てくるのかと思うような攻めが、たまに(1994年ごろのイケイケはこの当時あまりなかったような。時々、その片鱗が見える程度だった。)見ることができました。初めて自分から行った(?)スポーツ観戦は、驚きと爽快感、快感が入り混じったものだったと記憶しています。この後1996年〜1999年ごろ、ワタシは時々(年5,6回程度)、サッカー観戦のために平塚のスタジアムに足を運ぶようになっていました(もちろん遊び好きの嫁さんが常に同行していました)。この時期は、本当に、いろんな座席(角度)から見ていました。5、6ゲート以外で、上の方、下の方、中ほど、端やら中央寄りやら…天皇杯のときはメイン中央などなど。で、結果的に縦は中央から上、横はできるだけ中央寄りの位置で見るようになっていきました。


1999年、3つ目の転機がやってきました。メインスポンサーのフジタが撤退し、Bellmareの消滅危機が囁かれたのです。


前年の1998年には横浜フリューゲルスがメインスポンサーの撤退により消滅してしまいました。Bellmareも同じ道を歩んで消滅してしまうのか。主力選手はすでに1999年シーズン前に他チームへ移籍(まぁ、給料払えないので、できるだけ他チームに移籍しやすい−移籍金の発生しない−ようにしたらしいと、後に何かの文章を読んだ覚えがあります。)仕方がないとはいえ、多くの主力選手の移籍は、酷く悲しい思いをした事を覚えています。

1999年シーズンは、ダントツのビリでJ2へ降格しました。

もうこのときには、ワタシにとってBellmareは“おらが村、唯一のプロチーム”となっていました。(でも、この当時には、生活のほんの一部であり、優先度は結構低かったと思います。)


1999年シーズン終了後、本当の意味での3つ目の転機、Bellmareは消滅しませんでした。


ワタシは、消滅危機がささやかれ何とか次年の消滅が回避されたことを知った時、決めたのです。微々たることかもしれないけれど、経済的、肉体的に許す限り、シーズンチケットを買い続けよう。そして、観戦したらグッズを買おう、と。このときは、前に市役所に勤めていた、死んだ叔父さんの言葉を思い出していたのです。「つぶすのは簡単だけど、作るのは大変なんだよ。」と。

1999年シーズン終了後、すぐに2000年のシーズンチケットを嫁さんの分を含めて2セット申込みました。


これが、ホーム毎試合、参戦することとなるきっかけです。


その後 「暗黒の時代」へ続く







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