平塚がホームのクマとオサル

生まれた時から平塚で、なんとな〜く生きているクマと、そのクマと結婚してしまってから、遊び人として生きているオサルのブログ 1994年からベルマーレ平塚を見るようになり、1996年に初めて平塚競技場で生観戦。2000年よりシーズンチケットを嫁さんと二人分買うようになる。
 
その後 [暗黒の時代]
くま

しかし、Bellmareは消滅こそしませんでしたが、“暗黒の時代”へ突入していきました。

チームはメインスポンサーを持たない市民スポーツクラブとして「身の丈経営」を身上に運営されることになりました。

2000年は、結構有名なメンバーが選手、監督ともにそろったのですが途中で失速。フロントと選手間の確執が噂され、チームはシーズン終盤に空中分解してしまいました。
最終順位は11チーム中勝ち点45の8位(第1クール:5勝5敗、第2クール:5勝5敗、第3クール:4勝5敗1分、第4クール:1勝9敗)シーズン終盤は試合を見ていても一体感が無く、選手達がばらばらで、走らず、動かず、見ていて悲しい思いをしたのを覚えています。この為か、お客さんもずいぶんと減っていきました。この年の入場者数は、浦和戦以外で1万人越えは無く、浦和戦以外では7428人(当時トップを走っていた札幌戦)が最高でした。

ホーム最終戦ではたったの3498人しかお客さんがいませんでした。この時の最終戦セレモニーの内容は忘れてしまいましたが(忘れたことにしています)、客席にはパラパラとしかいない観客が、怒り、諦め、嘲り、罵り、悲しみ、混沌とした声援を挙げていました(あえて声援とします。聞くに堪えない罵詈雑言が結構混じっていたことは、“おらが村のチーム”と大事にしてきたものにとっては、とてもつらい状況でした。あのときは、ほんとに悔しかった)。

2001年は、元コロンビア代表のパラシオスが加入、1998年期限付き移籍で加入した栗原圭介がレンタル移籍で加入、メンバーは前年から比べるとガラッと変わってしまいました。監督も田中孝司監督に替わりました。そしてこの年、ワタシが長く贔屓にすることとになった鈴木良和がルーキーとして入団しました。
不安と期待がごちゃまぜになった開幕戦でした。開幕から10節まではまずまずの成績で3勝3v勝1分3敗の勝ち点16でした。が、後半失速して(栗原が怪我で戦線離脱した頃から失速。結構連敗しちゃいました。6月中頃から1か月間勝ち星無しとか(0勝2分5敗)、そのすぐ後に5連敗とか…)で、最終的には12チーム中、16勝4v勝4分20敗の勝ち点60でまた8位でした。
でも、この年は栗原圭介と高田保則がともに17得点しており、いい夢を見させてもらいました。あ、そうだこの年の試合中に茂庭がパラシオスに「モニ〜!ウェークアップ!!」と怒鳴られていたのが印象的で今でも覚えています。

2002年は、Jリーグのレギュレーションが変更となり、延長戦がなくなりました(Vゴール(ゴールデンゴール方式)がなくなった)。これで、現在のレギュレーションと同じになりました。

コロンビア勢は結局パラシオスのみの残留となり、ブラジル人MFのシルバを獲得したのですが結果大失敗。でもこの年は高校生ルーキー加藤大志、横浜FMから本橋卓巳、ちょいと遅れて(5月)浦和から吉野智行、さらに遅れて(6月)磐田から熊林親吾が加入しました。
さらにこの年、磐田から山田松市がコーチとして就任しています。

この年のワタシは、吉野と熊林の連携でずいぶん楽しませてもらいました。しかしこの年は、勝ったり負けたりと出入りが激しく、長い連勝も長い連敗もない年でした。最終的に12チーム中、16勝16分12敗の勝ち点64で5位でした。(しかし、5位といってもこの年は、4強8弱。上位4チームと(大分(勝ち点94)、C大阪(勝ち点87)、新潟(勝ち点82)、川崎F(勝ち点80)勝ち点でだいぶ隔たりがありました。)

ワタシは、この年の17節7月10日ホームで横浜FCを迎えた1戦が大変印象に残っています。雨台風で土砂降りの雨の中、観客数はたったの2120人。激しく降り続く雨にピッチはプール状態、この劣悪の環境の中で坂本紘司が1本、栗原圭介が2本決めて3−0の完勝でした。
途中で激しい雨のカーテン(雨量が多くて黒い大きな塊のように見えた)が南側からスタジアムに迫り、順にピッチを飲み込んでいくのを見ました。いやー、あの光景は感動しましたな。

この年は、クラブ側の変化もありました。この年に「特定非営利活動法人湘南ベルマーレスポーツクラブ」が設立されました。サッカーのジュニアとジュニアユースがこれに移管(これについては、所属する選手の親御さんたちと、いろいろあったようです)。
2001年に発足したトライアスロンとビーチバレーチームもこれに合流しました。

あと、この年を最後に、GKの伊藤裕二さんが引退しました。3年間、湘南の守護神としてゴールを守っていただきました。 引退セレモニーを憶えています。

また、前年はゴールゲッターでキャプテンだった栗原圭介が怪我のためパフォーマンスが上がらず、この年で戦力外通告を出され、退団しました。

2003年は、監督があの「白い呪術師」フィリップ トルシエと一緒に日本代表のコーチをしていたサミア(アジャム・ブジャラリ・モハメッド)が監督として就任しました。
まぁ、2002年までは日本代表のコーチをしていたのだし…と期待と不安があったことを憶えています。
そしてこの年は、新加入選手として石原直樹が加入した年です。サミアドン(当家ではサミア監督のことをそう呼んでいました)が指揮の第1節ホーム山形戦。雨の中、ワクワクしながら見に行きました。開始直後から選手が常に細かく足踏みをしていたのがとても印象的でした。1節は2-0で勝利したのですが、その後、ふるわず、14節ホームで甲府に0−3で負けて、3勝1分10敗で最下位になったところでサミアドンは辞任してしまいました。

あとを山田松市コーチが継ぎましたが、立て直すまでにはいかず、結局、15節以降は8勝10分12敗、サミアドンと合わせて、11勝11分22敗で12チーム中10位で終わりました。

ふがいない成績ではありましたが、この年、加藤大志がU−20代表候補とU−22代表に中里宏司がU−22代表に選ばれていました。

2004年は、なんといっても「ミスターFC東京」のアマラオの加入でしょう。あとワタシが期待していたのは佐野裕哉。贔屓にしている鈴木良和と中学生の時に全国優勝した選手です。

相手や場所を忘れてしまいましたが、練習試合で佐野裕哉と鈴木良和がファンタスティックなパス交換で相手をかわしていくのを見て歓声を上げたのを憶えています。あの時は「これなら!!」と思ったのですがねぇ(この記憶、2005年の開幕前だったかも…)。

でも、そこまでだったんですよ。結局。アマラオは全く機能せず(19試合出場で2得点)DFリーダーのパラシオス選手が9月末に柏レイソルへレンタル移籍…(その後は2004年を最後に退団。当時は“いや確かに柏の守備は崩壊しているけど、J2下位のチームから守備の要を引っこ抜くのは「お代官様、勘弁してくんろ〜」状態だろ!”と思っていました。)

この年は、昨年に引き続き山田松市監督を継続しましたが、成績がふるわず、22節を最後に解任され、その後を望月達也監督代行が引き継ぎました。

この年の松市監督は、3勝7分12敗の成績でした。

その後34節より上田栄治監督が引き継ぎました(上田栄治監督は、あの1999年の前半を指揮していただいた監督です。きっと、フロントも監督を引き受けてくれる方を探し回ったのでしょうね。そしてなかなか見つからなかったんだろうな…)。

望月達也監督代行は結局11試合を指揮し、3勝3分5敗の成績でした。

上田栄治監督が引き継いだ後の11試合は、惨憺たる成績で、1勝5分5敗でした。

2004年は、結局44試合して、7勝15分22敗の10位でした。

2005年は、柏から加藤望(確か合同トライアウトから引っ張ってきたはず。トライアウトとはいえ、よくあの当時の湘南に来てくれたなぁ)。何しろいつも落ち着いていて素晴らしいキッカーでした、C大阪から“問題児”佐藤悠介(湘南に来たときは既に問題児ではなく、ぶっきらぼうなにぃちゃんでした)、大卒ルーキーとして田村雄三が加入。助っ人外人として、クロアチア出身のバリシッチやガーナ出身のグラントを獲得しました。バリシッチ(当家ではバリちゃんと読んでました)は湘南のDFリーダーになりましたが、グラントは結局1回も出場せず8月に解雇。

フロントにはC大阪から強化部長として大倉智氏がフロント入りし、また、スタッフにはC大阪からジュニアユース監督としで貴裁氏が加入しました。

8月には元パラグアイ代表のカシアーノとクロアチアの年代別代表だったゴーランが加入。ゴーランは足元がうまくてできれば残って欲しかった選手でしたが、翌年に母国のチームに移籍しちゃいました。
カシアーノなのですが印象がないんです。確かFWだったと思いますが、得点のイメージがないです。
あッ、もう一人いた、森谷佳祐。湘南のトライアウトで入ってきた選手。デビュー戦でいきなり2ゴール!なんかすごい体勢からシュート(「おいおい、その体勢からシュートを打てるのか?!なんか、怪我しそうで怖いよ…」って感じでした)を打つのが印象的でした。(が、その後は怪我がちで、鳴かず飛ばずで2007年末に退団)
佐藤悠介は、上田栄治監督がボランチにコンバートして開花(最初のうちは攻撃的MFだったけど、いつの間にかボランチにいたなぁ。もしかしたらコンバートは2006年?)。“点を取るボランチ”“足元がうまい”“強いシュート”が印象に残っています。

また、8月には浦和から梅田直哉が期限付き移籍で加入しました。高くて強いCFWでした。確かこの年だと思うのですが、相手DFを2人引きずりながらゴールを決めたシーンが印象的でした。(だけど、結局怪我がちで2008年を最後に退団。好きな選手だったのですが…)

しかし何といっても、この年で一番印象に残っているのは、“湘南の貴公子”高田保則が横浜FCへ期限付移籍をしたことでしょう。最終戦の横浜FC戦終了後のヤスのパフォーマンスには涙しました(そういえば、1999年のワールドユース選手権のビデオをまだもっているなぁ。早く電子化しとかないとなぁ…)。

この年は、最初の2連勝以外連勝がない年でした。3連敗はあったけど…最終的に13勝15分16敗の7位でした。

あと、この年は、私事ではありますが、2000年からのホーム皆勤賞が崩れてしまいました。忘れもしない、2005年5月21日14時からホームで札幌戦の日の朝、庭掃除の最中に庭石を踏み外し、左足首の骨にひび(脛骨骨端に縦にひび)が入りドクターストップとなってしましました。結局ホーム戦13節と15節をお休みしてしましました。

この年末に高田保則、吉野智行、佐野裕也、鈴木正人、そして鈴木良和など、これまで中心選手として長年楽しませてくれた選手たちが解雇されました。(ワタシは大倉強化部長が大ナタを振るったんだろうなぁと想像していました。)

2006年は、なんといってもアジエルの加入でしょう。それから、当時、「なんで?」と言われていたヨシオちゃん(北島義生選手)が水戸から移籍してきました。(サポには、まだヨシオちゃんの存在意味が分からなかったのです。ヨシオちゃんは、のちに湘南のムードメーカーとなります。アジエルが「太陽」ならヨシオちゃんは「月」かな。中盤の潰し屋的存在で、年1ミドルを放ちチームを救う。パスやシュートが上手いわけではなかったけど、その明るい性格と中盤での的確な潰し役で、皆に好かれていきました。)

J2リーグとしてはJFLから愛媛が上がって来て、全13チームとなりました。

この年は、何しろ「メンバー一新!」てな年でした。

最初にアジエルを見たときは、なんてうまい選手なんだろう(ディフェンスはしないけど)という印象が残ています。ボールを全身を使って前に持っていく姿は(頭、肩、胸、膝、もちろん足を使って相手DFを抜いていく)痛快でした。湘南では初めて見るタイプでかつ若かった(1980年8月13日生れ。入団時25歳)。でも、はじめのころは一人で動き回り、相手DF複数人に囲まれてよくボールを取られていました。

選手のポジションコンバートが多かったような印象があります。

しかしこの年は、本当に勝てなかった!

シーズン途中、上田栄治監督が、20節終了時点で6勝4分9敗1休、16節から5連敗したところで辞任されました。(上田栄治監督はこの後(2006年9月)日本サッカー協会女子委員長に就任しました。)

その後を菅野将晃コーチが監督に昇格しました。

この年は栄治監督と菅野監督にまたがって8連敗、あと42節の水戸戦に1−0で勝った後、最終節まで勝ち無し(0勝1分7敗1休み)。

最終的に13勝11分25敗のチーム史上最低の11位でした。

でも、シーズン終盤は勝てなかったけど、何かを感じることができた試合が何度かあったのを憶えています。


以上、ここら辺までがワタシの考える「暗黒の時代」です。





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