※ リウマチと距離をおく俺がいた ※

[リウマチと距離をおく俺]は、俺の人生そのもので、リュウマチは、完治治療ない。40年も恐ろしいリュウマチに苦しめられたが、最近では体と相談しつつ、旅行など実行。ときどき、リュウマチが頭を上げてきたら、我慢のみ。その恐ろしい激痛の治まるのを待つだけ。ブログは快適な心の治療をしてくれる。
 
発症6手術前のリハビリ
(発症6手術前のリハビリ)
 手術前のリハビリなんて、今まで聞いたことはありませんで
した。何をするのか疑問だらけ・・「よし、まず体力を付ける
ために、最初はとにかく痛くても何でも、歩き回ってみようと
決意しました。」1日のメニューでは、この厳しい散歩が終わ
ると次のメニューは?周囲の人が同じ病気で入院していますが、
皆おとなしくベッドに横になっているか、起きて「ボーート」
しているか、本をよんでいるかのどれかに当てはまっていまし
た。しかし、私だけは、全く独自の別メニューでした。ベッド
にいる時間は寝るときか、休んでいるときくらいと思います。
ベッドで、よく使用する高低を調整する作業台のような机を借
りてきました。看護師さんには、こんな机なににするの?でし
た。「リハビリにつかうんだけど。」というと、「えー」でし
た。その机を一番高く設定したのです。なぜか?散歩から帰っ
て、疲れてぐったりしているにも関わらず、ベッドに腰掛けて
その高い机に足の先を乗せるのです。周囲の方は、なにがおこ
るのだろうと真剣に見つめていました。
曲がった膝を上から押して伸ばそうとするのです。これは、激
痛が走ります。しかし我慢して上から押し込み膝の裏の筋肉を
伸ばす訓練を根気よくしました。このリハビリは、一生わすれ
ることのないことと思っています。
看護師さんには、「感心だね。」と、誉められているのか否か
はわかりませんが。








発症5入院
(発症5入院)
 待ちに待った不安と希望の入院でした。入院すると、しばら
くは検査で過ごす毎日でした。手術日は、約1ヶ月後、と決ま
っていました。私の入院病棟は、6階で窓からの景色は最高の
場所でした。
野山がくっきりと、竹林それに海岸までみえるのですから。
このY病院のお風呂は、温泉だったのでした。温泉治療という
とかっこはいいのですが、そんなことは、当時全く考える余地
はありませんでした。でも、温泉です、入ればとても気持が良
くなります。又、お肌つるつるの状態ですね。
病室は、明るく、とてもきれいです条件が整いすぎている感じ
がします。副委員長の回診の日でした。この時は、I先生はい
ません。副委員長の診察は、初めてです。曰く「なんでここま
で悪くしてしまったの。」のお言葉です。
主治医のI先生との打ち合わせがありました。手術日の具体的
なスケジュールだったのでした。I先生は、この種の病では全
国で名の知れた名医でした。手術までの間は、何をすべきなの
かをお聞きしました。想像もしない答えが返ってきました。
それは、「とにかく、体力とリハビリで体の強化をはかり、手
術後の激痛に絶えるられるようにしなさい。」でした。これは
どういう意味なのかですが、私の足の状態は、膝が少し曲がっ
ているのです。その状態で筋肉が膠着しているので、手術後は、
縮まっている筋肉を強制的に伸ばすので、麻酔が明ければ激
痛が走ることは間違いのない事実だそうでした。しかし、余
り理解は出来ませんでした。
それからは痛い足を引きずって歩くことが、私に科せられまし
た。(先生は、君の膝はもう壊れているのでこれ以上は壊れる
ことはないです。)と言うのでした。入院してからは、会社関
係の方達が、大勢やってくるのでした。
これは、私にとっては、うれしいやら・うれしいやらでいっこ
うにリハビリは進まないのです。







発症4苦しい日々
(発症4苦しい日々)
 その後は気持の整理が着いたのか、体は悲鳴を上げていても
心は晴れやかになりつつありました。通勤時は、妻の運転でH
駅まで行きます。妻は、小生の後ろ姿を・・
「今日も無事に帰って来てね。」??駅に着けば、今の南口は
エスカレータが設置されましたが、当時は階段だけです。
ゆっくり、ゆっくりびっこをひきながら、一歩一本の階段の登
り、降りでした。これがこの頃のつらい、つらい日課ですかね
この通勤などは、地獄の通勤でした。今思うとよくできたなー
でも、これもこどもたちが学校の卒業の目途が着くまで葉の気
持だけです。小生の人生では、最も過酷な時期だったと思いま
す。このつらい日々を、これから手術によってどれだけ救って
いただけるかです。うれしさと不安が入り混ざってすごく複雑
な心境です。
I先生は、「楽になるよ。生まれ変われるよ。」でしたが・
苦しい日々、残酷な日々、激痛の日々からのがれられるのか?
あとは、手術だ。







発症3決断まで
(発症3決断まで)
 今日は、会社をお休みして先輩からお聞きしたY病院へ行く
ことにしました。妻と共に電車で約45分もかかります。病院へ
到着しました。
診察に入って、ここではじめて名医I先生にお目にかかりまし
た。第1印象は、すごく怖い先生というイメージで、今までに
ないタイプの若い先生でした。(1992年でした。)直ぐに病状
について先生との会話が始まりました。先生曰く、「なんでこ
んなになるまで、ほっておいたのです。?」でした。
そして、早い時期に「まず、手術しましょう。」の提案があり
ました。小生・妻驚くばかりでしたが、本当にいい先生に巡り
会えましたが、自分の考えでは直ぐに手術とはいきませんでし
た。ここでは、先生に懇願でした。私の会社のこと、息子の大
学のこと、娘の大学のこと、家のローンのことなどなど、多く
の懸念事項があることから、手術はその後になりますが・・
I先生は「貴方は、これから相当苦労しますよ。」でした。
その後、しばらくの間は、I先生の処方によって薬の治療に専
念することになりました。いい時期もあれば悪い時期もあり、
症状は段々悪くなり、小生も苦悩が隠せなくなってきました。
この間約10年くらいか?
長かったとおもいます。いろんなことがこの間に襲ってきまし
た。もちろん、つらい・ながい・どうにもならぬ気持などなど
やっと、その時期が来ました。あとは、野となれ山となれの気
持でした。妻・子供達と相談をしました。「おとうさんは、
もう歩けないよ。痛くてさ、・・」言葉になりませんでした。
その時には、小生の両膝は悲鳴を上げていました。手術しても、
もう元には、戻ることはないだろうとあきらめかけてもいまし
たが。朝、起床してさて会社の支度です。もう、小生痛くてあ
るくことができません
ああ・・痛い、いたい・・・つらいつらい










発症1発病かどうしよう?
(発症1発病かどうしよう?)
 記憶をたどると、私をはぐくんでいる病は、確か30才前後の
ころの発病かと思います。二番目の子供(娘)が生まれた頃だ
と記憶しています。
症状は、親指の付け根が、赤く腫れてとても痛かったのです。
この時、打ち身などの覚えが全くないのになぜかな?・・・
しかし、数日で痛みは消えてしまい病気の印象は、全くありま
せんでした。この時期、仕事の関係から、東京から浜松に転勤
をしてからのことでした。その後たびたび親指の痛みと腫れが
続きました。浜松では大病院と言われているS病院へ行くこと
にしました。ここでの診断は、先生はわたしの訴えを聞いたの
か聞かないのか判りませんが、ただ注射と薬をくれておしまい
です。「何か病気ではないのですか。」の質問には「単なる打
ち身で「直ぐ直る」の一言でした。
痛み止めの注射と痛み止めの薬だけでした。
結構いい加減な治療だなとしみじみ感じました。これからは、
薬を延べ場痛みは何となく治まっているが、赤さはそのままで
した。その後も、痛みと赤い腫れは断続的に続いたのでした。
おかしいと思いまして、H−I医療センターに行きました。
先生は、診察とお話の後に血液採取をしました。何か不安がよ
ぎったのが、この時だったと記憶しています。これで診察など
は終わりました。先生は、「間違いなくリュウマチです。」
といってました。結果は、1週間後の必ず来るように言われま
した。
先生の診断は、「リュウマチです。」でした。治療・・・と
説明していただきました。なんだか判りませんが、そのように
しなければと思いました。治療は注射のシオゾールと薬の併用
でした。しばらく、このH−I病院へ通うことにしました。
運悪くこの頃、浜松から静岡への転勤が決まったのでした。病
院は、静岡のS病院への紹介でした。この時期が私にとっては、
一番大切な時期だったので、断ることも出来ませんでした。
まさかこの病気が重大なことになるとは、夢にも思いませんで
した。
静岡の病院は、行くと先生が毎回替わって、浜松と同じ治療を
していました。先生に何かを聞きますとその返事が「しょうが
ないのさ」と言っていました。そのうちに私の体調も良くなり
始めていたのでした。良くなると言うのは、病気の状況が静ま
っているだけで、決して直ったと言うことではありませんでし
た。(リュウマチの特徴です)私は、このことを当時は知りま
せんでした。従って、病院通いは、・・遠のいてしまいました。
発症からすでに2年が経過していました。