※ リウマチと距離をおく俺がいた ※

[リウマチと距離をおく俺]は、俺の人生そのもので、リュウマチは、完治治療ない。40年も恐ろしいリュウマチに苦しめられたが、最近では体と相談しつつ、旅行など実行。ときどき、リュウマチが頭を上げてきたら、我慢のみ。その恐ろしい激痛の治まるのを待つだけ。ブログは快適な心の治療をしてくれる。
 
その後八回も
(その後八回も)
 職場復帰は、うまくのりきれましたが、今後も、病気に何回も襲われてきました。
足は、手術後は快調であり、最高の幸せを味わったものもつかの間に次、次とあちこちに、あの友人?が芽を覚ましだしたのでした。
部位としては、両股関節・両手首・指と襲われました。
もう、私自身も直すのは、手術しかないと決めてありましたので、痛いのが長引くと、耐えられなくなってきました。
早めに退治するようにしました。
       八回もです。
                体がぼろぼろです。
その中でも、股関節は1回失敗がありましたので再手術も体験して
みました。
 妻が「おとうさんがんばってね。」です。
    小生は、「もう、これ以上はがんばれないよ。」なんて
等々の会話もありました。
この間では、職場復帰も2回行いましたが、いずれもいい方向に行きましたので、この変わ理に変わった我が人生も自分流の人生だなとつくづく思う最近です。・・・・・・・・・・・・・・・・・
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   今でも、いろいろなボランティア活動をやっています。
自分にできることに、汗をかいています。
   スポーツは、なにもやっていません。
      理由は、リュウマチの外にも重大な病が
         約2年前に脳梗塞で・・・・・・・・・・
 
幸いにも、命は助かりました。後遺症もない・・・・・・
       のです。

  私は、ついているなと思いました。私は出来ることを頑張って
やります。小さな貢献がしたいので
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・読者の皆さんからの感想をお待ちしています。私の個人メールアドレスは
    buongiornokomei@yahoo.co.jp です。







発症1/1静岡→平塚(足が?)
(発症1/1:足が)
静岡に住むようになって、S病院へ通っても先生はいつも替
わってしまうし(日替わりメニューのようでした。)、診察
はなんにもしません。ただ、金注射(シオゾール)と痛み止
めの薬を貰うだけでした。くすりだけの状態が続きました。
(全く先生との話はありません、聞いても答えがありません。
つまりうーんと言うだけなのでした。)この状態が1年以上
は近く続きました。検査は何もしません。
しかし、この時期は体調が良かったので病院へは定期的には
いかなくなってしまいました。(まえにもかきましたが、こ
れがリュウマチのとくちょうなのです。)そのうちに、また、
転勤が決まったのでした。
      今度は東京です。
何度も転勤ばかりで・・・宿舎は平塚にやっと決まりました。
通勤には、約1時間30分はかかりました。毎日が旅行と一緒で
す。平塚に来てからの、通勤時は平塚駅まで8分くらい歩いて
通っていましたが、そのころ、突然に右足の膝関節が歩く旅
にボキボキ・ボキボキと、鳴るのです。嫌だな・・と思いつ
つ、通勤していました。
このボキボキが、リュウマチの再発症になったのかも知れま
せん。何気なく過ごしていましたが、すごく気になってきま
したのでHS病院へ行きました。しかし、レントゲンを撮っ
て「異常なし」で静岡と同じで金注射と薬を貰い担当の先生
はいません。真剣に見てくれい、相談に乗ってくれる先生は
ここも居ませんでした。
この時に、なぜ浜松まで通院しなかったのかを悔やまれます。
病気を、リュウマチをあまくみていたのでしょう。じぶんが
です。悔やまれます。)今思えば「先生自身が判らなかった
と思います。」それから半年を過ぎた頃から、足のひざが腫
れて、水がやまり、ひどく痛さを感じるようになりました。
「やんなっちゃうな」思わず飛び出したことばでした。通勤
地獄は何年も続くのでした。
この時、すでに発病から7年くらい経過していました。










発症2つらい日々
(発症2つらい日々)
通勤地獄は、若いときからなじんでいるのでなんにも感じません。当たり前と思っているのでしょう。
私が、まさかこんな予期もしてない地獄に落とされるとは思っても
いませんでした。
この世に神様はきっといないのだろうと思っていました。
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平塚市にあるM社宅に在住して、通勤時はH駅まで徒歩で8分くらいかかりました。
途中、足がボキボキ鳴るので、ひょっとするとまた、病気が芽を出してきたのかな、と思いました。
数ヶ月もすると、みるみる悪くなって激痛がはしりだしました。
悪くなるのは、とても早いのでした。
この時は、まだ、Y病院のI先生との面識は全くありませんでした。
H−S病院への通院も行ったり行かなかったりの状況でした。
半年くらいが、経過したときでした。
もう、痛くて痛くて、歩けない状態が続きました。
この時、もうボキボキの音は、しなくなっていました。
これは、かなり病気が進行しているのかと感じました。
しかし、会社は休めないし、

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発症13職場復帰
(発症13職場復帰)
 私にとっては、病気をやっと克服できたと思えば、今度は難関の職場復帰です。
いろんな事を考えると、不安と希望と交差して・・・・・
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職場復帰の一週間ほど前から、電車に一人で乗って東京までの往復を何度となく訓練しました。
駅での混雑は、電車が到着などのときにの、自分の行動は混雑具合が曳けたときとしました。
     これが、大成功しました。
これによって、少し自身を取り戻したような気がしました。
通勤は、もう大丈夫と感じました。
次は、仕事ですが、数ヶ月のブランクはありますが、持ち前の努力と粘りで、うまく入ることが出来ました。
   一安心でした。
・・・・・・・・・・・あーよかった。・・・・・・・・・・・

       めでたく職場復帰大成功でした。









発症12退院
(発症12退院)
 入院から、3ヶ月以上が立ちました。苦しかったリハビリも順調に仕上がってきました。体調も、足も快適な状態でした。
リハビリの先生とI先生の退院の許可が出ました。
私は、もちろん妻の喜びもひとしおでした。子供達もほっとした症状が伺えました。
妻は、私が入院してからは、1週間に6日は病院に必ず来てくれました。車で1時間もかかるのです。
待ちに待った退院の日は、病院の皆さんに感謝の気持ちで「ありがとう」でした。
もう一言「もうここでお世話になることはないようにしましす。」
といいました。
結果は、何度も何度もお世話になることになりました。
病院を車で出ることが出来ました。さて、最初はなにを?
昼食です、なにを?食べるかいろいろまよいました。
赤レンガでのステーキに決まりました。数ヶ月ぶりの外食、とても美味しかったことを記憶しています。
自動車も久しく乗って居ませんので、怖くてスピードを緩くして貰ったくらいでした。特にトンネルはすごく怖さを感じました。
やっと、我が家です。「さんちゃんただいま」第一声でした。
さんちゃんは、我が家の愛犬「三太郎」です。
今はもう亡くなってしまいましたが、とてもやさしく私を迎えてくれました。
足もすらっとし、散歩も目線が高くなったので快適です。これからが、大変です。体力を回復する努力が必要となってきます。
毎日、毎日一人で散歩をすることです。散歩が体力増強には一番効果があると思います。
 私にとって、次は大切な職場復帰のことでした。・・・・・・
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