※ リウマチと距離をおく俺がいた ※

[リウマチと距離をおく俺]は、俺の人生そのもので、リュウマチは、完治治療ない。40年も恐ろしいリュウマチに苦しめられたが、最近では体と相談しつつ、旅行など実行。ときどき、リュウマチが頭を上げてきたら、我慢のみ。その恐ろしい激痛の治まるのを待つだけ。ブログは快適な心の治療をしてくれる。
 
困惑する私
(困惑する私)
 先日から、病院を行ったり来たりの私です。
リウマチと高血圧と今度は腎臓だって・・・・・・・・・・・・
ついてないと思っている私は、いま心が乱れています。
リウマチをやっと改善でき、高血圧も改善に向かっているのに、今度は腎臓病と言われ困惑しています。
長期間の薬の服用や高血圧などいろいろな悪い条件が重複し、なったようですが・・・・・・・・・・・・・・・
まだ、63才です、ここで腎臓透析はかないませんので、徹底した食事療法で改善を図りたいと思っています。
もう、塩分とタンパク質とカリウムの削減は実行に踏み切りましたが、外食の時の対処の仕方がわかりません。
どなたか、おしえていただけませんか?
このブログを入力していますが、気持は複雑です。
病気は沢山ありませが、健康は一つしかありません。
頑張って、克服に向けて挑戦状を渡しました私でした。
 







続そして今は、U
(続そして今は、U)
 題目が、「続そして今は、U」となっていますが、内容は過去のことです。
前編の「そして今は」の中で、私のやっていることをお話しいたしましたが、その前の話しをします。
退職後、しばらくは鎌倉33観音巡り、東京下町ブラブラを半年間
無の状態で散策などしていました。
その後、私のやるべき事がまとまったのです。
それが、耳の不自由な方への伝達方法は、いろいろありますがその一つである「パソコン活用の要約筆記」に挑戦することにしました。
一例では、一般的な講習会・講義などは耳の不自由な方には、手話が主体となります。
この手話がパソコンに変わって、講座・講義等の内容をかいつまんで要約し、パソコンにその場で入力する方法で、要約する力とパソコンの入力の速度が要求されます。
要約筆記されたパソコンのデータは、会場のスクリーンに映されて
難聴者などが、それを見て理解することへのお助けをしていました。
これらの勉強を神奈川県藤沢市にある福祉センターに約8ヶ月通って、資格を取得しました。
それからは、要約筆記を活用して、いろいろの講座・講習会・教室などに出向き小さな、小さな貢献をしていました。
人生いろいろと言いますが、本当に充実した毎日が過ぎていきました。
・・・・・・・・・・・・・・・・・次編にします。・・・・・
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続そして、今は?
(続そして今は?)
 暑い日が過ぎ、涼しい秋日和がすがすがしくなってきた今頃です。
私は、いまなにをやっているか?との質問を受けました。
特に63才の私のやるべき事は、特にありませんが、このブログを始め別途では、地域の福祉活動は具体的にはできません。
しかし、福祉活動でも私の出来ることは、ただひとつあります。
ホームページを作成し、編集していくことです。
福祉活動の一環で、広報担当とでも言うのでしょう。パソコン隊なる結成をして、取りかかっております。
もう、1年数ヶ月は経っていますが、結構見られる形にはなっています。
もし、アクセスしていただけるならば、リンク先を載せておきます。

ご覧下さいません。一部については、まだ作成中のものもありますが・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
ホームページやブログを使っての活動をするには前置きがありまして、続編でお知らせいたします。
では、・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
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発症までの過程
(発症までの過程)
手の指や肩などが痛くなって、「おやー」と思う前の過程をお話しいたします。
結婚前ですが、妻の実家は名古屋にあります。私は、当時横浜に住んでいました。
今で言う遠距離恋愛になるのでしょうか?
新幹線が走っていましたから、名古屋までは数時間でいかれるよき時代になっていたのかも知れません。
この頃、テーブルに座れば、普通はビールなど飲むのかも知れませんが、私はお水です。
水をコップにいっぱいで、立て続けに3杯くらいは軽く飲んでいました。
しかし、思うといつも風邪をひいている状態が何となく、続いていました。
これは、たぶん鼻アレルギーだったのかと思っています。
こんな体調で、妻と結婚し、翌年は長男が誕生でした。
それからも、体調の変化はなく、過ごして参りました。
ある時、車で日光にいったときでしたが、私が車の運転をしていました。
旅館に到着したときに、右肩が痛くなって、手がしたにだらりと出来なくなってしまったことを覚えています。
そのことも直ぐにはなおってしまったのでしたが・・・・・・・・
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こんな些細なことが、判らないと今の私のような結果になってしまうかと思うと、なんともいえない気持で・・・・・・・・・・・
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そして横浜
(そして横浜)
「そして神戸」ではないです。
リウマチ財団20周年会合の帰りですが、レセプションは欠席させていただき、横浜の「みなとみらい」付近をぶらり。
昔のイメージでは、この付近はアメリカ駐留軍基地に近く、当時はアメリカ人が多く見られました。
子供心ながら思い浮かびます。
桜木町など懐かしい名前ばかりです。
懐かしいのは、私達が古くなってきたのかも知れません。
横浜の開港100年祭の時を思いました。人の山で行列など全く見えなくて、人の頭を見に行った感じがしました。
「みなとみらい」いいネーミングでね。
建物も近代的なものと、旧近代的なものと、いにしえのものが入り混ざったような横浜です。
歌にもありますように
「赤い靴 履いてたー 女の子 異人さんに つれられて
いちゃった。」なんて、歌知ってますか?
二昔も前の話しでした。