有り余る時間を楽しく過す極意を知った友人らとの交流の場。 環境にやさしい趣味の世界へどうぞ。 趣味は現役の時から持つと人生が倍に楽しめます。
 
2013/01/26 20:47:46|船の思い出
船の思い出・・・船出

船の思い出・・・船出
 
保証技師に推薦されると、業務担当者がある書類を持ってきました。英文がぎっしり書いてある2枚の契約書でした。最後の文章は、本人の遺体は家族の元に届けるので・・・・・云々とある、と日本語に約してくれました。その上でサインをしました。乗船してから下船し帰国の飛行機に乗るまでを船会社が責任を持つとか、船内での待遇のことが書かれていたようです。待遇は船長・機関長と同列で、キャビンは機関長の部屋の向い側でした。ブリッジの直ぐ下の階ですから揺れの影響は凄いものでした。
 
写真ー1
先輩から航海を愉しめのお言葉、叔父叔母からは無事に行っておいでの掛け声を頂き、やがて仮設桟橋が外されます。叔父叔母は既に他界しており、大半の先輩方はリタイアされています。
本船の手摺は客船などと違ってアングル材剥き出しの簡素で頑丈な作りです。大波を食らうとこのアングル材が軋むことをこの時点では想像もしませんでした。
 
写真ー2
左側の船は艤装中の姉妹船です。船主側艤装員も造船担当者も全員で見送ってくれました。女子社員の制服が懐かしいです。義父の笑顔も見えます。
 
写真ー3
本船が離れ自航し始めます。業務の担当や船主監督がずっと見つめています。別れのテープが風に舞い別れの余韻を残しています。
 
写真ー4
折戸湾を静に出て行くBORGNES号、背広姿の方は所長です。港に停泊中の船から処女航海を祝う汽笛が鳴り響き、応える汽笛の蒸気が煙突付近に見えます。軽荷状態のため船尾の舵が頭を出しています。
 
造船部門はとうに無く、最近では鉄骨事業も撤退とのことで寂しい思いもしますが、青春を過したあの職場での輝きは今も心の隅に残っています。グーグル地図を見ると当時の造船所の姿は見えません。スレート屋根の設計事務所は撤去されたのでしょう、姿がありません。







2013/01/25 20:49:05|船の思い出
船の思い出・・・保証技師の出立

船の思い出・・・保証技師の出立
 
昭和52年(1977年)30歳の春、JEBSENS―UKのBORGNES号に保証技師として乗船するよう設計部長から命令が出されました。二十歳の時、A係長に「夢を持て!」の激励を受け早10年が経過していました。「保証技師として乗船したい」という思いは実現しました。
清水、バンクーバ、バンコック、シンガポール、パース、フリーマントル、ブリスベーン、パナマキャナルを経てデルウェアに至る四ヶ月間の乗船は苦楽両面の幾多の経験を与えてくれました。
 
写真ー1
その当時の手持ち資料が残っています。機関の操縦系統図や運転許容諸元をはじめとする大半の機器類の取扱方法を一冊のノートにまとめたものです。
機関部のみならず、荷役装置、係船装置、居住区設備、電気系統機器、通信機器等あらゆる分野に関し知識を叩き込みました。
 
写真ー2
英語の辞書です。表紙がぼろぼろになり、英国雑誌の固めのページを補強につけたものです。指垢で茶色に変色しています。今だ使いやすい辞書です。
 
写真ー3
造船所の岸壁から離れるところです。「蛍の光」の裏悲しいような晴々しいような響きが今も耳の奥に残っています。
 
写真ー4
本船の乗組員達です。船長、機関長はじめ4ヶ月を共にした面々です。
航海中色んな面で教わり、支えられました。国が異なり、言葉が違い、生活習慣が異なっても相手を理解しあえることを学びました。大半の方が還暦以上でしょう。







2013/01/24 21:45:14|今日の出来事
竹をどんど焼きから救出

竹をどんど焼から救いました。
 
正月に帰省し近所のお寺に正月飾を納めに行きました。どんど焼きの準備がされていました。
太い孟宗竹を3本、どんど焼きにされる寸前に助け出しました。
どんど焼にするため、節間に空気抜きの孔が明けてあります。
焼かれるより竹とんぼに生れ変り、大空を駆け巡らせようと思いました。
 
日中は寒くなかったので久しぶりに庭に出て、節の
部分を切断しました。
 
乾燥するまで暫く掛ります。乾燥したら仲間の皆さんに配りましょう。







2013/01/24 21:09:03|船の思い出
船の思い出・・・保証技師への挑戦

船の思い出・・・保証技師への挑戦
 
昭和40年工業高校を卒業し入社、地方の造船所に配属されました。工場の直ぐ隣りに寮があり13畳の部屋4人部屋でした。
戦時中に立てられた木造二階建ての長屋でした。一階が家族寮、二階が独身寮で風呂場は離れた場所にあり、暗い電灯の明かりに湯船は黒ずんで見えました。
トイレは一階の片隅に和式の便器がひとつ着いているだけの寂しい風景を思い出します。勿論、水洗ではありません。
空調機や冷蔵庫なんかは夢の夢の時代、そんな環境ではありましたが、嬉々としてタイムカードをガチャンと押して仕事場に向いました。
造船所正門近くに「銀舟」という名の呑み屋さんがありました。新人が洗礼を受ける寺子屋でした。「自分のノートを作れ」、「将来の自分を描け」、「スタンダールの恋愛論を読め」などの熱燗で高潮した先輩の話を聞くことがOJTの第一歩でした。。
入社した年に係長になられたAさんからは、その後の会社生活に役立つ多くのことを学びました。世の中のことをほとんど知らない新人にとり、東京本社から赴任して来た上司は雲の上の人でした。
三十歳の自画像を描けとの問いに対し、何の考えも無く「保証技師として設計した船に乗りたい」と応えた記憶があります。
保証技師を乗せるのは外国船です。当然英会話が出来なければ候補にもなりません。十年後の自分を描き、そのためには五年後の到達点を、一年後の姿を、一月後の成果を生むために今日何をなすべきか・・・と思考する習慣を身につけよと薫陶されました。
数年後には一念発起し、木造十三畳四人部屋から抜け出しアパート暮らしを始めました。当時のお給金から六千円の家賃を出すのは至難の技でした。土曜日は出勤日で、NOVAも無かった時代です。夕刻三時間、米人宣教師の家に通い英会話のシャワーを浴び、そこで知合った友人と英会話サークルに通うようになりました。
君が一人前になる頃、造船はアジア諸国との競争となる、自己投資を惜しむな、先輩のノートを盗んでも読めの言葉が今でも脳裡に焼きついています。
 
写真ー1
日本鋼管清水造船所(記念アルバムより)
 
写真ー2
新入社員の頃・・・昭和41年か2年頃
設計事務所は2階建てのスレート葺き屋根で、天井の骨が丸見えでした。
課長さんは、机の下に水を入れたバケツを置き、その中に足を突っ込んでいました。
 
写真ー3
設計室での昼食風景。製図板の上に新聞を敷いて食事。
手前のヤカンが懐かしいです。
パッケージエアコンが数台設置されていましたが夏は暑く、冬は寒い環境でした。それでも夢はありましたね。皆さんが若く希望に燃えていました。
 
写真ー4
構内競技大会・・・体育館でのバレーボール大会。職場の輪、協同作業の基本を教わりました。
ネット手前の右アタッカーが輝いていませんか。
 







2013/01/23 20:46:00|船の思い出
船の思い出・・・馬力の推定

船の思い出・・・馬力の推定
 
入社当時の試運転での役割は、温度や圧力測定です。
瀬戸内海を航行する双胴船の試運転時には、双胴の船尾軸受や中間軸受の温度計測でした。体を捻りながら狭い隙間に頭を突っ込み計測した記憶が戻ります。
 
経験をつむにつれ、また適正を見られ次の担当を任されます。
インジケータ操作は、ピストンの動きと速度に合わせたタイミングで図指線図を記録しますから、目と手と耳の感が良くないと上手くいきません。スルザーエンジンを初めとする多くの機種の足袋を記録しました。
B&W、MAN、STORK、UEC、PCエンジンと色々経験しました。
熱気と騒音に晒されるので先輩が敬遠したのかもしれません。
燃料消費量の計測、回転数の計測など上位者が担当していました。
何年かするうちに係が変わり主機・軸系・プロペラ・自動化の担当となった時点では、コントロールルームに入り全体の指揮を執るようになりました。
試運転には船主監督や艤装員が乗船します。試運転結果は速報が出されます。速報を出す直前までに、主機出力・回転数・燃料消費率を計算、上司に報告し広報となります。
その際、主機出力の推定が重要で、インジケータからの馬力計算結果と合わせ各種の諸元相互に妥当性があるかを即断します。
 
写真ー1
ある船の主機出力の推定式です。
陸上運転の5つの諸元から最小二乗法により推定式を導きます。
負荷指針・給気圧力・シリンダー最高圧力・過給気回転数・燃料消費量の諸元から出力を推定する式を用意します。
今であればパソコンでグラフが直ぐ出来ますが、当時は手計算で求めました。
 
写真ー2
エンジンのご機嫌を指圧図から推定するインストラクションです。
エンジンメーカから支給される取扱説明書の抜粋をノートにファイルし診断の参考にしたものです。