船の思い出・・・保証技師への挑戦
昭和40年工業高校を卒業し入社、地方の造船所に配属されました。工場の直ぐ隣りに寮があり13畳の部屋4人部屋でした。
戦時中に立てられた木造二階建ての長屋でした。一階が家族寮、二階が独身寮で風呂場は離れた場所にあり、暗い電灯の明かりに湯船は黒ずんで見えました。
トイレは一階の片隅に和式の便器がひとつ着いているだけの寂しい風景を思い出します。勿論、水洗ではありません。
空調機や冷蔵庫なんかは夢の夢の時代、そんな環境ではありましたが、嬉々としてタイムカードをガチャンと押して仕事場に向いました。
造船所正門近くに「銀舟」という名の呑み屋さんがありました。新人が洗礼を受ける寺子屋でした。「自分のノートを作れ」、「将来の自分を描け」、「スタンダールの恋愛論を読め」などの熱燗で高潮した先輩の話を聞くことがOJTの第一歩でした。。
入社した年に係長になられたAさんからは、その後の会社生活に役立つ多くのことを学びました。世の中のことをほとんど知らない新人にとり、東京本社から赴任して来た上司は雲の上の人でした。
三十歳の自画像を描けとの問いに対し、何の考えも無く「保証技師として設計した船に乗りたい」と応えた記憶があります。
保証技師を乗せるのは外国船です。当然英会話が出来なければ候補にもなりません。十年後の自分を描き、そのためには五年後の到達点を、一年後の姿を、一月後の成果を生むために今日何をなすべきか・・・と思考する習慣を身につけよと薫陶されました。
数年後には一念発起し、木造十三畳四人部屋から抜け出しアパート暮らしを始めました。当時のお給金から六千円の家賃を出すのは至難の技でした。土曜日は出勤日で、NOVAも無かった時代です。夕刻三時間、米人宣教師の家に通い英会話のシャワーを浴び、そこで知合った友人と英会話サークルに通うようになりました。
君が一人前になる頃、造船はアジア諸国との競争となる、自己投資を惜しむな、先輩のノートを盗んでも読めの言葉が今でも脳裡に焼きついています。
写真ー1
日本鋼管清水造船所(記念アルバムより)
写真ー2
新入社員の頃・・・昭和41年か2年頃
設計事務所は2階建てのスレート葺き屋根で、天井の骨が丸見えでした。
課長さんは、机の下に水を入れたバケツを置き、その中に足を突っ込んでいました。
写真ー3
設計室での昼食風景。製図板の上に新聞を敷いて食事。
手前のヤカンが懐かしいです。
パッケージエアコンが数台設置されていましたが夏は暑く、冬は寒い環境でした。それでも夢はありましたね。皆さんが若く希望に燃えていました。
写真ー4
構内競技大会・・・体育館でのバレーボール大会。職場の輪、協同作業の基本を教わりました。
ネット手前の右アタッカーが輝いていませんか。