有り余る時間を楽しく過す極意を知った友人らとの交流の場。 環境にやさしい趣味の世界へどうぞ。 趣味は現役の時から持つと人生が倍に楽しめます。
 
2013/02/04 21:05:01|船の思い出
船の思い出・・・世界は広い・・・狭い見方は捨てろ

船の思い出・・・世界は広い・・・狭い見方は捨てろ
 
バンコックでの沖泊まりで驚いたことが幾つかあります。その一つが、伝馬船で多くの老若男女が本船に上ってきたなかに子供たちが大勢居ました。
居住区域の通路に来る子供は僅かで、大部分の子供たちはホールドに降りていきます。デッキクレーンのバケットがホールドの4隅には届かないため、粉状の荷物が残ります。その山を崩し、ホールドの開口部(ハッチ)の真下あたりに掻き寄せる作業を手伝っているのです。バケットが急速度で下降し、ホールドの壁や底にぶち当たりガーンと鈍い音を発します。見ている方が気が気ではありませんでした。
労働基準法があるか否かは知りませんが、小学校低学年くらいに見える子供たちが・・・・です。
 
世界の何処にも日本のような生活環境があると思っては大間違いよ、とボースンが囁いてくれました。生活のためだ。居住区の通路に居る子供たちは親が雑貨の商売をしているからまだしも、ホールドに降りている子達は、親を亡くしたかもしれないね。
決して哀れみの目を向けるな、にこやかに接しなさいとも諭されました。
バンコックの港に港湾施設が充実した時点では彼らの仕事は無くなるからどちらが幸せか判らないね。
その夜のバーでの会話でした。
 
写真ー1
その日のことを語らい合うひと時。乗組みの方々が世界で見聞きしたことをまじめに聞いています。
手元にはビールも何も無いですね。ナイトキャップ(寝る前の一杯)には未だ早い時間だったのでしょう。JEBSENSのテーシャツを着込んでリラックス。某社の作業帽と交換したものです。
 
写真ー2
ホールドの大きさは子供たちにとってどの位の大きな建造物に感じたことでしょう。
大雑把に縦横25m×深さ15mの箱の中に入った感じはどんなであったろうか。
集いの場(バー)は、Cデッキの中央・前部の区画だったと記憶しています。
 
写真ー3
本船の要目を再確認したところです。
(写真ー2・3とも絵葉書より)

写真ー4
難しいことは忘れてほろ酔い気分。
明日の出港に備えまたまた乾杯となりました。
2ndエンジニアはこの航海を終えたら大学に通い、機関長のコースを受講すると語っていました。







2013/02/03 19:54:01|船の思い出
船の思い出・・・バンコック・・・沖泊まり

船の思い出・・・バンコック・・・沖泊まり
 
バンコックでは港の岸壁には着岸せず沖に泊まりました。艀(はしけ)が本船のホールド廻りに何艘も集結します。
そのうち、手掻きのボートが数十隻、本船のキャビン廻りに近寄ってきます。物売りの船です。ロープ梯子を上甲板から下ろすと、たちまちの内にキャビンの通路という通路に出店が出ます。
船長からはキャビンの鍵は絶対に開けるなと厳命されていました。老若男女の売り子たちが通路に溢れてきます。カセットテープを鳴らし呼び込みが始まります。「お兄ちゃん!いかが?」という日本語も聞えます。レンタルワイフという言葉もこのとき教わりました。
 
当方はそれどころではありません。デッキクレーンのトラブルを治すことに専念しなければなりません。停泊して次の日、メーカの技術者が本船に到着しました。フィリッピンから飛んで来たとのこと。他の船でも同様なトラブルが発生し、修理して帰国しようとしてところ、タイへ飛べとの指令が会社から来たそうです。
エンジンルームからの振動が、デッキクレーン内に設置された制御機器の固有振動数に共振し、サイリスタコントロールの細い導線を切断したことが判明しました。本船だけでなく他社の同型制御装置でも発生していたとのことで、原因が判明、対策が打てることになりホッとしました。
 
写真ー1
制御機器の予備品をそのまま取り付けたのでは、同じことになりますから共振振動数を下げる方法を選択しました。
電気技師のトニーがシリコン樹脂で部品同士を抑え、共振点をずらす手立てをしています。
作動テストの結果復旧しました。バンクーバーからバンコックまでの1週間一寸の重荷が下り、ビールが美味かったです。
 
写真ー2
デッキクレーンの故障も直り、ボースン(左)も大喜び。コーチャン、今夜は私がおごるよとご機嫌でした。ボースンからは下船後、ある手紙が会社に届いていました。
 
写真ー3
作業を終えた電気技師のトニーとクルーの食堂で昼食です。オフィサーの昼食は、作業衣から正装(ノーネクタイですが)に着替えオフィサーズメスルームで食事をする慣わしです。女性の乗り組が料理を運んでくれます。面倒につき最初の数日でクルー食堂での昼飯としました。
 
写真ー4
その晩のバーの様子です。ボースンはじめ若手のクルーも大はしゃぎでした。







2013/02/02 20:07:04|船の思い出
船の思い出・・・新設備の操作指導

船の思い出・・・新設備の操作指導
 
新造船での処女航海では、機関室の諸設備は乗組みにとり初めて動かすものばかりです。
調査依頼もまちまちです。時には煙突の近くで異音がするから見てくれとの依頼。何のことは無い、レーダー支柱を支えているロープのターンバックルが振動で緩んでいたりと雑多です。初めて送り込んだタンクから水が吹き出ている!調べてみるとアラーム用のフロートスイッチの接点が逆に接続されています。試運転では使わないため擬似信号を出していたもので、元に戻していなかったなど、電気関連の誤作動に追いまくられました。
 
沿岸が近くなると、糞尿処理設備を作動させ浄化してから海に排出します。コーストガードに見つかると罰せられるので乗組みも必死です。
 
写真ー1
本船の船名が鮮やかに刻まれたブリッジの上のコンパスデッキです。波みたいなマークが船会社のファンネルマークです。
異音を発していたターンバックルが見えます。
 
写真ー2
バンクーバー沿岸が見え始めました。沿岸警備隊の監視が始まります。船外にゴミを捨てるな、糞尿を垂れ流すなの放送が流されます。
 
写真ー3
し尿処理設備が上手く作動しなかったら保証技師の面目丸つぶれです。
英文の取扱説明書を読み、ノートにポイントを書き込み操作方法を頭に入れます。太平洋のど真ん中では垂れ流しだったと思います。
 
写真ー4
し尿処理設備のフローシートです。カナダの海岸線を眺めてゆっくりしようとしますが、いざという時の準備に、頭はノートのフローシートで一杯です。沿岸規制海域に至る前に、乗組の手で無事動かすことが出来ました。







2013/02/01 20:20:42|船の思い出
船の思い出・・・船内での娯楽・・・生活の知恵

船の思い出・・・船内での娯楽・・・生活の知恵
 
船内には乗組員と小生とで30名ほどです。
狭い船内に何ヶ月も居れば、一寸した諍いが発生します。
そこは全員の努力でストレスを発散します。何だかんだと理由を付けパーティーを開きます。
赤道祭のような慣習やグレートブリテンの公式行事のほか、誰々の離婚記念日だとかとにかく愉しむ努力をします。
これには参加しなくてはなりません。
飲むところはメスルームという酒場兼歓談室です。オフィサー用の部屋とクルーの部屋が別々にあり、日頃は仕切りの壁を塞いでいます。緊急時の避難用通路(孔)が設けられています。
 
部屋に入る時には、冷蔵庫からビールなりジンジャエールなどを取り出し、個数と氏名をノートに記録します。
マナーとして、先に座っている人がいたら必ず「誰か欲しい人いない?」と聞き、「ビール一缶!」と返事があったらその分も自分の数量に加算し記録します。これはお互い様です。
大勢居た時は一寸なー?と思いますがそこは我慢。船内では税金が掛りませんから。
この費用は下船する時清算されます。したがって船内ではお金は一切必要ありませんでした。
造船所で乗船した直後、船長に全てのお金を預けます。途中の港で散髪をしたりピザを食べたりする時は、下船の報告と同時にこのくらいで間に合うだろう、と船長から現金を受け取ります。
 
写真ー1
テーブルの上には、札幌ビールやハイライトが見えますから日本を出て間もない頃だと思います。冷蔵庫や冷凍庫に日本の製品が未だ残っている証拠です。
右の男性はパーサーです。パーティーや一杯のみの時にと誘うと色々便宜を計らってくれます。
 
写真ー2
メスルームの入り口付近。バーにはボトルが色々並んでいます。
 
写真ー3
2ndオフィサーと歓談中。話す内容は将来の夢や家族のこと。
酔っ払ってくると給料・上司・女性のこと。何処でも共通の話題ですね。
 
写真ー4
それでも深酔いせず、キャビンに戻ればノートを開き、デッキクレーンのトラブルシューティングを行なうわけです。







2013/01/31 20:27:55|船の思い出
船の思い出・・・太平洋上での出来事

船の思い出・・・太平洋上での出来事
 
デッキクレーンの制御関連がおかしいことは判りましたが、どのように修理するかのアイディアは電気技師のトニーも判りません。結局、トラブル処理に追われ、バンクーバーでは一度も上陸しませんでした。
銚子の電波塔にモールス信号が届く海域に達し、漸く造船所の業務課技術支援のメンバーにことの事情が伝えられました。現在のように衛星電話がある時代ではありませんからモールス信号か、港に着けばテレックスでした。勿論、通信装備品には機器は搭載されていますが、会社への直接連絡は出来ません。
通信士と電気技師が何故か仲良しで、電気技師と小生が馬が会い、通信士には度々陸上(造船所)との連絡に労をとって頂きました。
 
次の寄港地はバンコックです。バンコックでは沖どまりです。バンコックにクレーンメーカの技術員派遣を要請し、結論が出たのが赤道を通過する頃でした。
赤道祭の日にはプールに海水を貼り、初めて赤道を通過する人を洗礼するのです。
コーチャンは保証技師でこれからも居なくてはならぬ役目柄だからと、プールに放り込まれることだけは免れました。本船にはちゃんとプールが着いていました。船員になる人が少ないのは、日本も同じだと船長が語っていました。プールは職場環境改善の一環だとのことでした。
 
写真ー1
バリ島沖を航行中。半ズボンですから日曜日でしょう。
40度近い大気温度ですが、湿り気が無くそれほど暑いとは感じませんでした。
 
写真ー2
通信士のブライアン?さん。豪快にビールをあおる方でした。通信士の部屋で駄弁る仲となりました。
 
写真ー3
赤道祭でネプチューンから頂いた「クロス ザ ライン」の証明書です。M.V. BORGNES の船名と船長のサインが見えます。おそらく湿式のコピー機で作ったものでしょう。今では黄色に変色しています。
 
写真ー4
赤道祭の夜。プロビジョンデッキで南十字星を眺めながら酩酊しています。缶ビール、スコッチウイスキー、バーボンあたりを両手に持っています。
「愉しんでるかい?」 「エンジョイ バイ ユワーセルフ?」が飛び交う一日でした。